「……ここに寄ってみよっか」
将が唐突に言ったので、聡はなんのことかわからなかった。
「この歌の場所に」
CDはちょうど今の季節を歌った歌に移っていた。歌の中に出てくる港を見下ろす小高い公園、へ行ってみよう、と将は誘ったのだ。
「行ったことある?」
「ない」
「俺もない。いいじゃん、初めての場所に先生と初めてデート」
そこは、もろ、デートスポットだった。土曜日のせいか、人出も多く、その多くがカップルである。
しかし真昼のせいか淫靡なムードはまるっきりなく、明るい雰囲気で、将と聡も安心してそれらのカップルのうちの1組として溶け込むことができた。
「見えるねー、港が」
「ヨコハマって感じ」
無邪気に語らいながら二人は展望台に並んで立った。
港から吹いてくる風が聡の髪を揺らして、甘い香りと共に将の頬をくすぐる。柔らかく濃い栗色の髪だ。
「今、気がついた。先生、いつもと雰囲気違うね」
「そお?」
「うん。髪とか、スカートとか」
そういえば、聡がこんな風に髪を下ろしているのを、将は初めて見たのだった。
髪を下ろしてスカートを穿いた聡は、他のカップルのパートナーと比べても、とてもきれいに見えた。
女性としてはやや長身なうえにさらにヒールを履いているから、さらにスラリと小顔に見える。
固い色と柔らかい色とを大胆に配色し、センスよく着こなしている聡のまわりにはオーラさえ立ち込めているようだ。
化粧を少し変えているのが、また教師のときと違って色っぽい。
まわりの男性どころか女性までが羨望のまなざしをむけるのがわかる。もっとも実は、女性の羨望のまなざしは将に向けたものが半分なのだが。
ほとんど聡しか見えていない将には、その区別がつかなかった。
将は、これ以上、男の視線に聡を晒すこともないと思い、将は人の少なそうなほうへと歩き始めた。港への方向にあたる。
「先生って、いくつだっけ」
普通は女性にはそういうことは聞かないものよ、と注釈をつけながら、聡はもうすぐ26歳になる25と教えてくれた。
8歳違い、学年でいうと9年違うのか、と将はすばやく計算し一瞬落胆した。17歳から見たら25や26は大人もいいところである。
「見えないね。大学出たばっかりかと思った」
と将が答えたのは事実でもあるが、自分の年との差を縮めたい、将のせめてもの抵抗でもある。だから
「でも、そっちは大人っぽいよね。私、大学生っていうの信じてたもん」
という聡の言葉に一層希望を持った。
公園の奥へ進むにつれて、木立が増え、静かになってきた。
木陰のベンチでは昼間から堂々とくちづけを交わすカップルなどもいて、聡は目をそむけた。
将は気がついているんだろうか。
さらに進むと橋があった。このあたりには、奇跡的に人が誰もいなかった。橋の真ん中で聡は声をあげた。
「ほら、ベイブリッジが」
木々のむこう、目の前に青く霞むようにベイブリッジが見える。
「すごいね、穴場だね」将は一人ではしゃぐ聡の両肩をつかまえた。
そのままぐっと引き寄せる。せつなげな将の顔が、ベイブリッジを遮って聡の目の前に迫る。
どことなく懐かしい夏草のような匂いに聡はめまいがしそうになる。
「……もう一度引っぱたかれたい?」
聞こえてしまいそうなほどの鼓動を隠して、かろうじて聡は制止の台詞を、上の立場で口にした。その華奢な肩がふるえているのが将にもわかった。
将は微笑むと、と聡の肩においていた腕を自分の頭の後ろで伸ばしたり曲げたりしながら
「せっかくいいムードだったのにぃ~。アキラのバーカ」
と聡の香りを振り払うように背を向けて元来た道を歩き始めた。
再び車に乗って、海をめざす。
将はいつもの海をめざそうと思っていた。夕陽に間に合わせようと再び高速に乗る。
秋の日が落ちるは早い。地球との追いかけっこだ。
あいかわらず聡の好きな大御所のCDがBGMだ。
将も知ってる歌になり、運転しながら無意識にサビの部分を一緒に歌い出したときだ。
「ところで、この車って、自分の?」
それまで無口だった聡が急に口をきいた。
「そうだよ」将は歌うのをやめて答えた。
「……お父様に買ってもらったの?」
「自分で買ったんだよ。去年、株の儲けで」
「お父様は、……が車を乗り回してること知ってるの?」
さっきから聡は将のことを何て呼んでいいか無意識に迷っている。だから主語を誤魔化した。
「さぁ?」将は短く答えると歌を続けた。
大御所より1オクターブ低い声で軽く歌っているのが男っぽい。しかし聡はわざとその歌を遮って
