第124話 山の中に独り

電話もない。携帯も通じないところに置き去りにされてしまった。

聡はしばらく愕然として何も考えられなかった。

――明日になったら、歩いて降りればいい。

と、ポジティブな考えが出てくるのに随分時間がかかった。

一番近くの民家を思い出す。たしか5分ほど続いた未舗装道路の手前、どれぐらいだっただろうか……?

電卓を出して冷静に計算してみる。駅からここまで車で40分ぐらいだったはず。そしてその真ん中ぐらいまでは確実に民家があった。

終わりのほうは、山道や未舗装で速度はゆっくりめだったはず。時速30キロだったとして、20分で10キロ。

10キロ……つまりどんなに長くても2時間も歩けば絶対に民家がある。

ローヒールで2時間はつらいけど、あくまでも最大だから。そこまでいかなくても途中で携帯も通じるようになると思うし。

なんとか結論を出して、聡はようやく自分を安心させる方向に仕向けた。

そして、時間が早く経つように、仕事を再開し、念入りに学校のチェックを始めた。

そのあとの夜が……長かった。

夕食は買い置きのカップ麺とビールしかない。

炊飯器はあるものの、前いた人はそれを使わずに車で弁当を買いに行っていたようだ。

インスタントの麺だけの夕食はさっさと食べ終わってしまう。

風呂は新しいユニットでまともに使えたが、シーンとしたなか、湯船につかっていると、ときおり、野犬なのか

『ワオーン!』

『ウオー!』

といった遠吠えも聞こえてくる。

無防備な裸でいるのがとても危険に思えた。

ゆっくり温まっている場合ではない、と早々に上がり、もう一度、寮の入り口、すべての窓の鍵を確認せずにはいられなかった。

そしてカーテンをしっかりと隙間なく閉める。

――まさか熊とか出ないでしょうね。

そんなことまで考えてしまう。

テレビもざらざらとした砂嵐の中にようやく輪郭が映るようなありさまで、まともに見えるとはいえない。

DVDの機械はあったが、ソフトはアダルトばかりで、どうやら前にここに泊まっていたのはあきらかに男性のようだった。

しかし、テレビを消してしまうと、恐ろしいほどの静けさが聡を襲う。

恐ろしくて、雑音が入るテレビなのに、付けっぱなしで聡は床に入った。

床もシーツこそ洗ってあるがどこどなくタバコ臭い匂いがして、気持ち悪かった。

聡は、早くこの夜が過ぎて欲しい、とそればかりを願った。

眠くなって気付いたら朝、というのが望ましかったが、恐怖に神経が昂ぶっていて睡眠はなかなか訪れてくれなかった。

 
 

目覚めると、ほの明るかった。いつのまにか眠っていたらしい。

ケモノどもの泣き声もおさまって、静かな朝がやってきていた。

寝不足で、体中にタガがかかったようなだるさを自覚しながら、カーテンをあけた聡は、『あっ』と声をあげた。

音もなく雪が舞い降りていた。大量に……。

突っ掛けを履いて、寮の入り口に出る。

「うそぉ……」

雪は、敷地内に粉砂糖を振りまいたようにうっすらとあたりを雪化粧させていた。

この状態で下り坂をローヒールで歩くのは危険だ、ということは聡にもわかる。

聡はため息をついた。ため息はまっ白になって雪景色の中に溶けていった。

 
 

甲府地方の冬に、それほど雪は降らないと聞く。

そのうち止んで、雪も解けるだろう、と聡は窓を眺めたが、いっこうに止む気配はない。

雪の勢いは逆に強くなっていくようだ。

砂嵐のテレビをつけて天気予報をみようとしたが、あいにく日曜日。

午前中はどこも天気予報をやっていない。NHKで正午前にやる天気予報まで待つはめになった。

天気予報を見て聡は、また途方にくれることになった。

それによると、寒気の影響で今日いっぱい雪は止まないとのこと。

――明日、学校に行かなくちゃいけないのにどうしたらいい?

