第205話 昼休みの逢瀬

視聴覚準備室のドアがコン、コン、と鳴った。

「アキラぁ……」

細く開いたドアの隙間から将の笑顔がのぞいて、思わず聡は準備デスクから立ち上がる。

昼休みになっていた。

「焼きそばパン、売り切れ直前だったー」

将は得意げに購買で買ったパンの袋を聡に見せる。

「午後からモデルやるのに、焼きそばパンなんか食べちゃっていいの。青のりついちゃうんじゃない」

と聡が茶化す。

「焼きそばだけじゃないもん。ほら。鶏めしのおにぎり。アキラ好きでしょ」

「大好き。ゴボウの香りがいいんだよねー」

目を輝かす聡を将は嬉しげに眺めた。

今日は、午後から雑誌のモデルの仕事のために学校を早退しなくてはならない将である。

午前中に英語の授業もないので、将は武藤が迎えにくる12時30分までの短い昼休みに聡と二人の時間を過ごそうと、こっそり休み時間にメールを送っておいたのだ。

カーテンをすっかりあけた視聴覚準備室には、晩春の陽射しが満ちて、半年前、聡がここで暴行されそうになった面影はほとんどない。

いや、その記憶も。

聡にとっては、『将に助けられた』という嬉しい部分が強調されている。

二人は静けさだけが寄り添う思い出の部屋で、購買のパンと鶏めしのおにぎり、紙パックのジュースでちょっとしたピクニック気分を二人は味わった。

「……でさ、奄美ユリに土人、とか言われてさ。アキラ、俺そんなに色黒かなあ」

「そうねえ。間違っても色白、とは言えないわね」

陽射しを背にして聡の笑顔の頬は、産毛が輝いて輪郭が光っているように見えて、思わず将は見とれる。

「チェー。俺、幼稚園ぐらいの頃はすっごく色白だったのに。フランス人に負けないぐらい」

「いつ、黒くなったの?」

「んー。ヒージーんちに預けられたぐらいかなあ。毎日パンツ一丁で遊びまわってたからなあ」

聡は、そんな浅黒い将が魅力的だと思う。笑うと白い歯がこぼれて、あどけなくなるのがいい。

目を細めるのと見開くので別人のように顔が変わるのも好き。

聡は聡で将をいとおしげに見つめる……。

たわいもない話をしているうちに、もう将の携帯が鳴ってしまった。

「ハイ。ハイ。わかった。ちょっとメシ食ってるから、待ってて」

武藤からの電話をさもうるさそうにあしらって、将は切った携帯に文句を言う。

「チェー。まだ12時25分じゃんよ」

「迎えが来たんでしょ。行きなさい」

聡はパンの入っていた袋や鶏めしのパックをくしゃっと丸めながら将を促す。

「仕事なんだから、頑張ってね」と分別臭くいう聡が、将にはちょっと恨めしい。

そんなところは、一夜を共にする前とあまり変わらない。

立ち上がった聡は、同じように立ち上がった将の顔を見あげて「あ」と目を少し見開いた。

次に自らの歯をむき出して指差す。

「青のり。ついてる」

「ホント?……どこ」

将も歯をむき出して、前歯のあたりを手探りで触る。

「とれた?」

「とれてない」

「じゃあ、取って」

将はそういうと、ふいに聡の唇に自分の唇を押し付けた。

どちらからともなく、ほんのりとソースの味が漂うキス。聡の舌が、前歯を撫でていく。

キスしてないのは1日やそこらなのに、そんな感覚がたまらない。

もっと酔いたい将なのに、聡は素早く唇を離した。

「取れたよ。ホラ、早くいかないと」

「チェー。アキラ、メールくれよ」

「わかった……。あたし化粧直しするから。先行って」

将はキスの余韻を味わう間もなく、武藤が待つ校門方面へ向かった。

 
 