「免許は?どうしたの?」と質問した。
将は合点がいった。この歌の歌詞を意識して、必死で阻止しているのだろう。
「プ……アッハハハ」
将は今度こそ本当に吹き出し、笑い始めた。笑いながら、聡のほうをわざとちらちら見ながら続ける。
♪君を抱いていいの 好きになってもいいの♪
案の定、聡は赤くなって目をそらした。
「担任をからかうんじゃないわ」とかろうじて呟いた。
高速道路を降りた。ようやく落ち着いて聡はもう一度質問した。
「で免許は?どうしたのよ」
「本当の山田さんにもらった」
「ウソばっか」
「本当だよ。去年東大に入った山田ってやつがいてさぁ……」
その山田某も国会議員の息子である。
その山田某は、高校生の頃、前に話題になったSというサークルの集団強姦事件に関わっていた。
かろうじて捜査網にはひっかからなかったが、将はそのことを知っていた。
早い話が、将は、その事件をネタに、学生証ごと山田から恐喝して免許証を手に入れたのである。
それをスキャンして写真を入れ替えて偽造したのが今持っている将の免許証と学生証だ。
「でも、もう本人にちゃんと返したし。これが本物のコピー」
将が取り出した、本物の免許には本物の山田某の写真が載っていた。顔は全然違うが骨格が似ていないこともない。
「山田本人はもっとちっちゃい。でも免許には身長のデータを書く欄なんてないし」
楽しげに免許証と学生証偽造の顛末を話す将を見て、やっぱり問題児だ、と聡はため息をついた。
そのときフロントガラスが金色の光に包まれ、聡はまぶしさに目を細めた。
目が慣れると目の前にはきらきらと輝く海が広がっていた。
「やった、海だ」思わず聡は叫んだ。
将は得意げに海岸線をさらに南へと車を走らせる。
将の横顔越しに見える9月の海には、さすがに泳いでいる人はいない。もう夕方だというのにサーファーが熱心にパドルをしているのが見える。
聡は実家の近くの日本海を思い出した。しかしここは太平洋だ。
「ね、降りてみたい」
「ここで?」
将はもっと先へ急ぐつもりだったが、この砂浜も悪くはない、と車を停めた。待ちきれないように聡は外に出る。
「わー、潮の匂い」聡は伸びをした。
風が、聡の髪とスカートを煽る。おかまいなしに、砂浜へ出てみる。ヒールの足がずぶずぶと入り込み歩きにくい。
ブーツを履いてきたのを死ぬほど後悔した。そろそろと波打ち際に近づこうとして、バランスをくずした。
「わわわ」
尻餅をつくように後ろに倒れる。
倒れた聡の下から「いて!」と声。
将が見事下敷きになっていた。将はいつのまにか聡に追いついていたらしい。
倒れた聡の顔のすぐ近くに灰色の砂がある。聡は将の上にのっかったまま砂を手に乗せた。
「あったかい……」
日差しで温まった砂は灰のような色だ。故郷の海のベージュの砂とは全然違う。
「もー、はやくどけよー、重いしー」
将は文句をいいながらも、柔らかい聡の重みはそんなに嫌じゃなかった。
「不良少年にお仕置きだよーん」といいつつ腰をどかしてあげた。
「そんなの、履いてるからだよー」
ヒールのブーツを指した。
「脱げよ」
意味はわかってるのに、聡はそんなセリフの1つ1つにドキッとしてしまう。
「ほらあ」
将は聡のブーツのジッパーに手をかけると、足から引っこ抜こうとした。
聡は、夕陽を眺めながら将にされるがままにしておいた。
力を込めるのにブーツはなかなか抜けない。……とスポッと抜けて、そのはずみで将はまた尻餅をついた。
「あはは……」
聡は指差して笑った。起き上がった将も、聡を指差して笑う。
「なんだよー、その靴下、ババくっせー」
聡はブーツの下に靴下を履いていたのだ。生足でブーツを履くのに抵抗があったから。
「いいじゃんっ!」
聡は自分でもう片方のブーツと靴下を脱いではだしになると、小走りに波打ち際に向かった。
「わ、ぬるい」
まだ9月だからなのか、今日一日晴れていたせいなのか、聡の裸足に寄せてきた波はそれほど冷たくなかった。
波が寄せたときは白く泡立った波がシャワシャワと聡の足首まで覆う。そしてひとしきり寄せると引いていく。
引いていく波は、下を見ているとそのまま波に連れて行かれそうになる。
そして足の下から砂がごっそりと持っていかれる感覚。
聡は久しぶりのその感覚を味わうかのように足元をじっと見つめて立っていた。
落ちる間際の夕陽の日差しが、聡の影を長く砂浜に映している。
そこへ。
バシャッ!
