「ごめん、アキラ……」
呟やく将に聡は、将の腕の中で首を振った。
「将が、悪いんじゃない……。私が……私が決めたことだもん」
聡は、涙にまみれた顔をあげて、将を見つめた。
「将を好きになったのは……、私だもん」
どうしようもなく、将を愛してしまった。
人を傷つける予感だけで、今の聡の心は血を流すほど痛い。それでも戻れないほどの想い。
「アキラ」
傷ついてまで自分を選んだ聡がいとおしい。
かくなるうえは聡の苦しみを、痛みを一緒に背負いたい。
決意した将は、聡を再び強く抱きしめた。
その夜、二人は、また手をつないで眠った。
お互いの手のひらをとおして、優しさが二人の体全体を包む……。
夜が更けた。この寒いのに、遠くを走る暴走族のクラクションが静かな夜に響く。
将は、もうとっくに寝付いたようだったが、聡は寝付けず、将の手の温かさを感じたまま目を開けていた。
罪の意識が、聡を寝かせないのである。
いつか……博史の両親に、博史とは結婚できないことを打ち明けなくてはならないだろう。
一体、いつ?
余命1年の博史の母……薫。
余命1年というのが確かであれば、今後容態は少しずつ悪くなっていく一方なのだろう。
……だとしたら、時間がたてばたつほど、言いにくくなる。
――早く、打ち明けなくては。
つらい決意はできるだけ早く実行しなくてはならない。
聡はそのつらさを思うと暗がりの中で深いため息をついた。
そして……そんな風に、薫の余命を測る自分の冷酷さが恐ろしくなって、思わず救いを求めるように将の寝顔を見た。
そういえば。
聡は、博史の父・慎一が、博史が『月末までカタール』といっていたことを思い出した。もう今週末が月末である。
聡は灯りもつけずに、体を起こした。
将を起こさないようにベッドを降りると、パソコンの電源を入れた。もしかしたら、博史から帰国の連絡が入っているのかもしれない。
将と一緒に寝起きするようになって今日で3晩め、聡はパソコンのメールをチェックするのをすっかり忘れていたのだ。
暗闇の中、異世界への窓のように輝くパソコンの液晶画面。
しかし……博史からのメールは着信していなかった。
1月4日に聡を乱暴するように抱いたあと、『メールする』と言っていたにもかかわらず、帰国予定日の連絡はない。
受信箱は不気味な沈黙を保ったままだ。
聡は、ほっとしたような、しかし不安な気持ちに襲われてまた、ため息をついた。
「……アキラ?」
暗がりの中、将の声がした。振り返ると将が、半身を起こしてこっちを見ていた。
白目と歯がパソコンの光の中に浮かび上がっている。
パソコンが起動する音は真夜中の部屋に意外に響いていたのだろうか。
「ごめん、起こしちゃった?」
「何……してんの?」
将は優しい調子で、聡に訊いた。
「うん……。メールをね。チェックしてた」
聡はパソコンの電源を落とすと、部屋を暗がりに戻した。そして注意深く、将がいるベッドに戻った。
「なんの、メール?」
「あのね」
少し躊躇したが、隠すこともないだろう、と暗がりの中、聡は話し始めた。
「今日、病院で聞いたんだけど、博史さんが月末に帰ってくるんだって。……で、メールがこっちにも来てないかと思ったの」
「博史が……そっか」
聡は将の隣に先に体を横たえた。
「アキラ、それで、どうするの?」
将もつられて横になった。体は仰向けで顔だけ聡のほうに向ける。
「どうって……。どうにもしないよ」
将の心配そうな声音に、聡は将のほうに体を向けると、ほのかに見える将の輪郭にそって手を添えた。
「もう、博史さんには結婚できない、って伝えてるし……心配しないで」
「でも……」
将は、聡が博史に殴られたことを思い出した。
そんなことをするように見えない優しげな顔の博史。細い目が、いかにも穏やかそうな男。だけど。
――ああいうやつに限って、逆上すると何をするかわからないんだ。
将は、その言葉を飲み込んだ。
低レベルな嫉妬と間違われたくなかったからである。
