「借りは……いつか大きく成長したあとで、大きく返すんだ」
「あなた。借りだなんて……」
節子が眉をひそめて弁解をする。
「大悟くん。わたしは……ううん、この人だって借りだなんて、思ってないのよ」
だが大悟には、わかっていた。
隆弘の言葉が、「利益」のような直接的なあざとい意味を持っているのではない、ということを……。
「親が、子供に『貸し』なんて言葉は使わないでしょう」
大悟は逆に、節子が言う、『世間の親のあたりまえ』のほうこそわからなかった。
親は……子供を育てて、損をしたと思わないのか。
否。
大悟は、肌でそれを感じていた。
親とて、人間だ、畜生だ。
人であり、畜生である限り、食っていかねばならない。
もし親が、かつがつの生活をしていたのなら、子供の食い扶持は限りなく負担になり……きっと『タダ食いはいつか返せ』という勘定を
抱くに違いない……。
それは大悟自身が育ってきた過程で感じてきた現実だった。
「わたしたちはね、……大悟くんに、ここにいてほしいの。ただそれだけ」
「大悟」
節子の温かい声を隆弘が遮る。
「俺は……きれいごとは言わない」
大悟は思わず目をあげる。再び視線をあげたあたりに、隆弘の目があった。
どうやら隆弘は大悟をずっと見据えていたらしい。
「俺は、大悟の将来に期待しているんだ。だからおまえさんを助けたい。……だがな。勘違いしないでほしい。おまえさんを助けた見返りは金じゃない、大悟」
隆弘の目は、酒のせいか少し充血していたが、澄んで、何よりまっすぐだった。
「おまえが、成長していく姿を見せてくれるのが、私たちへの一番の見返りなんだよ。……もっとも」
隆弘は、大悟を見据えていた視線を、ふっと落とすと、口元に笑みを浮かべた。
「それは……正直、金より重荷かもしれないが……」
その隆弘の言葉を聞いて、穏やかな笑顔を見て……大悟の心の底に沈殿した不安は、中和液をいれたように溶けていく。
溶けて嵩を増した心から何かがこみあげてくる。
慣れない『愛』『情』というものを与えられた大悟の心は動揺していた。
突き上げてくるような心を必死で抑える大悟は『重荷なんかではありません』という返事を発するのも忘れていた。
大悟の心のうちとはうらはらに、テーブルの上には、再び沈黙がテーブルに覆い被さっているようだった。
だが大悟はそれすらも感じるゆとりがなかった。
隆弘の顔を見なくてはという意識も力が尽きて……大悟は自然にこうべを垂れてしまっていた。
下をむいた大悟の瞳に、自分の手が映った。
かつて、目の前にいるこの男は、自分の手を褒めた。夫妻が……自分に寄せるもの――期待――の象徴。
人に期待などされたことがなかった大悟である。
それが重荷なのかどうかさえ、よくわからなくて、大悟はただ困惑した。
「あなた、もう、この辺にしましょう。……大悟くん、お風呂に入らない?入りなさい。ゆっくり疲れをとって。今日は早く寝なさい」
節子は沈黙から大悟に助け舟をだすべく立ち上がると、大悟を促しながらバスルームへと向かう。
ダイニングに二人取残されて……大悟はどうふるまっていいかわからなかった。
ただ、自分を思ってくれるこの夫妻を、自分は好きなのかどうか。それだけを考えていた。
好きなのか。それとも、ただ楽をしたいからここにいるのか。
自分でもよくわからない大悟だが、前者の気持ちには自信がなく、後者だとしたらそれは自分で自分が許せない。
「大悟」
隆弘が呼んだ時、バスルームからちょうどいきおいよく蛇口からお湯が出る音がした。
「どうせ働くなら、月曜日からうちの手伝いをしなさい。わかったね」
隆弘はおごそかに宣言した。
『はい』と返事をしながら、心のうねりがついに目の奥に達した大悟は、必死でそれをこらえた。
「ベッドがよかったら買ってあげるから、遠慮なく言ってね」
節子はそういいながら大悟の布団を敷いてくれた。
布団もシーツも新品ながら、節子がそれをフカフカに干しておいてくれたのは一目見ればわかる。
「ありがとうございます」
大悟は何度目かの礼を口にした。西嶋家で物置代わりになっていた東向きの6畳間を、大悟は自分の部屋として使うことになった。
自分の部屋を持つなど、大悟にとってはおそらく生涯初めてに違いなかった。
もっとも、小学校高学年から父親がいない部屋で大悟は一人でいることが多かったのだけれど。
窓際には、新しい机も置いてある。押入れの中には、何着か新しい服も買ってある。
普通の子は……小さい頃からこんな風に親に、物質的にも愛されるのだろうか。
病院での習慣か、早めに床についた大悟は、恵まれた子供を想像して……それは将を思い起こさせた。
大悟は、暗闇にため息をついた。
何がため息をつかせるのか……それは大悟にもよくわからない。
大悟の将への思いは、複雑に層を成していて、一言では表せない。
その層の1つ1つにたまったガスを抜くように……大悟は将を思い出すと自動的にため息が出てしまう。
将への思いの表層は……本当にすまないことをした、という罪悪感。
覚醒剤におぼれた自分を、傷だらけになってまで、やめさせようとしてくれた。
あの、死闘が繰り広げられた台風の夜は、こうやって正常になっても思い出すことができる。
悪魔の薬は……記憶はなくさせないまま、人格だけをそっくりと変化させることもあるらしい。
ゆえに、あの狂気の自分を振り返ることができる大悟は、そのたびにその部分を記憶した脳を露出させて掻き毟りたくなる。
その表層の下には……だが、自分が覚醒剤に溺れるきっかけをつくったのは将ではないかという疑惑。
それは地表の下のマグマのように静かに熱を帯びていた。
直接のきっかけは、瑞樹が遺したものからだったが……そもそも、瑞樹が薬をやるようになったのは前原のところに居候をするようになったからである。
そして……将と同棲していた瑞樹が、前原のところに行くハメになったのは将に捨てられたからだということは、瑞樹の言葉の端々から想像できた。
瑞樹が死んだのも……自分が薬をやるようになったのも、元をただせば将のせい。
そんな風に結論付けたくなる自分を、大悟はもみ消すのに苦労した。
しかし、その熱いマグマの下には、清浄な地下水のように、将への友情が流れているのも事実だ。
愛知の親類の家を追い出された自分を、何も言わずに受け入れてくれた将。そして中学時代に過ごした楽しい思い出。
自分で自分の食い扶持を稼いでいて……自分ひとりで生きていけるとうそぶいていた大悟も、将というお互いに傷を持つ仲間がいて、精神的に救われていたのは否めない。
将は、大切な親友なのだ。その存在に癒される自分を……大悟は風に煽られるマッチの火の様に、掌で大事に守っている。
さらにその下には、凍りついた小惑星のような氷塊の……大悟の心があった。
自分でも捉える事ができないその冷たい中心部を、大悟はできるだけ見ないようにしていた。
だが、こんなふうに暗闇で一人になったときに将を思い出すと、その部分は大悟の中で体積を増したように圧迫してくる。大悟はそれを恐れた。
そこに刺激をされておのおのの層が吐き出した気体が……大悟のため息の正体だった。
大悟はその存在を忘れるべく、眠ろうと努力をした。
幸い、薬物がもう抜けてしまった大悟の体は、昼間の疲れも手伝い、まもなく健康な眠りにありつくことができたのだが……。