第286話 夢一夜(3)

「テレビないんだー」

蛍光灯に照らされた部屋を一瞥した将は思わずがっかりした声を出してしまった。

聡はむき出した歯に指を立てて静止する。隣からは高橋の鼾がリズミカルに聞こえている。つまり大声を出すと迷惑だ、という意味だ。

ちなみに1階の食堂で聞こえたのとは違うリズムの鼾である。

二人の部屋は、高橋の部屋と襖で仕切られた6畳間で、すでに床が2組、きちんと並べてのべられていた。

いちおう気を利かせてくれたのか、襖にはお互いが開けられないように、しんばり棒が置かれた上に、

高橋の部屋との仕切り側に、背丈ほどの衝立が置かれている。

そのせいで若干狭く見えるものの、古びた部屋は東京の団地間の6畳とは違って、かなり広い。

窓側に寄せられた座卓の上に、昔ながらの魔法瓶のポットときゅうす、湯のみなども置かれていた。

「まだ11時すぎだよー。暇だよ」

将は座卓が寄せられて狭くなった窓際に寄ると、不満そうに緑色のカーテンをあけて外を見た。

橋の袂の外灯もここまでは薄暗くしか届かないらしく、景色は暗がりの中に沈みこんでいる。

ただ、近くに聞こえるせせらぎで窓の下を川が流れていることだけがわかる。

雨はまだ止まないらしく、軒から雨だれが暗い光に反射しながら落ちていくのがときどき見える。

「歯磨いて、さっさと寝よ」

聡は小声でそれだけいうと、今入ってきた襖を出て、共同の洗面所に立った。

登って来た階段の突き当たりに共同のトイレと洗面所があり、

そのタイル張りの縁に歯磨き粉付きの使い捨て歯ブラシが束になって置いてあった。

その1つを破いて歯を磨く聡は、背後に熱い体温を感じた。将だ。

「今時、珍しくねー?この歯ブラシ。超ーレトロ」

将は明るくそういうと聡の隣に立って歯磨きを始めた。

体をわざとくっつけるようにしてくる将が、聡には苦しい。

みそ汁で引っ込んだ『雌』が、2つ並んだ布団を見て、また復活してしまったようだ。

聡の五感は将の肉体の動きを敏感に感じ取ってしまう。

……と将は聡の背後で、いきなり、くっと膝を曲げた。唐突な「膝かっくん」。聡はバランスを崩しそうになって

「キャ!何すんのよ!」

と声をあげてしまい、逆に将に『シー!』と指を立てられてしまった。

将は白い歯を剥き出しにして顔をくしゃっとさせた。

その顔に少しだけ、照れが見えた。

それを見たとたん、何かあったかいものに緊張感が急に溶かされていくのが、聡にはわかった。

 
 

