不安は的中した。電話の向こうから
「原田です。聡さんですか?」
と声がした。
一瞬、聡はその声が誰か判別がつかなかった。しかし気付いたとたん『あっ』と声が出そうになった。
それは博史の父の慎一だった。クリスマスに実家のマンションを訪ねたとき、聡のグラスに何度もワインを注いだ、バリトンの朗らかな笑い声の紳士を思い出す。
聡は、どもりそうになるのを押さえて
「ハイ、その節はいろいろとごちそうになりまして……」
となんとか挨拶の言葉をつむぎだす。気付くと、心臓がどくん、どくん、と暴れ始めている。
慎一のほうは、聡が苦労してつないだ挨拶には軽く返事をしただけで、
「聡さん、実は家内が、緊急入院しまして……」
とすぐに本題を切り出してきた。
「えっ!」
博史の母の薫は、ガンで余命1年というのは知っていた。
しかしそれは11月時点の話で、まだ1月末であるいま、危篤になるのは早すぎるのではないか。
「いえ、まだ命がどうこう、というわけではないとは思うのですが……」
聡の驚いた声に、慎一はあわてて、取り繕う。
が、はっきりとした言葉をいわないところに却って不安がつのる。
「もしよかったら、聡さん、来ていただけませんか。うちのやつ、聡さんにお会いしたいって、ずっと言ってたから……」
聡はしばらく、絶句した。何か言わなくてはと口は開いているのだが、何を言っていいのかがわからない。
『わかりました、すぐ行きます』と言う関係……博史には、もはやそういう感情を持っていない。
かといって『行けない』と言って捨てるほど聡は非情になりきれない。
心づくしの料理を出してくれた博史の母・薫の柔らかい笑顔を思い出して、聡は苦しくなった。
あの……何の罪もない、優しい人たちを傷つけなくてはならない。自分がこれから行う罪の痛みを想像して聡は目をぎゅっとつむった。
やはり、今は言う時ではない。
聡は、仕方なく「今から、行きます……」と答えるしかなかった。
待合室のベンチに座っていた慎一は聡の姿を見つけると、立ち上がった。
「聡さん、すいません。お疲れのところ……」
と、頭を下げる。品よく櫛が入った銀髪が少し乱れている。もう遅めの時間のせいか、待合室にいる人は少ない。
「あの……ご容態は……」
聡は、考えたあげく『お義母さま』という主語を省いてしまった。
「あ、ああ。急に倒れたのでびっくりしたんですが、ちょっと強い貧血でした。もう大丈夫です。でもいちおう、念のために、検査入院するんですが……」
とりあえず、危篤ではないということに、聡は胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「ええ、本当に。あれも、月末まではカタールって言ってたんで、もし今、何かあったらと気が気じゃなかったんですが、本当によかった」
慎一は本当に安堵したらしい。笑顔で顔を皺だらけにしながら、この年齢の男性にしては珍しく、早口で一気に話す。それだけ、心配から一気に解放されたのだろう。
逆に聡は、慎一の口から出た博史の近況に、ややびくつく。
「ああ、そうだ。うちのが、せっかくお呼びしたのなら、お会いしたいと言ってまして」
一方的にまくしたてていたことに、慎一はようやく気付いて、聡を薫の病室に案内すると言い出した。
大丈夫なのなら、そろそろ帰る言葉を口にしようとしていた聡は、少し怖気づいた。
しかし、ここで帰るのはさらに不自然だろう。
聡は、バンジージャンプをする前に似た緊張と覚悟を持って、薫の病室へと向かった。
「聡さん!お会いしたかったわ」
個室にいた薫は思ったよりずっと元気そうだった。少し顔色が悪い気がしたが、体を起こして聡を迎えた。
聡は、ふと将が入院していた病室を思い出した。まったく別の病院だが、個室というのは雰囲気が似ていると思った。
ハッとする。こんなときにまで将のことを考えるなんてどうかしている。
「すいません。あの、手ぶらで来てしまいまして申し訳ありません」
それに対する言い訳のように聡は頭を下げた。
「いいのよ、さあ、ここに座って」
と薫はベッドのそばの椅子を勧める。
「あの、先日はご馳走いただいたのに、ろくにお礼もしませんで……」
「ふふ。聡さん、謝ってばっかりね」
薫は、目を糸のように細めて聡を見た。その細い一重瞼は、あきらかに博史そっくりだ。
聡は、博史そっくりの、その笑顔を見て心臓が苦しくなった。
「博史がいなくても、気軽に遊びに来てくれたらいいのに」
「ハイ……」
聡は返事をしながら腋の下にじっとりと汗が出てくるのを感じていた。
「今日は、学校だったの?」
「ハイ……」
「英語を教えてらっしゃるんだったわね。お嫁に来たら、私にも教えてちょうだい」
薫は無邪気に、未来の聡に願い事をする。聡は困惑した。
「そんな……お教えできるレベルじゃありません」
「あら、ごけんそん。あのコは聡さんの英語は自分より流暢だってベタぼめなのよ。ぜひ教えて?」
そこで、慎一が口をはさむ。
