第158話 バレンタインの別れ

午前4時ごろ、大悟は目を覚ました。

傍らで、いつのまに帰ってきたのか、瑞樹が眠っている。

……1時すぎにいったん起きたときは、まだ帰っていなかったので、帰宅はその後だろう。

スタンドを点けたのにも気付かずに、すうすうと寝息を立てて深く眠っているところを見るとよほど疲れているのだろう。

と、大悟は自分の枕もとに、紙袋を見つけた。かなり大きい。

『大悟へ』

とハートマークを添えた宛名。大悟は、包みをとりあげると、開けた。

音を立てないように、と思ったのだが、紙袋なのでガサガサとかなり大きな音がしてしまう。

しかし、瑞樹は目覚めることもなく眠っている。

中には……バッシュとTシャツが入っていた。もちろん新品だ。

靴の中に筒状のメッセージがリボンで止められていた。

巻紙のようなそれを開く。

>>>

 Dear大悟

 靴がボロボロだったんで、使ってね

 大好き。いつも感謝してるよ

    ミズキ

>>>
 
短いメッセージ。あまり上手とはいえないけれど、手書きで一生懸命書いたのがにじみ出ているような字。

大悟は、安堵のため息をついた。

瑞樹がまだ将のことを好きなのでは、という疑惑を大悟は心の底で抱かずにはいられなかったのだ。

そんなことはない、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、疑惑は大悟の心の奥深くに地下茎を張っていった。

もちろん、将のほうは聡に夢中で、瑞樹のことなど、もうとっくに眼中にない、というのはわかっている。

だいたい将がいなければ……将がここに置いてくれなければ、自分はどうなっていたのか。

愛知でいつまでも我慢を強いられていたか、路上で再び犯罪に手を染めるか……どっちにしても最悪の暮らしをしていたことには違いない。

だが、将が感謝すべき対象であればあるほど、大悟は将に対して、瑞樹に関する劣等感で、苦しんだ。

さらに親友に対して、そんな風な醜い感情を持つ自分が息苦しかった。

そんな苦しみから……瑞樹からのプレゼントとメッセージ1つでかなり解放された。

「瑞樹……」

大悟は、呟くと、眠っている瑞樹の額に口づけしようとして、直前でやめる。

――風邪をうつしたらいけない。

瑞樹の肩が毛布から出ているのを直そうとして、大悟はハッとした。

同じように毛布から出ている右手首に、何か縛った痕跡のような痣を見つけたからだ。

大悟は、腕に顔を近づけてまじまじと見た。

瑞樹は右利き、注射痕があるのは左手首だ。その反対側の、白い華奢な右手首にぐるりと何かを巻いた跡のようなものは、やっぱりある。

あまつさえ、少し擦れたような擦り傷もある。

「瑞樹、お前、何やってるんだ……。何をしてバッシュの金を稼いだんだ……」

大悟は小さく呟くと、瑞樹の額にかかる髪を撫でた。

 
 

翌土曜日、バレンタインデーは薄曇りだった。そんな天気のせいか、少し寒さが緩んだ午前中。

聡はとある、お洒落な人が集まるとされる街にやってきていた。

博史と待ち合わせたのは、通りに面した新しいファッションビルの2Fにある、ガラス張りのカフェだった。

午前中であることもあり、店内は客も多くなく、静かだった。

博史は先に来ていて、窓際の席にいた。聡を見つけると軽く手をあげた。

その柔らかい笑顔は、二人が別れたことも、先日聡を殴ったことも忘れそうになるほどだった。

だけど聡は、決意も新たに、きゅっと唇を結んで、博史の対面に座った。

博史の前にコーヒーが置かれているのを見て、聡はオーダーを取りに来た店員に

「アールグレイを」

と、紅茶を頼む。

それぎり……何も話すことがなくなる。

博史は、テーブルに両腕をついて、遠くを見ているような、そんな目で、ただ聡を見つめている。

聡を見ているようで、聡の中の思い出を懐かしんでいるような、そんな瞳。

聡は見つめ返すわけにもいかずに膝に手を置いて、何をみるともなく視線を斜め下に置く。

店員が紅茶を持ってくるまで、気まずい沈黙は続いた。

テーブルの上に置かれたアールグレイの香りが、聡のところまで届いたとき、博史が口を開いた。

「覚えてる?ここ」

あくまでも優しい口調。

「……え?」

初めて来る店だと、聡は思っていた。

「ここ、前は違うビルが建ってたんだよ」

それを聞いて、やっと聡は思い出した。

前建っていた雑居ビル。その地下にこぢんまりとした和食屋があった。

そこは……聡が留学を終えて帰国した年の年末に、二人が初めて国内で食事した場所だった。

「思い出した? あの店、最高に不味かったよなあ……」

博史はさも可笑しそうに言った。聡も思わず「そうね」と微笑んでしまった。

 

