第13話 汐風の中で(1)

土曜日。午後の空はすでに金色の粒子を含んだような秋の色になっていた。

聡はローバーミニの助手席に乗っていた。運転席には楽しげにFMラジオにあわせて鼻歌の将。

ローバーミニの狭い車内は、二人の距離をとても近いものにしていた。

昨日。

自宅に帰りついてから聡は将に電話をかけた。

「先生?」

将は電話に出るなり聡を呼んだ。きっと番号を登録してあるのだろう。

「今日は残念だったね」
「フン……で、なんだよ」

「明日デートしてもいいよ」
「ウソっ!?マジ?……何で」

「前に助けてもらったのに、お礼もしてなかったでしょ。携帯も拾ってもらったし。それにテストすごい頑張ったし……」

電話を切って、聡は思わず、博史の写真を振り返った。細い目の笑顔はいつもと変わりがない。

「浮気じゃないよ。教え子のご褒美にちょっと付き合うだけだから、ね?」

と写真の博史に囁く。

このちくちくとした罪悪感は婚約者以外の男性と2人でデートするからであって、特別なものではない、と聡は思い込んで納得する。

しかし、高校生とのデートに何を着ていくべきなのか。

あんまり若作りするのも何だし。

あんまり気合を入れたと思われるのも何だし。

そうかといっていつも学校に着ていくようなスーツじゃあんまりだし。

鏡の前であれこれ合わせ。挙句、床に紙を敷いて靴まで合わせないと気が気じゃなくなる。聡は小一時間たっぷり悩んだ。

結局、聡は学校では着れないフェミナンな柔らかい生地の、柄もののスカートに黒いノースリーブのカットソーとデザインジャケット、それに少し早めではあるがブーツをあわせることにした。

黒は流行を問わず、聡の好む色だ。肌の色が引き立って大人っぽく見える上に、スタイルのよさを引き立てることを知っている。

これなら少し年上の雰囲気もあって、ブーツで可愛さもあるし、いいだろう。

聡は髪に艶出しのヘアオイルをいつもより多めに塗った。

家まで迎えに来るというので、待っていると時間に、合図どおりワンギリコール。

外に出ると将はローバーミニの横から手を振っていたのだ。

「た、鷹枝くんっ、あなた無免許」聡は階段を降りて駆け寄る。

「先生、ここ、駐禁だから早く乗って」

サングラスをかけた将は、聡を強引に助手席に座らせてアクセルを踏んだ。

「どこいこうか?」

将はのんびりと運転している。そのサングラスをかけた横顔はとても高校生には見えない。高く鋭い鼻梁に、整った形の良い唇。聡は一瞬見惚れてしまった。

長い足を包んでいるのはジーンズ、たぶん高価なヴィンテージものだろう。そこらの不良少年のように「腰パン」などにしていない。

「ちょっと、鷹枝くん、無免許でしょ」
「免許?もってるから心配しないで。ほら」

よこした免許は写真だけ将にすり替わっていて、他は山田某名義になっている。

「これは山田のでしょーっ!先生に運転代わりなさい!」
「え、先生免許持ってるの?」

一応持っている。もっとも高校を卒業した春休みに取得して以来、ほとんど運転してないが……。でも無免許の教え子に運転させてたことがバレたらそれこそ一大事だ。

将はしぶしぶ、道路わきに車を止めた。

聡は覚悟を決めて、運転席に座った。

――え、うそ。マニュアル車?

いちおう聡の免許はマニュアルも運転できるものだが、本当に教習所以来運転していない。アメリカで少々運転したのは、すべてAT車だった。

「ちょっとクラッチ固めだから」助手席に移った将がアドバイスする。

なんとかなるさ、と再度覚悟を決めてクラッチをおそるおそる踏みつつアクセルを踏む。

前に進まない。

――なんで?

「先生、ハンドブレーキ、ハンドブレーキ」
「あ、そうか」

ハンドブレーキ解除。よし。クラッチとアクセルをゆっくり……。

「危ねえっ!」振り返っていた将の緊迫した声。

「ええっ?キャ!」

とたん、運転席の窓ギリギリを原付バイクが走り抜けていった。

車を出していたら接触したかもしれない。聡は胸が痛くなるほどドキドキした。

「ちゃんと後ろ確認して」思わず将の声が少し鋭くなる。

今度は確認した。聡は再度クラッチとアクセルを踏んだ。

ガクッと車がのめった。お決まりのエンスト。

「……やっぱり俺が運転するよ」

「で、どこに行こうか」

落ち込む聡だったが将は別段気にする様子もない。

「水族館、遊園地、動物園、映画、海……デートっていったらこのへん?」

聡は思わず博史とのデートを思い出していた。博史が帰国したときに一緒にいくところ、といったら、ホテ……。

――バカ、そればっかじゃないでしょ!

