「あ。あたし学校に忘れ物しちゃった。先に帰ってて」
「えー?みな子ぉ?」
改札の前で、みな子は急に友人のすみれを置いて学校へと引き返した。
3時すぎに下校したものの、駅前のマックですみれの恋話を聞いているうちに時刻はもう4時を大きくまわっている。
すみれは、クリスマス・イブの今日は、付き合っている先輩のバイトが終わるのを待って、イルミネーションの街を歩くそうだ。
しかし、この大雪だ。すみれはマックの窓から恨めしそうにやまない雪をのぞいていた。
だが、相手がいるならいい。
イルミネーションが仮にまったく見えなかったとしても、寄り添って歩けるんだから。
みな子は、すみれに軽く手を振ると、止まない雪の中、学校へと引き返した。
忘れ物は、英語のプリントだった。
さっき、聡に『じゃあもう少しレベルの高い過去問を探しておいてあげる』と言われていたのだ。
みな子はこのところ……まるで聡に張り合うように英語の勉強にせいを出している。
もともと得意だ、ということもあって、やればやるほど面白い。
本当は歴史……こと近代史のほうこそ苦手だからもっと時間を割く必要があったのだが、ついつい英語ばかりをやってしまう。
そして、市販の問題集をやるよりも、聡の解説が聞ける分、聡から問題をもらうほうがより実力がつく手ごたえを感じた。
憎らしい恋のライバルだけど、利用している感じは悪くない。
今日も、みな子は聡に英作文の添削を頼みながら、こっそりとマタニティの腹を盗み見ていた。
――早く、あのお腹が醜く脹れて、他の男の子供を妊娠していることがあきらかになればいい。
……突き詰めればそんなことを思っていたのだ。
北海道のロケが長引いて、今日の終業式に出席できなかった将。将が聡をまだ好きなのは直感でわかっていた。
だけど。聡のお腹が大きくなるにつれて、気持ちも冷めていくだろう……。
それを期待するみな子だが、今日の段階で聡の腹はまだあまり脹れているように見えず、マタニティも単なるAラインのワンピースに見えて、みな子はがっかりした。
降りしきる雪の中、傘をさして、雪道を滑らないように学校へ引き返すみな子は、この1時間やそこらの間に、あたりがかなり暗くなったことに気付いた。
時計をみたが、まだ4時30分をすぎたばかりだ。
ようやく学校にさしかかったそのとき、みな子は校門を出てきた聡が、駅とは反対方向……つまりバス停のほうへ歩いていくのを見た。
「……先生!」
駆け寄ろうとしたみな子は、あと少しというところで、立ち止まる。
聡の身体をヘッドライトが一瞬眩しく照らし、直後に彼女のすぐ横に国産車が止まったからだ。
まもなく運転席のドアが開いて、背の高い男がでてくるのを見た。
その男は……みな子はその男に目が釘付けになった。
開いたまなじりに冷気が突き刺さるのもどうでもいいほど……。
「アキラ!」
車から出てきた男を見て、聡は目を真ん丸く開いた。
髪をニット帽ですっぽりと隠し、薄いサングラスをかけていたが、サングラスを取る前に聡は男の正体がわかっていた。
それはまぎれもなく、北海道から帰って来れないはずの将だった。
「……将!」
「ただいま……じゃない、メリークリスマス」
一刻ごとにその紫を濃くしていく夕闇に降りしきる雪。その中に微笑みながら将はたしかに佇んでいた。
「どうしたの!飛行機、欠航してるんじゃなかったの?」
将にかけよろうとした聡は、足元の注意を一瞬忘れてしまったらしい。
つるりと滑った身体が大きく揺れる。
「危ない!」
将はあわてて駆け寄ると聡の体を抱きかかえるように支えた。
聡がさしていた傘が、雪の積もった路面に音もなく落ちる。
「……セーフ。気をつけろよ、普通の身体じゃないんだから」
聡は、ひさしぶりの将のぬくもりに、学校のすぐ近くだというのも忘れてしばらくしがみついていた。
抱き合う二人に、さらさらと雪がかかる。
昼間の、ふわふわした花びら状から粉状に変わりつつある雪は、冷え込んだ空気の結晶のようだ。
将は聡の肩に手をあててそっと身体を離すと、落ちた傘を拾って渡した。
「赤ちゃんはどう?動いた?」
コートとマタニティの上から、少しだけ膨らんだお腹をさがそうとした。
吐息が唇に凍りつきそうな寒さの中で、将の身体も、お腹をなでる手も確かに温かかった。
「将、どうしたの?信じられない……」
聡は答えもせず、お腹をなでる将の顔を呆けたように眺めていた。
「飛行機だけが交通手段じゃないでしょ」
将は微笑むと顔を上げて、聡の頬をいとおしげに掌で包んだ。
それはヘッドライトの光りの中、寒さでリンゴのように赤くなっているのがわかった。
聡は車に目を移した。
「は?福島ナンバー?」
驚く聡に、将はいたずらっぽく笑う。
「そ。レンタカー。ずっと、運転してきたんだぜー」
「えー?福島から?」
「それはあとで。寒いだろ、乗れよ。スタッドレスタイヤだから雪でも安心だぜ」
将は助手席のドアをあけると、聡を車の中に招きいれた。
車に乗ろうと腰をかがめると、聡の中では、わずかにお腹が存在を主張するようになっている。
将は、聡が持っていた傘を差しかけて聡が乗り込むのを見届けると、自分も運転席に乗り込んだ。
みな子は、その国産車が走り去るまで……一部始終をずっと見ていた。
晴れていれば、ここにいるみな子に声をかけるのが自然なほどの距離で……。
他人には、すぐには将だとわからない格好をしていたけれど、彼を恋するみな子にはすぐにわかった。
二人のほうは、車のヘッドライトに照らされた、空から大量にこぼれてくるような雪が壁になって、みな子は見えなかったらしい。
しかしみな子には、まるでスポットライトに照らされた舞台のように、二人が見えていた。
それを見る観客というよりは……雪の壁になり切ってしまったように、みな子は凍り付いていた。
……二人が、まだ、続いていたなんて。
抱き合う二人を見て、最初はまずその事実に息を飲む。
だが、聡への憎らしさが湧いてくる前に……聡のお腹をいとおしげにさする将をまのあたりにして。
みな子の中に次なる疑念が生まれる。
疑念は生じた瞬間に、確信となってみな子の心の真ん中で動かないものとなる。
……聡の、お腹の子供は、将の子だ。きっと……いや、間違いなく。
立ち尽くすみな子に、雪を含んだ風が一瞬強く吹き付けて、みな子は肩をすくめた。