冷たい雨が降りしきる山道を歩いて下る二人は、心細さを紛らわすように、聡の提案でしりとりを始めていた。
「リンゴ」
「ゴ……ゴリ!」
「ゴリってなんだよ」
「あら。金沢名物の魚よ。知らないの?」
二人でやるシリトリは、かなり長く続いている。もう15分も続いているだろうか。
こうしてゲームをしていると、雨の冷たさも、サンダルが滑る坂道の歩きにくさも、少しは紛れる気がする。
「ちぇー」
将は少し考え込んで「リベート」と返した。
聡は即座に
「トリ」
と答える。
「リ……リベンジ」
「ジ、ジ、……じどり(地鶏)」
「……アキラ、ま~だ『り』攻め続けるのかよ」
将はつないだ手を前後に振り回した。
へへーん、と聡は笑った。
暗くて見えないけれど、きっと得意げな顔をしているのに違いない。
「くっそう……。リチウム」
「ム・リ」
「リーチ棒」
リーチ、はさっき言ってしまったので、苦しい将はその先に『棒』をつけている。
「将、マージャンやるの?」
聡はあきれたように声がするほうを振り返った。しかし暗い懐中電灯は前を照らしているので、ほとんど将の顔は見えない。
「あんまやんないけど。アキラは?」
『あんまりやんないけど』といいつつ本当はかなりできる将だ。賭け事全般は中学時代にマスターしている。
それをごまかすように聡に訊き返す。
「大学のサークルでちょっとだけ習った。ぼう……でしょ。じゃ、瓜(うり)」
「また?り、り……、えーと」
しばらく考えながら数歩進んだ。もう手持ちの『り』で始まる単語は使い果たした気がする。
「リンゴ飴!」
将はやっと見つけた嬉しさのあまり、おどけて持っていた懐中電灯を自分の顎の下に持ってきた。
「何、それ。ちょー不気味。ずぶ濡れだしー」
聡はその顔を指差して、笑った。笑いながらもつないだ手は離さない。だが、すかさず
「目盛り!」
と得意げに答えた。
「ゲー。もう降参だしー」
「えー、もう降参なのー?つまんない。まだいっぱいあるじゃーん」
といいつつ、聡は携帯をあけてみた。
携帯の画面の光りに、久しぶりに聡の横顔の輪郭が浮かび上がる。
もうそろそろ歩き始めて1時間になる。
「……まだ、圏外?」
訊きながら将が聡の携帯をのぞきこもうとする。
携帯の電池を無駄遣いしないためと、雨に濡れないように聡は手早くそれを閉めた。
……ということは、まだダメということだ。
「うん。……でもきっともうすぐだよ。がんばろう」
聡は前向きな励ましの言葉を繰り返した。
「アキラ……。アキラは強いよな」
雨にうんざりしている将は、思わず口にした。お腹もすいている。サンダルで歩いてきたので足も少し痛い。
まだ頑張るという聡に感嘆したのと呆れたのと中間のような気持ちだ。
雨は一向に止まない。それどころか断続的にどしゃぶりになったりしている。
車という逃げ場を追い出された二人は、いやおうなしにそれに打たれるしかない。
将でいえば、泳いだのと同様の濡れ方だ。パンツまで湿った衣服は、じっとりと重く、また時間の経過と共に確実に冷やし始めている。
気温も東京と違ってかなり寒い。
「しりとりが?……なーんちゃって」
それでもやや弱まった雨の中、おどけた聡の声が少し寂しげに響いた。
「将がいるからだよ」
続いた聡の低めの声は、しみじみと温かかった。
聡は、歩みを止めずに、将の腕に自らの腕をからませてきた。
思いがけないぬくもりに、将は先を照らす懐中電灯を聡の顔に向けた。
聡の、濡れそぼった髪が貼りついた顔は、やはり将のほうを見上げていた。
「こんな状況じゃないと、手なんかつなげないでしょ。……腕なんか組めないでしょ。
みんなから写真をせがまれるようなイケメン俳優で、教え子なんて」
といって嬉しそうに笑った顔は、濡れているせいなのか、寒いからなのか、よけいにまっ白に見えた。
だけど、その唇だけ血の色が差してばら色なのが、暗い灯りのなかでも確認できた。
「しょう」
聡は、将の腕をぎゅっと引き寄せた。そんなふうにすると胸の柔らかさが腕に触れる。
それも温かだったが、覆うTシャツやパーカーは将のそれと同様びっしょりなのがわかった。
「将がいるから強くなれるんだよ。前向きでいられるんだよ」
聡は歩く速度をゆるめずに温かみをおびた低い声で続ける。
「……将がいなかったら、心細くてどうしていいかわからないと思う」
聡につられて雨の音まで優しく響き始めた。
「こうやって将が隣にいてくれるから、冷静にいろいろ考えられるんだよ」
聡は歩きながらも、将の肩のあたりに、一瞬顔を摺り寄せてきた。
「でもさ。今こんなことになってるのは、あきらかに俺の失敗じゃん」
「まーだ、そんなこと言ってるし」