「どうだい。博史は反対するだろうが、聡さんは結婚しても、東京にいてもらうってのは。……私ら、ずっと可愛い娘がほしかったんだ。一緒に仲良く暮らすってのはどうだね」
「あら、いい考え。ねえ、聡さん、そうしましょうよ。聡さんだって日本がいいでしょ」
薫は、弾んだ声をあげると、少女のように浴衣の手を前であわせた。
「そして一緒にあちこち旅行しましょう。私、まだカナダに行ったことないの。カナダの紅葉ってすごくきれいなんでしょう?」
きっと博史から聡が子供の頃、カナダにいたことがあることを聞いているのだろう。
「え、ええ。きれいです……とても」
聡は、それを答えるだけでせいいっぱいだった。
この11月に余命1年足らずを宣告された薫。
カナダの紅葉が一番美しい10月。次の10月に……薫はこの世にいるのだろうか。
いっせいにメイプルの葉が舞い落ちる心象風景に、聡は飲み込まれそうになる。
心に積もるメイプルの葉は、涙をいきおいよく押し出そうとする。
下を向くと流れだしてしまう。薫の顔を見ると涙の湧出が増えてしまう。
ここで泣くことは、薫に自身の余命の短さを、バらしてしまうことになる。聡は焦点をぼかすことによって必死で堪えた。
「じゃあ、約束よ。一緒に行きましょうね」
薫は聡の手を握った。温かいけれど乾いた感触。それにつられて思わず、聡は薫の瞳を見てしまった。年齢に不似合いな澄んだ瞳。
聡は、薫が、自分の余命を知っているのでは、と思った。
不自然に瞬きを繰り返して、涙は止めたけれど……。
気がつくと慎一も耐えられないのか、顔をそらしていた。肩が……かすかに震えている。
この、大きな悲しみを持つ家族に、いずれ、あらたなる鉈をふるわなくてはならない聡は、自分の罪深さにおののいた。
「アキラ、遅いじゃん!どこ行ってたんだよ」
ドアを開けて出迎えた将がパジャマ姿で抗議の声をあげた。もう9時すぎになっている。
「オレ、待ってたんだぜ。お腹ぺこぺこだよ!」
そういう将の後ろのローテーブルには、買ってきた弁当がビニール袋に入ったまま置かれている。
将は、聡が帰ってくるまで夕食を待っていたらしい。先に風呂に入るなどして必死で空腹を紛らわしていたのだろう。
「ごめん……」
将の顔を見たとたん、聡は、もう限界だった。
鼻の奥がつーんと痛くなり、目が熱くなる。
聡は、将の胸にすがりついた。涙が堰を切ったように流れ出す。いったん流れ始めると、止めどなくそれは溢れていく。
すがりついた聡を支えようとして、腋に挟んだ将の松葉杖が、がたんと音をたてて倒れた。
「ううーっ……」
聡は声を出して、激しく嗚咽していた。
「アキラ、どうしたんだよ、ねえ、アキラ?」
将のとまどう声が聞こえる。
だけど聡は、次々と津波のように押し寄せてくる感情に流されたまま、説明もできず、ただしばらく泣き続けるしかなかった。
「……で、さっきはどうしたの?」
ようやく落ち着いて、遅い夕食をとった後。将は聡にできるだけ優しく訊いた。
聡はだまりこんだ。
「……学校で、なんかあったの?」
将はそう訊きながら、そうではないことだけはわかっている。
だまっている聡の瞳が低い虚空を眺めたまま、柔らかいゼリーのように膨らみ始めた。それがポロリとこぼれて、頬を伝った。
「アキラ?大丈夫?」
涙を見て、将はまた、とまどったようだ。聡は涙を頬に伝わせたままハッとしたように上を向いた。
「う、うん」
聡は、あわてて将のほうを向くと、涙を手の甲でぬぐった。
しかし、鼻水まで出てきてしまった。聡は1回立ち上がるとティッシュを掴んで鼻をかんだ。
そのユーモラスで不躾な音に、聡はかろうじて自分を取り戻した。
そしてベッドに寄りかかる将の隣に座る。
将は腕を伸ばすと、聡の頭を自分の肩のほうに引き寄せた。もう、何も考えないで出てくる動作だ。
「余命1年なの」
まったく想像しなかった単語に将は、自分に寄りかかる聡の顔を見ようとする。
しかし、聡はうつむいているので震える睫だけしか見えない。
「誰が……?」
まさか、聡ではないだろう、と将は訊く。
「博史さんのお母さん……。今日、倒れたって連絡があって、病院に行ってきて……」
聡はそれだけ言うと、こみ上げる涙に言葉を流されたように失ってしまった。
いろいろなことが、また一度に押し寄せる。
薫の乾いた手。細い目を糸にした笑顔。見たいと言っていたカナダの紅葉。
しかし、次の紅葉まで彼女は生きられないかもしれない。
よしんば、余命が延びたとしても聡は彼女に同行できないのだ……。
将は、聡の涙声を聞いて、おおよその事情を察した。
聡のとまどいと苦しみ、哀しみが触れている肩を通じて将の心にも流れ込んでくるようだった。
将は聡を抱く手に力を込めた。
「アキラ、……ごめんな」
聡が苦しむそれらは、自分のせいでもある。
将はそれがわかるから、聡のふるえる両肩に腕を伸ばした。
聡は将の胸にもたれかかって、長いこと震えるように泣いていた。
将はそんな聡をずっと受け止めるしかなかった。