あのとき。年末、久しぶりに帰国する博史は、留学を終えた夏休みに先に帰国していた聡にメールで

『和食が食べたい。どこか探しといて』

と頼んだ。まだ女子大生だった聡は、よくわからなかったから、情報誌を見て一生懸命探した。

だが、せっかく見つけ出した店なのに。

情報誌の写真は美味しそうだったのに、実物はウソ、といいたくなるほど不味かったのだ……。

帰り道、聡は、泣きそうになりながら

『せっかく楽しみにしてたのに、ごめんね』

と謝った。博史は、そんな聡に頬を寄せて

『アキのせいじゃないだろ』

と優しく囁いた……。

 
 

「あのときの、聡、可愛かったなぁ……。べそべそ泣いちゃって」

博史は、微笑んだまま、窓の外に視線を移していた。

まるで窓に当時のようすが映し出されているように、細い目を糸のように細めている。

聡は、押し寄せる思い出に、思わず胸がしめつけられるように、苦しくなって俯いた。

好きだった博史。

優しかった博史。

何の落ち度もない博史を傷つけなくてはならない、いや、もう傷つけている。

聡は、波のように打ち寄せる記憶に抗うように、バッグから婚約指輪のケースを取り出した。

ケースは、元通り紙箱に入っている。

「あの……これ」

聡は紙箱に入ったリングケースを博史の前に出した。

「ああ……。好きに処分してくれていいのに」

博史は、それを見たとたん投げやりに言った。

聡は首を振って、箱から離した手を元通り膝の上に置いた。

博史の給料3か月分、といえば相当高価なものだ。

その高価な指輪は、所在無くテーブルのやや博史よりの中央に置かれたままになった。

「お義母さまは、その後……」

聡は博史を盗み見るように見ながら訊いた。

「来週、退院できるみたいだ」

「そう……よかった」

指輪を出してしまい、気になることを訊いてしまうと、本当に話すことはなくなった。

ただ、いたずらに時は過ぎていく。

防音ガラスなのか、通りのクラクションも、店内ではBGM程度だ。

聡は冷めてしまったアールグレイをほんの少し口にすると、それをソーサーに置いた。

本当に幕を引くときだ、と覚悟を決める。

「博史さん……。本当にごめんなさい」

博史はだまったまま、窓の外を見ている。

さっき思い出話をしているときに糸のようになっていた目をやや見開いて。

「それから、ありがとう」

「何が」

博史は思いがけないところで、振り返り、訊き返した。

見開いた白目が少し充血しているように見えた。

聡は、とまどった。

「……いろいろ。楽しい思い出……とか」

やっと答える。声が震えてしまう。

「俺は。お礼をいわれるようなことを何もしてないよ」

博史は、そう言い放つと再び窓の外に目を移した。

「そんな……ことない」

抵抗しながら、聡は急激に目が熱くなってくるのを感じた。

「博史さんは、よくしてくれたよ……」

もう耐えられない。聡は下を向いた。急激にあふれた涙がぽとぽとと膝の上に落ちる。

「聡が泣く必要はないだろ……。泣きたいのは俺のほうだ」

そんなことを博史が言うのを初めて聞いた。博史は、まばたきをして窓の外を見ている。

たぶん涙を堪えているのだろう。

こんな風につらそうな博史も初めて見る。博史は……聡の前ではいつも、余裕のある大人だった。

こんなときに、聡は初めて、もう1つの生身の博史に触れた気がした。

だけど、もう終わりなのだ。

哀しみを顕にする博史と思わず別れがたくなるけれど、聡はハンカチを取り出して、涙をぬぐう。

「私……なんかより、もっといい人を、見つけて」

博史は、やりきれないように、ふっと笑うと、

「そうだな」

と低く呟いた。そして

「もう、行けよ。鷹枝くんが待ってるんだろ」

と聡を促した。聡は、行ってはいけない気がした。

だけど、もう一度涙をぬぐって、うなづくしかない。

立ち上がると聡は、最後にもう一度、頭をさげた。

「ごめんね」

それが聡の最後の言葉だった。

 

