第30話 急接近(1)

 
「来週は、大学受験者を対象にした全国模試があります。それから……」

「ぶへっくしょん!」

将の派手なくしゃみのおかげで、帰りのHRでの聡の言葉が中断された。

将は、ずずーっと鼻水をすすると「ごめん」と聡やまわりの生徒らにぺこりと頭を下げた。

「ええと、それからその次の週には期末試験がありますので、そろそろ苦手なところは対策するように……」

「ぶしゅん!」

2回目のくしゃみは横にむかって吹いた。丸刈りの兵藤が嫌な顔をする。

「鷹枝くん、風邪?」聡は教卓のまん前の将への言葉をはさんだ。

将は「ハイ」とうなづいた。

「急に冷え込んだので、風邪には注意してください。みんな、うがいを欠かさずにね。それと明日の社会見学はゲーム会社の人、だけど行くのは○○くん………の6人ね。聞きたいことがあったらちゃんと整理してきてください。以上」

木曜日になっていた。帰りのHRが終わり、帰る生徒は制服の上にダウンやコートを羽織った。

今週初めから、さらに急激に気温が下がった。それまで20度近くあった最高気温が、雨を境に急激に15度までいかなくなったのだ。こういうことは11月中旬にはよくあることだ。

補習の前にいったん職員室に戻ろうとした聡は、将のようすが少し気になったので教卓を降りて机のわきに立つ。

「何、センセイ」

将はいつもはアキラと呼びすてのくせに、学校ではセンセイと、器用に呼び名を使い分けている。

「鷹枝くん、大丈夫? 今日は補習やめて帰りなさい?」

「そうだよ。鷹枝くん、顔赤いよ」

丸刈りの兵藤も同意する。さっきからクシャミのシャワーをさんざん浴びているのだ。

「大丈夫だよ!来週試験なんだろ」

と将は元気に言ったが、試験なんて本当はどうでもいい。今日は聡と一緒に帰りたいのだ。

明日は聡の誕生日だ。逢う約束をしておきたい。メ−ルを送ってもいいのだが、直接逢って話がしたかった。

将はあきらかに風邪を引いていた。しかもかなり性質が悪い。

頭がフラフラするのはたぶん高い熱があるんだろう。家に体温計がない将でもそれは分かる。いくら着こんでも寒く、体の節々が痛い。そして喉の激しい痛み。

実のところ、将は学校に来るだけでせいいっぱいだったのだ。

瑞樹のことで、罪悪感で心にモヤモヤしたものを抱えていた将は、火曜日の夜、井口らに誘われるままに「オヤジガリガリ」に酒を飲んで参加した。

弱そうなチンピラはパンチでモヤモヤを発散させるのにうってつけだったが、その最中にあられ交じりの大雨がざっと襲ってきたのだ。

皆クモの子を散らすように退散したが、イライラしていた将はそのうちのリーダー格を執拗に攻撃しつづけた。

……気がつくと全身びしょぬれの自分が一人でつったっていた。

あられがビチビチと痛いほど体を打ち付けている。酒が冷めてきたのか、体の芯からゾクゾクとしてきた。

翌日からさっそく喉が痛くなり、あとはすべて今日の将に続く現実である。

と、聡が将の額に手をかざした。教室の後ろでたむろしていた、女子生徒がそれを見て小さく「キャー」「やっぱりぃ?」と顔を見合わせた。

今の将には聡の手はひんやりとなめらかで救いのように思えた。

「すごい熱」聡は絶句した。ゆたんぽに直接ふれたかと思うかのような熱さ。

「大丈夫だってば」

「大丈夫じゃないわよ。保健室にいきなさい……あとで病院に付き添ってあげるから。兵藤くん、鷹枝くんを保健室に連れて行ってあげて」

将は、あとで付き添ってもらえる、という言葉ゆえに素直に従った。

ちなみに葉山瑞樹は今週はずっと欠席していた。

   ◇

補習が終わるとすっかり暗くなっていた。このところ暗くなるのが本当に早くなった。

聡が帰り支度を整えた姿で保健室へ入ると、荒江高校で数少ない女性職員の1人、年配の保健教師・三田先生が椅子から立ち上がった。

「あ、古城先生。寝てますよ、鷹枝くん」

「すいません、遅くまで付き添って頂いて」

聡は頭を下げた。

「いいのよ。まだ部活の生徒なんかも来るから……。おうちに連絡しなくていいのかしら」

「いろいろと事情があるみたいですので……。とりあえず病院に連れて行ってそれから私のほうで対応しておきます」

将をおこさないように静かに言うと、聡は眠っている将に近づいた。

