第307話 意外な救い(5)

聡の手を取った純代はにっこりと笑うと

「だから、一口、味をみていただけるかしら」

といったん置いたタッパーを手に取った。

「無理じいはしませんけど……大おじいさまもお好きだったのよ」

巌の好物と聞いて……さらに、目の前にいる純代がどうやら敵ではないらしいという安堵感から、聡は急速にそれを口にしてみたくなった。

琥珀色のゼリーのような桜島大根からは、冷めているのに、しみじみとした香ばしい香りがほのかに漂っていたのだ。

ここのところの……空腹感を押さえつけていた強い圧迫感が、やや弱くなった気がする。

「……じゃあ、いただきます」

聡は純代を見上げた。純代は柔らかく目を細めると、タッパーの中の大根を器用に切り取って器に盛った。

それは市販のプリンより小さいほどの量だった。

「一口でおやめになってもいいの。逆におかわりはできないのよ。とりあえずここまでにしておいてね」

不思議なことに純代はそういって聡に器を渡した。

たくさん食べろ、とはよく言われるが、ここまでしか食べるな、というのは久しぶりに言われる気がする。

聡は匙ですくった一口を口にした。

大根は舌の上で溶ける様にあっという間になくなり、親しみやすい……塩味も甘味もカツオダシの香ばしさもすべてが突出していない優しい味が一瞬舌に広がり、あっという間に消えた。

その味を確かめようと、二口、三口と口に運ぶうちに、器から大根はなくなってしまった。

「美味しかったです……。久しぶりに美味しいって思いました」

聡は素直に感想を述べた。

純代は聡の顔色を確かめるように

「気分のほうはどう?吐き気は?」

と訊いた。それで初めて、聡は吐き気をすっかり忘れていたことに気付いた。

食べ物を口にして吐き気がないのは久しぶりだ。

今までは本当に吐かなくても、たえず吐き気を堪えていたから。

だけど今は、もっと食べたいような気さえしている。

そんな聡の気持ちを察したのか、純代は

「おかわりは、30分待ってね」

と微笑んだ。

これが、つわりを治す魔法の一環だったのだ。

純代はほうろう鍋を給湯室に持ち込むと、料理を簡単に温めて、30分後に再び料理を盛ってきた。

これも今度は温めた桜島大根に加えて二口か三口ずつ盛られた3皿だけの料理だった。

食べろとは言わず、『一口ずつでいいから味を見て』とのことだったが、聡はそれを全部平らげてしまった。

すべて優しい味のものばかりだった。

「気分のほうは?」

「すごくいいです。それにとても美味しかったです」

食べる前よりむしろ、胃のたとえようもないムカつきがなくなった。

まるで妊娠する前のようだ。

どれも少しだけだったので聡はまだ食べたい、と思った。

「お昼は、たぶん将が来るから、それまで待っていてね」

純代は微笑んだ。

 
 

将はキツネにつままれたような気分で、純代が用意したちらし寿司の昼食を食べている。

ベッドの上の聡も、同じちらし寿司を気持ちよく片付けている。

その顔色はかなり快復している。

純代の『魔法』と、将と逢えて触れ合えたことで、胃の調子も、精神もかなりの安定を得たのだ。

「アキラ、大丈夫?」

「うん。とても美味しい」

微笑む聡に、純代が

「あまり食べ過ぎないようにしてくださいね。妊娠初期は、お腹をすかせすぎないこと、そして食べすぎないこと。ちょこちょこ食べて血糖値を安定させておくといいいのよ」

デザートを乗せた盆を運びながら語りかける。

あれこれと聡の世話をする純代にどうやら悪意はないらしい。

だが、腑に落ちずに将は純代の様子を盗み見ていた。

食べ終わると、純代は

「じゃあ、わたくしは整形外科の先生にお礼を申し上げてきますから。英語のわからないところを聞いておきなさいね」

と将に言い渡して、再び病室を出て行ってしまった。

『英語のわからないところ』というのは、二人のための口実に違いなかった。

なぜなら将は参考書も何も持っていないから。

 
 

挨拶にしては長い1時間ののち、純代は病室に戻ってくると

「将。まだ勉強があるでしょう。一緒においとましましょう」

と促した。

純代がいない間、久しぶりに抱き合ってお互いのぬくもりを……まるで充電のようにそれぞれの記憶に貯めた二人は別れ際にもう一度見つめあった。

「じゃあ、月曜に学校で」

将は聡が心配だったが、明るくそういった聡を信じることにして、病室をあとにした。

「聡さん、困ったことがあったら、いつでも連絡してくださいね」

「はい。ありがとうございます」

……なんで純代はこんなに聡に優しいのだ。

将はいまだにわからなかった。

駐車場に降りていくエレベーターに純代は一緒に乗ると

「当然……乗せてくれるわよね」

とそっけなく言った。

「ああ」

なぜか断りそびれてしまう。

ミニに義母を乗せるのは初めてだった。

 

 「監視……する気?」

将が口を開いたのは、病院の地下駐車場から出てしばらくの信号待ちだった。

純代は前を向いたままの将の横顔を一瞬見るとため息をついた。

「初めての妊娠でしょう、聡さん。ご両親が山口なら、私がお世話をするのはあたりまえじゃないの」

純代の答えに、将はフッと鼻をならした。うそ臭いとしか思えない。

「世間体はどうすんだよ」

将はアクセルとともに挑発するように訊いた。

「担任の先生が困っている時、父兄がお世話をするのは自然なことでしょう……。何もわたくしだけではないわ。星野さんのお母様や兵藤くんのおかみさんとも連絡を取っているのよ」

今度は将が助手席の義母の横顔を見た。

つまり父兄みんなで手助けしているという手はずを取っている、ぬかりのなさだ。

しかし将にはまだ、義母が……自分たちのことを単に応援しているとは思えない。というか、思いたくない。

聡の妊娠・出産を手助けすることで何か弱みを握りたがっているのではないか……。

将は想像をめぐらせた。

「あのさ」

ある考えに至った将は、ハンドルを握ったまま、顔を再び前にむけるとそれを声に出してみる。

「聡に子供を産ませて……後でばらして、俺をスキャンダルに陥れる、とか考えてるんじゃないの。そうすりゃ孝太が……」

「将!」

純代は鋭い声をあげると、将の汚いセリフを制止した。

あまりの剣幕に将は、思いついた想像を口にするのを中断せざるを得なかった。代わりに純代の顔をのぞく。

純代は将を見据えていたが、やがて、うつむくとため息をついた。

「あなたがそう考えるのも無理はないわ……」

将は再び赤に変わった信号に、前の車との間隔を測りながら、一方で純代から視線が離せない。

純代はそれほどまでに、やるせない表情を浮かべていたから。

「急に信じろといっても、難しいこともわかる……。でもね、将」

車が停止してしまうと、純代はゆっくりと顔をあげた。

せつない瞳は、強い光を宿らせて、再び将を見据えた。

「私が、聡さんにあなたの子供を無事に産んでほしいと願っているのは本当よ」

義母のこんな顔を見るのは初めてだ。

子供の頃、叱られるようなことをしなかった将だから、義母はただ優しくて。

非行に走ったあとは、いつも心配しつつも強いことなどいえない……将はそう高をくくっていた。

「だから、もし……仮に。これが私があなたを陥れるためのワナだったとしても。私を利用しなさい。

私を利用してでも、二人で幸せになって……私を見返しなさい」

純代は凛とした声を車内に響かせた。