当然のように1つのソファの中の聡の隣に座った将。聡は少し腰をずらした。あまりに将が接近して座ったので、少し距離を置くためだ。
それでも同じソファの中、将の体温というか香りというかオーラが聡に迫ってくる。
「ネイルどうだった?」
将は自分が発しているさまざまなものに気付いていないのかまったく悪びれる様子もない。
「……よかったよ。すっごくいいヒトだったよ」
聡は答えながらも、やはりときめきを抑えられない。毎日教卓の上と下で顔をあわせているのに。
こうやって制服を脱いだ将は、教師と生徒という制約を少しだけはずしたような感じで、だからこそよけいに聡は我慢をするのが苦しい。
二人が教師と生徒になってもう2ヶ月以上になる。
将と親しい井口や、一部の女子生徒は二人の接近に気付いているものの、表面上は、それ以上には、なっていない。
『やましいこと』は何1つない。外見上は。
が、聡は日に日に増殖していく自分の心をもてあましていた。いまは辛くも理性で押さえているけれど……。
聡は、高校時代の同級生の女子生徒を思い出していた。若い男性国語教師に恋をし、アタックを繰り返したあの子。
同学年の彼氏と付き合っていた聡はあんなオジサンのどこがいいのか、とからかったりもした。
が、そのたびに彼女は
「ふん。あんたたちに○○先生のよさがわかるわけないし。あたし絶対○○と結婚するんだもん」
と夕陽にむかって瞳をキラキラ輝かせた。なんと彼女は卒業とともに、その国語教師と結婚したのである。
そして、聡が大学生になった夏休みにもっと仰天する告白を聞くことになる。
「実はさ。私、高3のときから、○○と何度もシてたんだよ」
18歳で人妻となった彼女は大きなお腹をさすりながら、隠す必要もなくなった秘密を暴露した。
――そりゃそうだ。そうでなければ夏休みにもう8ヶ月なんてね。
しかし、あのときその告白を聞いた聡はとても嫌な気分になった。なんといっても同じ国語教師に習っていたのである。
冗談1つ言わず、真面目な顔で受験指導をしていたあの教師が陰で友達と寝ていた。何度も、子供ができるほどに。
同級生とさんざん同じようなことをしているにもかかわらず、聡はその教師のことをとても不潔だと思った……。
しかしだ。男性教師と女子生徒だったら、まあよくあるケースと言えるだろう。
20代後半の男性と17~8の女子生徒なら年まわりもちょうどいいと言えなくもない。ドラマとか漫画とかでも見かける設定だ。
だけど、女性教師と男子生徒の場合は。不潔感はその比ではない。その非は、男子生徒のほうではなく、主に年上の女教師のほうに問われるのは間違いない。
「年上のくせに」
「教え子に欲情して」
「教師失格」
「けがらわしい」
聡は自分への責めの言葉を容易に想像できた。
しかし、そんなことはむしろ小さなことのように思える。
将の思いを受け入れたい聡を阻害するもの。その1つが将の未来、可能性だった。あのアンケートに将はこんな風に答えていた。
『将来なりたい仕事はあるか』
アキラの彼氏。
『今、何をしているときが一番楽しいか』
アキラと二人きりでいるとき。
『これから始めたい趣味はあるか』
アキラが喜ぶことぜんぶ。
職員室でこのアンケートを読み返したとき、聡は喉につきあげてくるほど胸がいっぱいになると同時に、そこまで将の心を独占している自分が怖くなった。
激しい気性を持つ将は、いつか自分のために未来までゴミ箱につっこむのではないか。それが怖かった。
「アキラ、アキラってば」
将に呼ばれるまで聡はぼーっとしていたらしい。
「ん……?」
聡はあわててマグカップを唇にあてた。半分ほど残った、『本日のコーヒー』はすっかり冷めて苦いばかりになってしまっていた。
