第15話 汐風の中で(3)

そのとき、ある音がエンジン音をもしのいで車内に響いた。

聡がうつむいた。お腹の空腹のサインが派手に鳴ってしまったのだ。

「ほら。ゴハンいこ」信号が青に変わり、将は笑いながらハンドルをきった。

――まあファミレスぐらいなら、つきあってもいいか。

と思った聡だったが、到着したのは……。

 
 「ちょっと……。ここ1食3万は下らないってレストランだよね」

シャンデリアの下、豪華な織りのクロスがかかるテーブルをはさんで向かい合う二人。テーブルの上にかがみこむように聡は囁いた。

「ここは大丈夫。俺がおごるから」
「そういう問題じゃなくて……、問題でもあるけど……。こんな汚いカッコで。見てよ、ジャケットなんか塩ふいてるよ」

「それをいうなら俺もだってば」

服のまま海で泳いだような二人は、髪も服も塩でバリバリに固まっていた。

よくも、出迎えた年配の食堂支配人(メートル・ド・テル)は通してくれたと思う。

ジャケット着用でないと入れない一流フランス料理店。食堂支配人はジーンズ姿の将を見ると、気を利かせて奥から若いギャルソンにジャケットを持ってこさせて着用させた。

「ほかでもない鷹枝様ですから」

とにっこりする。

ふかふかの絨毯に高い天井。フランスの本店とほぼ同じといわれるインテリアは写真などでみるより落ち着いた雰囲気だ。

モダンとかスタイリッシュといった客寄せのための奇抜さとは無縁。さらに明るすぎない照明、客の会話を邪魔しない程度の静かなクラシック音楽が上品な寛ぎの世界を演出している。

「食前酒などいかがでしょうか」
「シャンパン。クリュグ」と将は即答した。

メートルが去ったあとで、聡は小声で「未成年でしょ!」と咎めたが、将は知らん顔でメニューを開き

「アキラ何食べる?」などと言う。
「えー。何がなんだかよくわからない……」

それもそうだ。メニューは全部フランス語で書いてある。

「嫌いなものとかあるの?」
「……特には」

「じゃあ、デギュスタシオンにすれば」

つまりおすすめ品お試しコースである。

「そんなの書いてないよ」
「大丈夫だって」

将は、自らメニューをとりにきたメートルに、

「ムニュ・デギュスタシオン2つ」とオーダーした。

するとメートルは、恭しく「かしこまりました」と承った。それどころか「今日は鶉とスズキがいいようですが」と付け加える。

「うん。いいんじゃない。それも入れといて」と将。

次にすかさず、

「ワインは何になさいますか」

ソムリエがやってくる。大きなメダルのようなものを首から下げた、本物のソムリエ。聡はドラマの中でしか見たことがなかった。

「アキラ何か飲みたいのある?」

と聞かれても、いまいちわからない。

――ていうか、未成年でしょーっ!