聡は腕を組んだまま将の肩をぺちぺちと叩いた。濡れたTシャツが水音を立てた。
「将はー……」
聡はほどけそうになった腕を再びぎゅっと握ると、語尾を甘く延ばして続ける。
「あたしを何度も助けてくれたじゃない。
誰かに川原の小屋に連れ込まれたときだってそうだし、ニセコのてっぺんでだって……。将がいなかったらあたしはどうなってたか」
「アキラ……」
将は思わず立ち止まると、聡を抱き寄せた。
「だめよ。……ぐずぐずしてたら懐中電灯の電池がなくなっちゃう」
「消すよ。だから……」
このままでいさせて。
……その言葉は吐息と雨音の中に溶けた。将はすでに聡を抱きしめていた。
濡れてじっとりとしたパーカーから水が絞り出るほど強く。
「将……」
瞼を閉じても開けても同じようなこの暗闇の中、お互いの感触とぬくもり、そして吐息だけが確かだった。
「ねえ。将」
聡は将の腕の中でつぶやいた。
「あたしね、本当は嬉しいんだ」
そういうと聡は将の胸に自分の顔を押し付けるようにしてきた。
「え?」
将は意外な聡の言葉に、思わず訊き返す。
抱き合う二人には少し強めの雨が降り注いでいる。濡れた半袖の将の肌にはさっきまで鳥肌が立っていた。
聡をこうして抱きしめているから少しはましになったけれど。
「こんな経験が二人で出来て」
聡はたしかにそういった。こんな辛い状況が嬉しい?将のけげんな表情が見えないのか聡は続ける。
「たしかに、今は……雨に濡れるわ、寒いわ、歩きにくいわ、少し疲れたわ、お腹すいたわで、ちょっとつらいけどさ。
つらいことって乗り越えたらすっごくいい思い出にならない?」
前半は将にとっても切実な問題だ。でも乗り越えたら、というのがよくわからない。というよりそこまで考えが至らない。
聡は補足するように将の胸に語り掛けるように続ける。
将は、聡の吐息が掛かるところに、さっきから本当に『心』というものが本当にありそうな気がしてならない。
「たとえば旅行だってさ。ハワイあたりでトラブルもなくスムーズで楽しかったです。
……って話聞くよりも、マイナーな、日本人があんまりいない国に行って言葉が通じなくて大変だったけど、なんとか身振り手振りで伝えた、とか、
泥棒に遭ってピンチに陥ったけど、なんとかした、とかそういうほうが面白くない?」
「面白けりゃいいの?」
将は、聡の突拍子もない例えに少し可笑しくなった。
「そりゃもちろん、『乗り越える』っていうのが大前提だけどさ。本人だってそのほうが強く心に残ると思うんだ。
……それがさ、こんなふうに二人で乗り越えたら、きっとすっごく濃ゆい絆にならない?幸せじゃない?」
聡は、さらに一段優しい声でさらに続ける。
「つらいこととか、ピンチとか、試練とかって、乗り越えたときにより強く幸せを感じるためにあるんだと思う。
もちろん、乗り越えてるときはチョーキツイんだけど。今とか」
将は小さな子供になって母親に諭されているような錯覚に陥る。
こうやっているのも抱き合っているのではなく、聡に抱きしめてもらっているのではないだろうか。
「ビールと夏の重労働みたいな関係?」
将は例えで無意識に子供ではないという意思表示をしてしまう。
「もう。未成年のくせに。……でも、そう。それに近いかな。ご褒美というか……あとのウマさをより引き立てるというか」
聡は将の背中をぺちぺち叩いて笑った。
「きっとさ。今だって、あと1時間……ううん30分もしたら、『あのときはキツかったねー』って二人で笑えると思う。
さっきよりもっと二人の思い出が増えるんだよ。それって待ち遠しくない?」
聡の口調は、あったかくて、楽しげで、本当にその時を待っているようだった。
もう少し頑張れば、二人はさっきよりもっと強い絆で結ばれる。
この雨の冷たさも、空腹も、疲れも、あとの幸せを引き立てるためのものなのだ。
そんな風に思える聡を、将はあらためて好きだと思った。
「ね。アキラ」
聡のいうとおり、待ち遠しくなった将は試しに口にしてみた。
「それって、俺たち二人もそうなのかな」
教師と教え子。そんな二人の間に横たわる教育上の問題とか、世間体とか。
まして将は、うかつに恋愛もできないとされる芸能人だ。
これ以上愛し合っている二人はいないはずなのに、なかなか結ばれないことを将は、例えてみる。
「簡単に結ばれるより、いろいろ乗り越えた方が強く結びつくって……。固い絆になって、あとで待ってる幸せがより強くなるのかな」
「……きっとそうよ。そうだよ。いつか二人で、こんなこともあった、って振り返れたらいいね」
あいかわらずの真っ暗闇だけど、将には聡が自分を見上げて微笑むのが見える気がした。