聡は、しばらく考えて、気温が高いうちに自力で降りることにした。

夜になって凍りついたほうがもっと危ない、と思ったのだ。

幸いビニール傘がホコリをかぶった状態で置いてある。

聡はボストンを持って、傘をさして外に出た。あいかわらずうっすらと雪が積もっている状態は変わらない。

――北海道のニセコアンヌプリの頂上で吹雪にあったときよりははるかに温かいんだから。

そう思って自分にゲキを飛ばす。だが、装備もあのときと段違いに薄いのだ、というのもわかっている。

滑らないように小またで一歩一歩進む。普通に歩くときの2倍の時間をかけて慎重に進む。学校の敷地の出口にやってきた。

細い未舗装道路の坂道が続いている。

突然、ざざっと音がして、聡はビクッと震えた。

両側の高く茂った原生林が揺れただけだった。風が少し出てきたらしい。

未舗装道路は深い轍に大きな石がゴロゴロと落ちていていかにも歩きにくそうだ。

それらにも、うっすらと粉砂糖をふるったような白い雪が積もっている。

聡はさっきよりもまして慎重に歩を進めた……つもりだった。

ずるっ。

「キャー!」

粉砂糖のような雪の下は、粘土質の泥になっていて、聡はそれに足をとられて尻餅をついた。

「イタタタ……」

思い切り腰を打った。みるとコートも持っていたボストンも泥だらけになっている。

「あっ!」

手から離れた、開いたままのビニール傘が風にあおられて、聡が座り込んでいる場所から下のほうに飛ばされていく。

それを追おうとして、足首がずきっとした。

「捻挫……?」

転んだときに捻ったのか。傘は聡をあざ笑うかのように、一人で坂の下のほうに行ってしまった。

なすすべもなく傘を見送る聡に雪がふりかかる。

北海道の雪と違って、湿ったボタ雪は、聡の体にくっついたとたんに溶けて染みていく。

聡は、泥だらけで座りこんだまま、泣きそうになるのをなんとかこらえていた。

 
 

足は、軽い捻挫のようだったが、結局天気が回復せず、携帯も電話もないという状態で、聡は麓に降りれないまま2日目の夜を迎えた。

皮肉なことに……雪は、転んだ後、聡が寮に戻ってまもなく雨に変わった。

しかし、雪でも雨でもあの坂が危ないのは変わらなかった。

――このまま降りれなかったらどうしよう。

そんな恐怖が現実となって聡を襲った。

それに、明日このままだと、無断欠勤になってしまう。

――将、心配してるだろうな。

結局、考えはそこにいく。

聡は、携帯のフォトフォルダを開けた。こんなことをするのは、たぶん携帯を買って初めてじゃないだろうか……。

そこには秋吉台での2ショット写真や、雪の羊蹄山をバックに撮影した悪ガキ4人組などと共に、同棲を始めた日にふざけて撮影した、ブロマイド状にカッコつけた笑顔の将が居た。

ウインクしているものまである。思わず聡はそれを見て

「バカ……」

と、一人笑った。それを呼び水にして将のさまざまな様子が、次々に頭の中に蘇る。

その1つ1つが……何気ない日常でも胸を締めつけるような想い出になっている。

そう。

思えば、9月の赴任まもなくから、聡は将を見ていた。

日常の……授業中も、何のそぶりも見せずに授業をしているときも、将がそこにいることに安心していたと思う。

悪ガキ同士、学食に向かう後ろ姿から聞こえる笑い声を聞いていた。

1年生に小テストをやらせている午後の窓から、体育でサッカーボールを追って校庭を走る将を目で追っていた……。

もう将の姿を1日以上見ていない。

聡は、自動的に暗くなってしまう携帯を何度も開けて、将の顔を確認した。

将に会いたい……。

2日目の夜も、よく眠れなかった。

 
 

雨は月曜日の朝まで残ったが、9時ごろにようやく止んだ。

聡は、もう降らないというのを見届けると安心して帰り支度を始めた。

足は少々痛いが、歩けないほどではない。

そのとき表にエンジン音がした。軽トラックが敷地内に入ってきて止まった様だ。

「古城さん!いますか!宅急便です!」

配達員が、寮の入り口を叩いた。

「ハーイ!」

聡は、ラッキー!と入り口に出て行った。

この配達員に乗せてもらうか、タクシーを呼んでもらうよう頼めばいいからだ。

「誰もいなかったらどうしようかと思いましたよー」

と配達員は軽口を叩きながら、ずっしり重い書類封筒を聡に渡した。

そしてタクシーを呼んで欲しいという聡の依頼を快く引き受けてくれた。

――よかった。歩いて下に降りないで済む。

聡は、ホッとして、自分宛になっている書類の封を開けた。

――えっ!

聡はその文面に目が貼り付いた。

そこには

『古城聡を南アルプス予備校(仮名)の副校長に任命する』

と書いてあった。

そしてその下に、教頭らしき字の手書きで

『今週は現地で、環境を整える作業と、高校資格取得者用のカリキュラム案の作成作業をしてください。

現地の豊かな自然を取り入れたユニークな案を古城先生に期待しています』

と書いてあった。

社判などとともに、高校資格取得者の傾向等についての分厚い資料も入っている。

――うそ。

急な転勤命令に聡は、目がまわりそうになった。