と言いたいのを押さえて、

「グラスでいいんじゃない?私だけだし」。

すると将は、その皮肉に気付かないのか、あるいは気付かないふりをしているのか

「せっかく二人なんだから1本頼もうよ」

などとワインリストを前に考えている。

結局、ソムリエと話し合って勝手に決めてしまったらしい。その慣れたようすは、とても17歳に見えない。

聡は再度テーブルの上に身をかがめるようにして、

「お酒!未成年でしょ!それに運転はどうするの」と囁いた。
「こんな店で野暮いうなよ。運転はいざとなったら代行頼めばいいよ」

ととりあわない。

そこへ、アミューズと共にシャンパンが運ばれてきた。

「……クリュグでございます」

そういってラベルを示すと、開栓した。ポン、という音と共に瓶の中でシュワーっと泡がざわめいた。聡のほうのグラスからついでくれる。

細長いシャンパンフルートの底から細かい泡が立ち上ぼり、表面でピチピチとはねる様子が小さな線香花火のように可憐で美しい。

「じゃあ、アキラと俺の初デートに乾杯」
「……乾杯」

シャンパンフルートの細い脚はそれがとても高価なガラスであることを告げている。

金色の液体を含むと、泡と爽やかな甘味と酸味が口いっぱいに広がり、聡は素直に「美味しい」と呟いた。

ウニとキャビア、マスの卵を使ったアミューズも口にとろりと溶けていく。

「うまー」
「本当に美味しい」

ムニュ・デギュスタシオンはさまざまな料理が少しずつ味わえて、客としては嬉しいシステムである。

しかし、少量でも掛かる手間は同じなのでシェフ泣かせともいえるのだが、店の者は将をとても優遇しているように見えた。

「……なんども来てるの?」
「うん。ここは本当に旨いからね。それはアキラも期待してていいよ」

始まったばかりのコース、前菜に手をつける聡はなんだか腑に落ちなくて自分もカトラリーを手に取った。

そんなことより、聡が無意識に知りたかったのは、いつ頃から、誰と来ているのかを知りたかったのだが……

自分でも明確に意識していない設問を相手が答えるはずもない。

将はアミューズもその次の前菜も、にこにこほくほくしながら次々と平らげた。

姿勢もカトラリーのあしらいも、きちんと躾けられたものらしく、自然に寛ぎながらも、見よいものだった。

前菜はどれも手が込んだものなうえに、素材自体がとてもいいように見えた。聡は話題の泡ソースというものを初めて食べた。

何度か博史と食べたことがあるフォワグラも、コンソメで柔らかく煮込んだ大根をサンドしてまた、別の旨さになっている。

スープは栗をつかったヴィシソワーズ。冷たいポタージュだ。

「これがうまいんだ。だれも見てなかったら皿を舐めたいくらい」

といって将はせっかちにスプーンを手に取った。ほこほこした栗が濃厚なクリームに生まれ変わったような、そんな逸品に聡もうっとりした。

もはや、ボキャブラリーを忘れたように「美味しい」しかいえなくなっている。

「アキラがバイトしてた弁当屋も相当うまかったけどね」

魚料理が運ばれてきた。スズキのポワレをクレープで包んだ凝った料理だ。

「値段がぜんぜん違うでしょ」
「アキラも料理とかすんの?」

「ちょっとだけね。大学生までは全然ダメだったのよ。でも博史に……」

りんごをゴボウの笹がきのように剥いて博史に笑われた。弁当屋でバイトすることにしたのは料理修行の意味もあった。あそこで野菜の見分け方から、いろいろご主人や女将さんにおそわってだいぶマシになったのだ。

そんないきさつを聡は楽しげに話した。シャンパンが入って気楽になっているせいか、博史の名前を出してしまっていた。

「でもやりだすと料理って楽しいんだよね」

――博史、っていうんだ、彼氏。

将は、博史のためにわざわざ料理修行をしたという話を、自分に楽しそうに聞かせる聡が少し憎らしくなって

「ふうん。その博史にはつくってやったの?」

わざとその名前を呼び捨てで呼んでやる。

「ううん。まだ……だってずっと外国だもん。日本にいるときは実家かホテルにいるし」

気付かずにいる聡に少し腹立たしくなって、将はグラスに残ったシャンパンをグイッと一気に飲んだ。そこでソムリエがきびきびと赤ワインを持ってくる。
「エシェゾーでございます」

ここでもラベルをきちんと見せる。少しだけ将のグラスに注ぐ。つまりテイスティングだ。将は、器用にグラスをくるっと傾けると、その香りを嗅いで、味わった。

「いいです」

クールにOKを告げる。その動作には一切よどみがない。

聡でも聞いたことのある有名ワインの値段も気になったが、まさか17歳、塩でバリバリになったジーンズを穿いているとは思えない紳士ぶりである。

「本当にお坊ちゃまなのね」

シャンパンで多少放恣になった聡はつぶやいた。

「ねえ、お坊ちゃまがなんで、あんな学校に行ってるの?」
「あんな学校ってどんな学校?」

と将は鶉の身を骨からはずし、それにチョコレートソースを器用からめながら口に放り込みながらおどけた。

「……ちゃかさないで。アンタみたいに頭が抜群に良くて、金持ちだったら、どうにか名門校に入れるでしょ。なのになんで」
「なんでかなー、ねえ。家出したからじゃない?」

「じゃなんで家出したの」

聡は下を向いて、鶉と格闘しながら聞いた。骨をはずすのがなかなか至難だ。

「……つっつくなよ、アキラ。アキラはなんで教師やってんだよ」
「あたし?」

やっとはずした肉を口に入れたところだ。

実は聡は特に教師になろうとめざしていたわけではない。教職の単位はなんとなく取ったに過ぎない。博史と卒業後すぐに結婚しようと思っていたのだが、博史は中東勤務になり、結婚はのびた。

急に就職しなくてはならない羽目に陥って、頭に浮かんだのが、教師だったのだ。その影響はやはりいずれも教師だった両親に負うところが大きい。

「うちにはね、あたしがいつも小さい頃から、親の教え子が出入りしてたの。こっそり悩みを相談しにきたりとか、親とケンカして帰れない子とか」

そんな風に慕われる父母だったから、いつも夫婦で教育について熱心に語り合っていた。

「教師は、教室の中では絶対的な存在だ。だから、それに見合った重い責任がある。だからいつも自分を律して生きなくてはならない」ということをいつも言っていた。

それから「子供たちは教師を追い抜いていく存在だ。その才能の芽をつぶすような時間のすごさせ方を学校でしてはいけない」とも。

「ふーん。偉いご両親だね」

将は赤ワインで酔いが少し進んだ頭でぼんやりと聡の話を聞いていた。

シャンパンで少し頬が紅潮していた聡の顔。口紅はとうに剥げているはずなのに、バラ色の唇。つぶらな黒い瞳。細長い首。ナイフとフォークをあやつる白くて細い指、細い手首。ネイルアートなんかしなくても、十分に艶めいて魅力的な爪。

可愛い顔に反比例する低めの声は、「しっとり包み込む」って表現がぴったりだと思う。

こうやってずっと彼女と二人で向かい合っていたい……と将は願っていた。

「……はあるの?」
「は?」

ボーっとしていた。話を聞いている間に、皿は肉2品めの子羊に変わっていた。

「悩みとかあるの?」

聡がまっすぐに将のほうを見ている。

「ああ。いろいろ……いろいろあるよ」将は、肉を切って頬張った。
「もし、よかったら先生に相談して」

教育の話をしたあとだから、自分のことを思わず『先生』と呼ぶ聡。

「うん。……1つ相談があるんだ」
「何?」

思わず聡は身を乗り出すようにして聞いた。

将は食事の手をとめると、テーブルのうえに頬づえをついた。

「俺さ、好きな人がいるんだ。でもその人は、他の男に夢中みたいでさ……」

聡は、カトラリーをカタン、と皿の上に置いた。

「どうやったら、俺のほうを好きになってくれると思う?」

こんどは将のほうが聡をまっすぐに見る。多少充血しているが、射るような瞳である。

「好きだ」

聡のまわりの音がすべて止まった。