電気を消した部屋は、ほとんど真っ暗闇になった。

闇の中に、かすかに水銀灯の外灯から漏れる光が、カーテンを幻のような暗緑色に浮かび上がらせている。

光のほとんどない空間は、せせらぎと雨音、そしてかすかに響く高橋の鼾をより強調させた。

二人はすることもないので、並べられた二組の床にそれぞれ横たわっている。

部屋にはエアコンもない。しかし夏布団がないと肌寒いほどの冷ややかさが部屋には漂っていた。

さっきまで、

「ゲー、まじで真っ暗。豆電球にしようよ」

と騒いでいた将も、夏布団を蹴ることもなく静かに横たわっているようだ。

だけど、暗闇に、どこか張り詰めた部分がある……たぶん将は起きているだろう。

しかし聡は……心も体も昂揚していた聡だが、せせらぎを闇に聴いているうちに、布団の中に沈みこんでいくような錯覚を覚えた……落ち着いてきたのだ。

もしかすると闇の中に、清流からのマイナスイオンが溶け込んでいるのだろうか。ふと、そんなことを思う。

聡は横たわったまま、わずかな暗緑色に透けるカーテンを見上げた。

雨の音はまだ続いている。

この雨は……巌の骨を埋めた寺にも降っているのだろうか。

雨が染み込んだ土は……巌の骨と交じり合っているのだろうか。

そんなことを思う聡は、雨が静かに闇の森へと落ちていくように、次第に自分の中へと降りていく。

巌の30年来の妾であるあゆみが、明るく何か話し掛けている……。

……。 

「アキラ……起きてる?」

将の声に、聡はハッとした。眠りの世界の門にちょうど入りかけた聡の意識は、急激に呼び戻された。

「……うん。起きてるよ」

声がかすれてしまう。一瞬自分が把握できない。

「そっち……行っていい?」

続く将の言葉に即座に、ダメ、と言わなかったのも、まだ眠気が聡の意識を包んでいたからだろう。

まだぼんやりしている聡の体を覆っていた薄い夏蒲団がふわりと宙に浮いて、冷ややかな空気が一瞬しのびよる。

だがすぐに熱いものが聡の体の隣に横たわった。

「もう来ちゃった」

囁くような将の声。聡にはその悪戯っぽい笑顔が見える気がした。

「もしかして、寝てた?」

将はごく自然に聡の体に腕をまわした。

「ううん……」

眠気のせいか、理性や自制心がどこかにいったように、聡も将の胸に頬を寄せた。

「……あったかい」

そんな聡のほうこそ、手の中の小鳥のように温かくて柔らかい。

「アキラもあったかいよ。……何考えてたの?」

囁く将の声は雨音よりずっと優しかった。

低い地声なのに、耳元で囁くときは18歳まるだしだ。だけどそんな将の声が、聡は好きだ、と感じている。

「ね」

将は聡の髪をなでると、耳にかけた。手探りだろうに、聡の耳の位置をすっかり覚えているらしい。

「あのね」

安らぎが聡に甘えた声を出させた。

「今、あたしが死んだら……。将と同じお墓には入れないのね、ってこと」

将は驚いたのか、体を少し起こした。暗闇に目をこらして聡の顔をみようと試みるようだった。

……実際、だんだん暗さに目が慣れてきて、お互いの輪郭だったらごくわずかに見えるようになってきている。

「……えんぎでもないこというなよ」

聡は鼻先の吐息に微笑を浮かべながら小さく「ごめん」と謝った。

「……今ね。あゆみさんのことかんがえていたの」

「あゆみって、ヒージーのお妾の?」

将は安心したように、再び聡の横に寝そべると、さっきより少し強く聡を抱き寄せた。

「そう……巌おじいさまのことをすごく理解してて、実質『妻』みたいなものでしょ。だけど……同じお墓には入る権利はないんだな、って……。

たぶん、あゆみさんは割り切ってるんだと思うけど……あたしだったら寂しいなあと思って」

将はうなづくかわりに、聡の浴衣の背中に回した手で、ゆっくりトントンと優しく叩いた。

「……結婚って、死後も夫婦として扱われることでもあるんだな……って思っちゃったりして」

聡は再び吐息で笑うとそれっきり黙った。

実は将もまた、雨音に、寺に埋めてきた巌の骨のことを思い浮かべていたのだ。

巌は、自分の骨のかけらを、初恋にしておそらく最愛の……最愛でなければそんな遺言を残すはずがない……森村史絵の墓が見えるところに埋めるよう言い残した。

巌の骨は、しみこむ雨と共に土に溶け込み、やがて桜の大樹となり史絵を見守る。

それは結ばれることもなく先に逝った女性への、最大にして最後の愛情表現なのだろうが……将は虚しいと思った。

でも、結婚して一緒の墓に入り、子孫に祀られるのは?

あたりまえのような愛の結末だけど……将は少し物足りない気がして、腕の中で温かな聡に問い掛けてみる。

「アキラ……。俺が死んだら……」

言いかけてやめた。自分でも何を訊きたいのかよくわからなかったからだ。

しかし、その消えてしまった語尾は、暗闇の中でたとえようもなく心細く、聡には聞こえた。

生きているうちに結ばれたい。

そのとき、二人は同じことを考えていた。

それでもしばらく二人は暗闇に寄り添ったまま、雨音とせせらぎが溶け合う中に意識を委ねていた。

さっきと違って、眠りは訪れない。……静かなのに闇がざわめいているように肌がぎこちない。

将は、ふいに聡の体が動くのを感じた。

どうやら少し身を起こしたらしい……と感じた直後に将は、のしかかるような聡の気配を感じた。

「将」

ほとんど音声にならない囁きながら、将はそれをはっきりとせせらぎと聞き分けた。

「あたしを抱いて」