聡は照れ隠しに窓の外に顔をむけた。それは将にはそっぽを向いたように見えた。

窓の外に聡は博史との思い出を投影していた。

お盆に行ったのが温泉。聡は一人頬を染める。前には和食、映画、美術館、歌舞伎、買い物に行っている。

ひとつひとつに博史の思い出がまとわりついている。

外国に赴任している博史は、帰国すると『日本』にどっぷり浸かろうとする。

今年一緒に行った温泉宿でも、浴衣に檜風呂、冷酒にうっとりしていたっけ。

竹林にひらけた縁側、浴衣姿で同じく浴衣姿の博史に膝枕を与えて、和紙の団扇で風を送った今年の夏。

竹林がさわさわと風の訪れを告げ、風鈴が儚げな音色をたてた……。

「どうするよー」将の声で窓の外は竹林から殺風景な国道沿線に戻った。

夏の回想を振り払うように将の提案を検討してみた。

水族館は行ったことがある。

遊園地、これはネズミのキャラクターで有名なあそこに行った。

動物園、行った。海。

――そういえば、今年の夏は海にいかなかったな。

聡の実家は山口県萩市。あのあたりは透明度で有名な海岸線が続いている。聡は子供の頃、よく泳ぎにいったものだ。

「じゃ、とりあえず、海にむかってドライブしよっか」

将が、聡の心を読んだように言った。でも、本当の恋人同士でもないのに、単に海を見に行くなんて、間が持つんだろうか。

海へ行く、といったがまだまだ道のりは遠い。車はようやく高速道路の南下をはじめたばかりだ。

「音楽どんなの聴く?」

好きな音楽が終わったのか、将はラジオのチャンネルを切り替えながら聡に訊いた。

「え、別に普通の……」

音楽に関しては、流行りにまったく疎い聡は、若くていかにも洒落者っぽい将に普段自分が聞く音楽を言う自信がない。

「……が好きだろ?」

将が、あるJポップアーチストの名前を挙げた。少年のような声がずっと変わらない大御所である。

「なんで知ってるの?」
「CDが部屋にあったから」

「! 勝手に引き出しを開けたのね!」

めったにCDを聞かない聡はそれを引き出しにしまいこんでいたはずだ。

「いいじゃん、別に下着盗んだわけじゃなし」

将は笑う。「んもう!」膨れる聡に

「俺のおふくろも好きだったよ。といっても……の頃だけど」

といってそのアーチストが昔所属していたグループ名を言った。

「へえ……、あのお母様が」

聡は校長室に苦情を言いにきた和服姿の将の母親を思い浮かべた。流行歌などまったく聞きそうにない雰囲気だったと思う。

「いや、俺の本当のおふくろの方。こないだ学校に来たのはママハハ」
「……そうなんだ」

まずいことを聞いてしまったと思った。問題児といわれる将がそうなるには、きっと家庭の問題があったのに違いない。

しかし、担任教師としての使命感なのか、単なる好奇心なのか、聡は質問をやめることができない。

「本当のお母様は……?」
「小1のときに死んだ。病気で」

将は淡々と答えながらCDをセットした。

「……ごめん」

今度こそマジでまずいことを聞いてしまったと聡は後悔した。ハンドルを握る横顔はサングラスでその表情が隠されてしまっている。

小1といえば、将の父が選挙に出た、といっていたのも小1だ。父の立候補、母の死、さまざまな出来事がまだ小さい将をゆがめたのかもしれない。ゆがめた? 横にいる将はゆがんでいる人間には、あまり見えない。聡が知る限り、将は明るくて快活な普通の17歳だ。

カーオーディオからは聡が好きな歌声が流れ始めた。

「これ、俺も好きなほうだよ」

聡はその声に救われた。

「あんたみたいな若い子が意外ね」

あんた言うな。と将は笑った。CDの中で大御所が『また来る 哀しみは 超えてゆくもの』と歌っていた。

それは二人の遥かな未来を暗示していた。

哀しみの到来も、そのまえの嵐も、きらめきも、まだかすかな予感にすぎなかった。