暗がりに心配そうな将の目。目を見開いてこっちを見ているのが青く反射する白目でわかる。
「大丈夫だから……。明日も学校でしょ。もう寝よう」
聡は将の手をとった。それはさっき以上に温かいように思えた。
同棲を始めて最初の週は、学校に発覚することもなく、なんとか過ぎていった。
松葉杖なこともあり、家のことをほとんど聡にやらせっぱなしの将は、なんだか申し訳ない気がしたが、それでも二人で夕食を食べ、手をつないで眠るのは幸せだった。
弁当屋の主人が口にした『結婚』という単語。
将が今受けている授業は、得意の数学の時間である。だけど将はうわの空だった。
例題ではなく、窓から見る冬晴れの空に、聡と作る家庭を思い描いてみた。
二人が結婚したら、こんな幸せが毎日続くのだろうか。
それだけじゃない。毎晩、聡を抱いて……そこに、しばらくすると聡と自分にそっくりな子供が加わる。
聡が自分の子供を産む。それを考えて将はひとり照れた。
そこで思った。
自分は何をして……何を仕事にして、聡との家庭を守るのだろう。
金曜日の朝。
今日を無事終われば、1週間何事もなく終わる。聡は、朝から気合が入っていた。
今日の6時間目は社会見学、それが終わったら、将と二人で食事にでも行こうか。
週末はどう過ごそうか。まだ松葉杖だし、家事もたまっているから、ゆっくりしたほうがいいんだろうか。
そんなことを考えていた聡に、教頭が声をかけた。
「古城先生、ちょっと一緒に校長室に来てください」
「ハイ」
いったい何だろうと思いつつ、聡は素直に席を立って、教頭のあとについて校長室に向かった……。
「視察~!?」
将があまりに大きな声をあげたので、聡は
「シー!」
とまわりを見渡して人差し指を立てた。聡の家の近所にある、こぢんまりとしたイタリア料理店に来ている。
漆喰の壁にチェックのテーブルクロスが、イタリア南部の家庭の味の演出に一役買っている。
社会見学が終わって、二人で今日は外食、としゃれ込んだのだ。
将は、いったん聡の部屋に帰って着替えたので私服になっており、グラスワインを傾ける姿も違和感がない。
「なんだよ、それ」
将は、ウナギの稚魚が乗ったブルスケッタを持ったまま、ふだんクールな印象の目を、丸く大きくしたままだ。
「うん、なんかね。山梨に大検試験をめざす全寮制の予備校だかをつくるんだって。ホラ、引きこもりとか、不登校のコのためなんだって」
聡もよくわからないので、聞いたままを伝えて、鰯のエスカベーシュにフォークを突き刺す。
「いつからできんの」
将はようやく、ワインを口にした。魚介類の前菜にあわせての白ワインは、少し安いのか酸味がきつい。
「この4月開校だってー」
「でさ、なんで明日から、アキラが1泊で視察なんだよ」
「知らないッ……」
将の抗議する口調に対して、聡も唇をとがらせてすねた表情で将を一瞬見つめた。
「でも行けって言われたから……しょーがないもん。断れないじゃん」
そう言うとグラスをぐいっと傾けて、グラスに残った白ワインを一気に煽った。
「アキラ独りでかよ」
聡はグラスを置くと、唇をとがらせたまま、頷いた。
将はため息をついて椅子の背もたれに寄りかかった。
「わけわっかんねーの。……でさ、アキラ行ってる間、オレどうするんだよ」
「それなんだけど、どうせ土日だけだから、瑞樹さんにお祖母ちゃんちに行ってもらえないかな。どうせ一人でいるんだったら、エレベーター付きの将の家のほうが便利でしょ」
「それはたぶん大丈夫と思うけどさぁ……なんかオレ心配」
「う……ん」
実は聡も、急な出張が心配だった。
実際何の仕事をするというのか、校長や教頭の説明を聞いてもいまいちわからなかったし、何の意図があるのだろう。
「でも、どうせ1泊だし。大丈夫よ」
聡は自分に言い聞かせるように明るい声をあげると、ワインの追加を頼んだ。
だけど将は、なぜか胸騒ぎが止まらなかった。
この胸騒ぎは……的中した。
聡は、月曜になっても帰ってこなかった。