「いちおう総合感冒薬を飲ませておいたから、熱は下がってると思うわ」

「何度ありました?」

「39度いってたのよ」三田は顔をしかめた。

将は、赤い顔をして寝ていた。鼻がつまっているのか口を軽く開けている。風邪薬のせいか、汗が額に浮かんでいる。

聡は将の額の汗をタオルでそっと押さえるようにぬぐった。将が目をあけた。

「……アキラ」熱で目が少し充血している。

「起きた?今から病院にいきましょ」

将はうなづくと、体を起こそうとした。それを聡が抱きかかえるように手伝う。

「センセイにそんなに優しくしてもらうなんて、風邪っぴきも悪くないな」

と将は鼻をシュンとすすりながら言った。息が荒い。

「バカいいなさんな……。じゃ、三田先生、失礼いたします」

「お大事に」

校門の前には呼んでおいたタクシーが待っていた。

将を抱えるように乗り込んで「××病院へお願いします」と運転手に行き先を伝えると、聡はシートに体重を預けた。

室内灯が消えた車内は住宅街の間は、冷たい暗さになった。その聡の肩に将が頭を預けてくる。息が荒く、苦しそうだ。

「大丈夫?」
「ぜんぜん、大丈夫。……なんでもねえよ」将は目を閉じたまま答えた。

「熱、39度だって」
「すぐ下がるよ……。だって明日、アキラの誕生日だろ。俺、いろいろ準備してるんだぜ」

「それどころじゃ……ないでしょ」
「アキラ」

将は手を伸ばすと、軽く腕を組んでいる聡の腕に触れた。聡はドキドキしながらも将にされるがままになっていた。将は聡の手をとると握り締めた。

「アキラの手、冷たくて気持ちいー……ねえ、絶対明日までに風邪なおすから、約束してよ」

聡の側から見れば、将の手は熱すぎた。長い指を持つ大きな手が、熱で乾いている。

「ねえ」
「……」

カーラジオが、明日、いっそう強い寒気団が来ることを伝えている。平年より早い初雪になるかもしれない、とも。

「雪かあ……」

将は聡の手を握ったりさすったりしている。

ダイヤのエンゲージリングがすでに定められているとも知らず、聡の薬指をも将は柔らかく握り締める。

結婚を約束して3年以上にもなる博史を指輪ごと捨てることなどは考えられない。

そうかといって聡の心に深く入り込んでいる将を置き去りにするのは、今の聡には爪をはぐような痛みを想像させた。

――時が止まってほしい。

聡は将の手をいつのまにか握り締めていた。将もその手をさらに固く握る。

後部シートでお互いに寄り添う二人の顔を、対向車のライトだけが定期的に照らす。

早くもクリスマスの装いを始めた街の上に、墨色ににごった夜空が寒そうにのしかかっていた。

「復活!」点滴が終わった将は、元気そうに台から降りた。

インフルエンザではなく、単なる風邪だったようで、注射と点滴を打ったせいかだいぶ調子がよくなったようだ。

「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫」

抗生物質と、感冒薬と、喉の炎症を取る薬などを受け取ると、病院の玄関のところで将は

「栄養があるもの食べにいこうよ」と聡を誘った。

「ダメよ。すぐに帰って温かくしなくちゃ。……それに、明日があるんでしょ」

将は立ち止まった。聡は少し頬を染めているけど将をまっすぐ見ている。

「明日?いいの?」

「誕生日祝ってくれるんでしょ」今度は照れて少し視線をそらす。

将は、目を輝かせると、走り出すと、玄関のところにある階段10段ほどをジャンプして一気に飛び降りた。

「ヤッター!」

「あ、コラ!だから静かにしないと」

将は再び階段を駆け上がると、聡をきつく抱きしめた。聡はコートごと少しいつもより汗臭い将の香りに包まれた。

病院に出入りする人が、まじまじと見る。将はそんなことおかまいなしだ。

「コラ…、風邪うつす気?」

将は聡を抱いたまま唇を尖らせて顔を近づけていた。聡は10センチの超至近距離で、将の眼を見つめてストップをかけた。

「心配すんなよ」将は目を細めて聡のおでこにチュッとキスをした。

「もうっ」

聡の無意識は『今』を味わいつくすことに、決めていた。

エンゲージリングは確実に聡を追い詰めていたけれど、それに対する反動なのかもしれない。