「……じゃあ、今日はこれで解散ね。みんな寄り道しないで帰るのよ」
そう注意を与えながらも、せっかく出てきた生徒たちがそのまま帰るはずがないことは聡にも分かりきっている。
それでも大半の生徒は、おなじみのターミナル駅まで聡について同じ地下鉄に乗る。
ホームで聡は生徒を見回すふりをしながら、離れたところにいる将を見る。
方角が一緒だから付いてきているのを確認した聡は、将の傍らにいたみな子と目が合ってしまった。
桃色の振袖は、ふだんクールな感じの彼女を愛らしく見せてよく似合っていた。
裾などもペラペラとめくれず、しっとりとした艶は上等な生地に違いなかった。
聡は実家に置いたままの自分の着物を思い出した。
成人式は従姉の振袖だった聡だが、せっかくだからと母が作ってくれた訪問着。
毎年、正月に帰るたびに話題に出るのだが、結局、一回も着ていない……。
もっとも訪問着だから、結婚しても着ることはできる。
いつか将と一緒にそれを着る日は来るのだろうか。
地下鉄を乗り継いで、やっとターミナル駅へ着く。
さっきまで小春日和だった午後の陽射しは、すでに夕方に近い色になっている。
正月とはいえ、駅はいつもと同じくごった返していた。元旦から開いて、バーゲンを開始したデパートもあるらしい。
「じゃ、先生は寄るところがあるから」
と聡は先に生徒に手を振って去っていった。
二人でマンションに戻るわけにはいかないことはわかっているが、将は寂しく聡の後姿を見送る。
自分もそろそろ帰ったほうがいいだろうか、と将が時計を確認したとき。
「鷹枝くん。あの」
いつもより言葉少なだったみな子が、急に口を開いた。
「よかったら、少し付き合ってくれない……?」
視線を下に落としたままの調子が、いつもと違う。だが最後に、視線を将の目の位置まであげて
「話があるの」
と続けた。
その必死な様子に、コクられるのかもしれない、と将は直感した。
できれば、聡と会っている時間以外は勉強にあてたい今の将だ。
だが、動きが不自由な振袖姿で駆けつけたのは自分のためかも、と思い直す。
聡と出会ったことで優しくなった将は……みな子を無碍に拒絶することはできなかった。
駅近くのカフェもかなり混んでいた。
オーダーするまえに、あらかじめ席を確保したほうがいい、と将は席を探したが、あいにく窓際のカウンターしかなかった。
「すわりにくくない?」
高いスツールに振袖で座るのは少しつらいだろうと、将はみな子のために椅子を引いてやった。
「俺、買ってくるよ。……何がいい?」
とさらに気を利かす。
「え、いいよ。そんな」
もちろんみな子は遠慮した。なんといっても将は芸能人だ。
伊達眼鏡はしているものの、彼が自らレジに行くなんて、目立ちすぎるのではないだろうか。
みな子はまわりを見回した。幸い気付かないのか、見て見ぬふりなのかはわからないが、将を気にとめる人はいないようだ。
「いいって。なんかキモノって壊れちゃいそうで、コワイ。じっとしてて」
将はそういって笑うと、レジに行ってしまった。
みな子は袖を気にしながらカウンターに肘をつくとため息をついた。
将とこのまま別れるのが惜しくて……つい誘ってしまったが、何を話すというのだろうか。
いや、話したいことはいろいろある。
ありすぎて、どれから話せばいいのかわからない。
とりあえず、関西に行かなくてはならないことは……話すべきだろう。
まずは無難なところから、頭の中を整理するみな子だったが、次の瞬間には疑問がわく。
――それを話したところでどうなるのだろう。
別に付き合っているわけでもない二人だ。
将はきっと「残念だ」というだろう……。でも、きっと、ただそれだけだ。
その意味付けに……せめて告白してみるのは?
胸に苦しいほどの思いを吐き出してみたら……。
それを想像するだけでみな子の心臓は激しく収縮しだした。
苦しい呼吸の、まるでクロールの息継ぎをするようにみな子はレジを振り返った。
レジはオーダーを待つ人で行列が出来ていた。
将もまだ待っているようだ。背の高い将だから居場所がすぐわかる。
下を向いている将は……どうやらメールを打っているらしい。
みな子は息を飲み込んだ。
おかげで胸がますます苦しくなってしまったみな子は、思わず手で口を覆う。
――きっとアキラ先生にメールを打っているんだ……。
それがわかってしまったみな子の理性は、告白なんか、なんの意味ももたないことを割り出してしまう。
将は……たぶん、まだ聡と続いている。そして聡が結婚したというのは嘘。
突拍子もない想像だとは思うけれど、疑惑を通り越して、みな子の中では確信になっている。
『アキラ先生のお腹の子は……鷹枝くんの子供なんでしょう』
それを言ったら、将はどう反応するだろうか。
不思議なことに、告白の場面を想像したときより、みな子は奇妙に落ち着いてきた。
将はいろいろと誤魔化そうとするのだろうか。
それとも、6月に猫を見に行った帰りのように、みな子だけに秘密を打ち明けてくれるのだろうか。
――そうだ。
みな子はガラス越しの街並みに向かって背筋を伸ばした。
あのとき、将が聡をまだ好きだということは、仲のいい井口にも秘密にしていた。
それをみな子にだけ打ち明けたということは……将は、みな子を信頼してくれているのだ。
友達だけど……唯一無二の存在かもしれない。
かけがえのない事実に、みな子は一瞬救われる。
そのスタンスに縋って生きてきた。将を想ってきた。
だが……そのスタンスを重視すると……今のみな子には将に話せることはほとんどなくなってしまうのだ。
思考が振り出しに戻ったみな子は、再びカウンターに肘をついて、ガラスの向こうをぼんやりと見るしかない。
オーダーの順番を待ちながら、将は、さっき、なし崩しに別れてしまった聡に宛ててメールを打っていた。
>今、どこ?俺は○○駅前のスタバ。
>みな子と一緒。ちょっとコーヒー飲んだらすぐ帰る。
>今日も、英語特訓ヨロ。
聡は大人だから、キーキー嫉妬することはないだろうが、誤解させないように、先手を打って連絡しておいたのだ。
聡はといえば、元旦から開いている書店の参考書コーナーでそのメールを受け取っていた。
昨日、将が思ったより頑張ったおかげで教材が残り少なくなっていた。その補充のために、いくつか問題集を新たに選んでいたのだ。
メールを読みながら聡は、元旦くらい休んでもいいのに、とも思ったが4日からスタジオ撮影が始まる将だ。今が頑張りどきなのだろう。
と、聡は手にした問題集を、将に渡してしまおうと思いついた。
クラスでの初詣帰りという大義名分がある今だ。街角で参考書を渡すぐらい教師と生徒として別に不自然なこともないだろう。
しかも、星野みな子も一緒ならなおさら都合がよい。なんなら一冊はみな子に貸してもいい。
聡は問題集3冊のお金を払うと、将がいるカフェへ向かった。
その頃。
みな子がぼんやりと見ていた行き交う人々のこちら側で。
カフェにいる二人を……正確には、将を……狙っているカメラがいた。
写真週刊誌の新年最初の号に載るべく、共演の○○谷詩織とのスキャンダル記事が進行しているのを……将はまだ知らない。