「何、っボーっとしてんだよ」
将は薄いサングラスをはずした優しい目で聡を見た。
この2ヶ月の間で、ますます男っぽくなった、と成長期にある彼を思う。長い首の途中で節のように喉仏が飛び出している。教卓から、制服姿の彼を見下ろしている限りは見えない喉仏。
だけどこうやって同じ目線で座るとそれは聡の内部に火をつける……そうなると聡はもうダメだ。
将がどんな風に自分を抱くのか、そんな妄想から逃げるためには聡はそっぽを向くしかない。今回は視線をかろうじて冷めたマグの中に落とした。
「ん。少し考え事してた」
「もー。聞けよ。アキラ、来週の金曜日誕生日だろ」
「そうだけど、なんで、知ってるの?」
「教員ファイルを見た」
隙をみて職員室に忍び込んで、パスワードをGETしたという。あいかわらず頭脳犯は健在だ。
「26歳になるんだよな」
「うん」
この年になると、あんまりおめでたくない。それに……。
「9歳違い、かー。でもあと5ヶ月で今度は俺が18になるよ」
4月生まれ、牡羊座生まれの将。星占いにはいかにもそれらしい性格が示されている。
将は『18になったら結婚だってできる』と言おうとしたが、聡の言葉がそれを遮った。
「うん。でも将と比べたら、オバサンだよ」
「そんなことない。……アキラ、今、俺のこと、何て呼んだ?」
将はいかにも嬉しそうに訊き返した。
――しまった。つい。名前で呼んでしまった。
もう、心の中ではずっと前から名前で呼んでいるから……。
「ちょ、ちょっと間違えたのよ。鷹枝くん」
聡はあわてて言い直したがもう遅い。
「いいってば!ショウで。他に誰もいないし」
「だめよ。癖になっちゃうもん」
聡は薄くコーヒーが残るマグを低いテーブルに置いた。
「いいーってば!」
「ダメよ!キャ」
将はカフェのソファのうえで、隣の聡を急に抱きよせた。聡の頭をぎゅうっと自分の胸板に押し付ける。
「ちょっと、ダメよ。人が見てるし、ちょっと」
聡は皮の匂いと干草のような香ばしい匂いが混ざった将の腕の中でもがいた。
皮のジャケットの下は、どうやらTシャツ1枚らしい。聡が押し付けている頬の、木綿1枚の下は将の素肌だ。
熱い将の血潮が肌をつたわって急激に脳天にまわったようで聡はクラクラした。
「ショウってもう1回呼べよ。呼ぶまで離さない~っと」
将は細くて華奢な聡の肩を抱きながら楽しげに言った。
さっきのんだカフェモカより甘く感じる聡の香りが将をさらにハイにふるまわせる。
聡は飴色のブーツを履いた足をバタバタさせた。
「もうやめてよ!……ショウ、ってば」
将はパッと聡の肩をつかんで元の位置に戻してあげた。
髪がぐしゃぐしゃに乱れ、頬を桃のように染めて可愛らしいその姿は9歳近く年上とは思えなかった。お洒落関係の仕事の訪問だから、普段学校で見る服より少しお洒落をしてきている。
スカートだし、髪も下ろしてきているのだ。将は笑いながら、乱れた聡の髪をなでつけるのを片手で手伝ってあげた。そして提案。
「来週さ。アキラの誕生パーティしようよ。俺と二人で」
「そんなの、まだわからないわ」
聡はまだ怒ったふりをしてツンと横を向く。実はまだ心臓がバクバク言っている。
将は「どうせ博史はこれないんだろ」と付け加えた。
聡は向き直ると「わかんないわよ。急に飛んでくるかもしれないし」と答える。本当のことをいうと博史の名前なんか出して欲しくなかった。
聡はほとんど残っていないマグをとると、残った液体を、上をむくようにして流し込んだ。
将は、そんな聡をみながら、来週は二人でもっと幸せな時間を共有できることを信じて疑わなかった。
そのとき、カフェの外、ガラスの向こうの夜の街から、ソファの上のそんな二人を見ている男がいたことに、二人はまるで気付いていなかった。