博史は、窓の外を眺めるふりをしていた……去っていく聡を見るのがあまりに辛かったから。

だけど、最後に、もう一度。

「聡」

博史が、やっと店内を振り返ったとき、聡はもう、いなかった……。

 
 

お代わりのオーダーを取りに来た店員に、博史は煙草を頼んだ。

それをその場では吸わずに、博史は店を後にすると、車に乗り帰途につく。

もう博史は、煙草を辞めて7年にもなる。

信号待ちで、ようやく店のマッチで煙草に火を点ける。

ひさびさの煙草の煙は、あっという間に車の中に充満し、目に沁みる。耐えられず博史は窓を開けた。

博史は、本当は……聡と将を許すつもりはまるでなかった。

とことん、邪魔をしてやっていい、とすら思っていた。

訴えてもいい、とも。

母が持ち直したあとも、そんな気持ちは持続していた。だが……。

「聡さんを許してあげなさい」

博史の母・薫は、日曜の夕方、目を覚ますなり、ベッドの脇に立つ博史に苦しい息の下で言ったのだ。

「おふくろ」

「聡さんを……責めないで……」

そういったきり、薫は再び目を閉じた。

その真意を、健康状態を持ち直した母から、博史が聞けたのは、火曜だった。

「私もね。婚約していた人と別れてしまったことがあるの」

薫は、ゆっくりと博史の父の慎一と結婚する前のことを話し始めた。

その婚約者はとても優しかった。交際は順調にいっていた婚約者だが、その父が経営する会社が突然倒産してしまったのだ。

「ついていくべきだとも思ったけど……。結局、私のほうから離れてしまったの」

母の告白を聞いた博史は、他の男に気持ちを移した聡の場合とは事情が違う、とそのときは反発した。

だけど、病床からの母の懇願をきっかけに、博史の心は急激に溶けていった。

憎しみや恨みが溶け去った博史の心には、ただ哀しさが残った。

自分でも気付かなかった……聡への想いの残骸のごとく、車の中は、紫煙がうっすらと残っている。

それがしつこく、博史の目をちくちくと刺激する。

 

『原田さんの恋人になりたいです!』

4年半前、サンフランシスコの空の下、突然現れて告白してきた若い聡。

当時、博史には、アメリカ人の恋人がいた。

そんな風に現れた聡を、当初博史は、その恋人とうまくいっていなかった空虚さを埋めるだけの存在だと思っていた。

ひとたび抱いた後は、そのグラマーさと若い感性を持つ肢体に溺れた。

だが、自分から結婚を申し込んでいながら……代わりはいくらでもいると思っていた。

単に、ルックスとか抱き心地、語学堪能とか学歴など……スペックがいい、と彼女を選んだのだ、と思いこんでいた。

なのに。彼女に去られての、この孤独感は何なんだろう。

結局、自分は、聡の心をつなぎとめておくことができなかったのだ。

いや、心といえるほど、そもそも聡と繋がっていたのか。

聡は自分を慕ってくれていた。それに酔っていただけではないのか。

自分は聡のことを、どれだけ知っていただろう。

――年に3回の逢瀬しかできなかった恋人じゃしかたないじゃないか……。

博史は、異国で働かなくてはならない自分の境遇を恨み、憐れんだ。

『私なんかより、もっといい人を、見つけて』

最後に聡はそういった。

博史も、聡がたとえ去っても、すぐにもっといい女を見つけられる自信と余裕をいつも備えている、と思っていたのに……。

「あきら……」

声に出さずに、咥えた二本目の煙草の煙で呟く。

すれ違う車のように、二人の思い出が、博史の前に次々と蘇ってくる。

いつのまにか、思ったよりずっと広い面積で、聡は博史の心を占領していたのだ。

日本に帰国する喜びは、実は聡に逢える喜びがその大半を占めていたのだ……。

――今ごろ気付いてどうするんだ。

博史の細い目には、いつしか涙がにじんでいた。

7年ぶりの煙草は、涙の言い訳のためかもしれなかった。