武藤はボーっと待っているのも何なので、『メシ食ってるから待ってて』といった将を探すべく、学食に顔を出した。

しかし、そこに将はいなかった。

1学年2クラスずつの小さな学校にも関わらず、学食は結構ゆとりがあった。

メニューは貧弱なようだが、生徒と教師が入り混じってゆったりと寛いでいる。

うどんをすする男子生徒と、持ってきたお弁当を食べる女子のカップルがいたりする。

それを見て……武藤は、ふと、知りたいことが浮かんできた。

将の付き合っている彼女、とは誰なんだろう。

武藤は今までの将の言動から、将の彼女が学校にいるというところまでわかっていた。

通りかかった3年のバッジを付けた女子生徒に声を掛ける。

「あの……鷹枝くんって知ってる?」

「知ってるよ。2組のめっちゃ背ェ高い。mon-moに出てた」

「あ、そう。2組なんだ」

その女子生徒は1組だったので、武藤は2組の生徒を探した。

食後のデザートなのか、購買で買ったヨーグルトを手に持った女子生徒二人組に声を掛ける。

二人とも茶髪に濃い化粧、ミニスカートといかにもギャル風だ。

「あなたたち3年2組の生徒さん?」

「うん。そうだよ」

背の小さい方が敬語も使わずにアニメ声で答えた。

明るい茶色の髪にドロップのような飾りのついたヘアピンが刺さっている。

「あのね。ちょっと訊きたいんだけど……鷹枝くんの付き合っているコってどんなコ?」

武藤は、無意識に声をひそめて訊いた。

それに頓着もしないように、女子生徒は甲高い声をあげた。

「ああー、アキラ先生のこと?めちゃくちゃスタイルがよくて、カワイイよ」

すかさず、隣にいた背の高いサーファーヘアの女子が、

「よしなよ、チャミ」

とたしなめたので、チャミと呼ばれたほうは『しまった』という顔で口に手をあてた。

「すいませーん。あたしたち行かなくちゃ」

と口々に言いながら、逃げるように二人で走り去ってしまった。

しかし、武藤はたしかに『アキラ先生』という単語を聞き逃さなかった。

そこへ、眼鏡を掛けたスラリとした女子生徒が再び購買から出てきた。

やはり3年2組のバッジを付けている。

「あの」

武藤は再び声をかけた。

「何でしょうか?」

今度の女子生徒は、黒いままの髪を2つにわけて結んでいる。

そんな真面目な雰囲気のせいか、きちんと丁寧語を使うことができた。

だがあまり歓迎していないようすが、笑顔のない顔から読み取れた。

「アキラ先生って、何の先生?」

質問を聞いて、女子生徒の眼鏡の奥の整った顔が、あきらかに曇った。

だが、それでも、訊かれたことにきちんと答える礼儀正しさはあった。

「英語です。私のクラスの担任ですけれど」

「そう……。ありがとう」

星野みな子は無言で、武藤に会釈をして立ち去った。

そこへ、ようやく将が現れた。

「武藤さーん!ごめんね、待たせちゃって」

と息をはずませている。

武藤はその将の唇についている、あるものに気付いた。

ほんのわずかに……口紅が付いているのだ。

「いいのよ。ちょっと、先生がたに挨拶していこうと思って。将、悪いけど車に先に乗ってて」

と武藤は将にキーを渡した。

 
 

将の芸能界での活躍は、学校の宣伝になるということで、校長室に通された武藤は、歓迎された。

校長も教頭も、将の芸能活動と高校の単位取得が両立できるように協力すると約束してくれた。

考えてみれば、この学校のポイントシステムは、芸能活動には打ってつけであるといえる。

「失礼します」

そのとき校長室の重い木の扉が開いて、一人の若い女が現れた。

やや長身に地味なスーツを身につけているが、桃のような愛らしさが漂う女だ。

芸能人を見慣れている武藤は素早く女の器量を値踏みした。

「ああ、紹介しましょう。こちらが、鷹枝将の担任の古城先生です。……古城先生、鷹枝くんのマネージャーの武藤さん」

「よろしくお願いします」

聡はぺこりと頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

そして……武藤は聡の顔を一瞥しただけで、聡が付け直した口紅の色と、将の唇にわずかに付着していた色が同じであることに気付いていた。

そして……この、目の前にいる、柔らかい雰囲気の教師が、将の恋人なのだ、と判ってしまった。

――まずい。

武藤は、聡へと深々と下げたその怜悧な頭の中身を素早く回転させていた。

将に彼女がいるのはいい。一般人との恋愛ならそれほど問題にしないのが事務所の方針だ。

だが、自分の担任と付き合っているのは……十分にスキャンダルの危険性がある。

そう結論付けると、さっそく対策を考え始めた……。