「キャッ」
将から海水攻撃だ。海水は聡の顔を直撃した。潮臭さが鼻にくる。
「イエーイ」全身を太陽と同じオレンジに染め、潮風に髪をぼさぼさにして将が無邪気に喜ぶ。すでに将自身もかなり濡れている。
「いやーん、びっしょり……やったわねー!」
聡は波うちぎわで反撃した。横から海水をすくうように将に向かって投げる。
交差する水しぶきが夕陽を反射して金色に光る。
よけながら、新たなる攻撃をしかけようとする将は、ジーンズを膝まで折り曲げていたが、すでにそれ以上の深さまで走りこんでいった。
「それっ」
「キャ」将が投げつけた何かが聡の顔にべちゃっとついた。何かの藻だ。
「へへへー!」夕陽を背に受けて将があっかんべーをする。
「もー許さないわよーっ!」
聡も藻を探そうとした。しかし、将よりは分別があるので、そうそう深みにはいけない。
――あった。
ちょっとだけ深いところに藻を見つけ、取ろうとして……本日二度目の転倒。
しかもちょうど寄せてきた波の中に。倒れた聡にようしゃなく波が打ちよせる。
「アキラ?」
急に視界から消えた聡。次の瞬間、引いた波の中にびしょぬれで聡が倒れているのを見つけた。
「大丈夫っ?」
あんまりあわてて助けに行こうとしたのか、聡のすぐ近くで、将も転倒した。
塩辛い海水。ずぶぬれで起き上がろうとした将の顔に、
バシャッ
聡の反撃。冷たく目に染みる海水をぬぐって目をあけると、すぐそばに聡が全身濡れ鼠で笑って立っていた。
髪の毛からしずくがトパーズのようにきらめいて滴っている。
夕映えの空の中で、濡れた服が体に張り付いて、体のラインのほぼそのままがシルエットになっている。
見とれる将の前で聡は、おもむろにスカートを前で絞った。ジャーっと海水が滴る。
それをみて二人はびしょぬれになりながら波打ち際で笑いあったのだった。
紅色、といえるほど赤くなった太陽は、水平線のすぐ上のもやの中に吸い込まれていった。
―――今日で100回め。
将は流木の上に聡と並んで座りながら、心の中でカウントした。
「寒くない?アキラ」
「ちょっと。でも平気。そっちは?」
「うん大丈夫」
「ヴィンテージがびしょぬれだね」
「関係ないよ」
9月の夕暮れに服のまま泳いだような二人。
車の中にどうにかあった1枚のタオルと聡のハンカチでおおかたの水分をとって、流木の上で夕陽を浴びながら、少しでも乾くのを待っていた。
いつのまにか、将は聡のことを「アキラ」と呼び捨てにしていたが、聡はあまり気にならなかった。
教師としては本当は咎めるべきなのだろうが、今日はこのままでいいや、と思う。
しかし、風は二人を乾かしながらも、急激に冷やしつつあった。空が黄昏るのを見届けていたら風邪をひいてしまうかもしれない。
「車に戻ろうか」将が聡を気遣った。
「でも、このまま座ったらシートが……」
「いいって。俺もだし」
結局、二人とも大して乾かず、潮臭いまま、ミニに乗り込んだ。
暖房を入れて、途中コンビニで顔を洗ってタオルを手に入れて、どうにか都心に戻る頃には見た目だけは乾いた。外はもう真っ暗だった。
「今日は楽しかった」信号待ちで聡は素直に心のままを口に出した。
すると将が
「何、シメてんだよ。まだまだ、だよ!」と聡のほうへ向き直った。