第23話 不穏(2)

警察によると荒江高校の生徒が何か問題をおこしたらしい。生徒の両親は連絡がとれないので、学校関係者に来てほしいとの連絡だった。

聡は、自分が行っていいのかとも思ったが、他の教師はすでに帰宅している。教師の個人宅への電話番号は、「個人情報」とのことで公表されていない。教頭の番号のみ教えられているが、それではあまりに事が大きくなりすぎると聡は判断し、警察に出向くことにした。

――まさか、将?

いやな予感をかき消しながらタクシーを拾う。

 
「あっちゃ~……」

目をつぶった松岡は、将の声でおそるおそる目をあけた。前原は血まみれではなかった。

将の視線の先には、血の海ではなく、濡れたコンクリートの面積が徐々に広がっていた……前原の腰の下あたりから。

将が振り下ろしたナイフは、前原の脇の下すれすれのコンクリートを傷つけただけだった。

しかし、あまりの恐怖に前原は失禁してしまったのだ。

「うっ……」

前原は悔しさと恥かしさでうめいた。将は、ナイフを握りなおすともう一度訊いた。

「金とカードは?」
「返す、返すからやめてくれ」

前原は泣きながら懇願した。将は前原の両手から足を引いた。前原は起き上がるとカードと2万を出した。

「あとの3万は!」

将はナイフを前原の目の前にかざして厳しく問い詰める。

「もうない。……使っちまった」
「何だァ?」

再びいきりたつ将は、前原の襟をつかんだ。松岡が、とめに入る。

「も、もういいです」
「よくないッ!」

将は松岡を一喝してさらに前原を責める。

「どこで使ったんだ!」

将はナイフを前原の喉もとにつきたてた。前原はひっ、とうめくと、

「……ゲーセンとか……ふ、風俗とか」と白状した。
「フーゾクだぁ?」将はあきれた。

松岡が将を懇願するように止める。

「鷹枝くん、本当にもういいんです。親の財布から盗った分は戻ってきたから……」

松岡は、前原に脅されて、親の財布からの盗みまで犯したというのだ。

幸い、カードの暗証番号を問い詰められていたところで将が割って入ったらしい。将は、最後に前原を一瞥すると、松岡をうながしてその場を立ち去った。

前原は自ら垂れ流した尿にまみれて、腰が抜けていた。

「チキショウ……。覚えてろよ」

しかしラテン系の大きな目は、将の後姿をいつまでも睨んでいた。

 
聡は料金を払うのももどかしく、タクシーから転がるようにして降りると、警察署への階段を駆け上がった。

古い警察署の建物のグレーを基調とした部屋は、蛍光灯の緑がかった光でよけいにくすんで見える。

そんな中で待っていたのは、ピアス男の井口春樹だった。

……将ではなかった。聡はほっとしたと同時に、再び緊張した。なんといっても井口春樹は先々週、赴任したての聡を集団暴行しようとしたリーダー格である。

今度は何をしでかしたのか。

熟年の、温和そうな警察官が説明する。

「××書店で万引きをしましてね。店の人によると、1回は注意をして見逃したそうですが、今回が2回めなので、通報したとのことです」

「万引き……」

聡は力が抜けた。当の井口は警察官の前でも不貞腐れたようにそっぽを向いている。

「ただ、いずれも未遂ですし、反省しているようですので、補導するほどでもない、ということで。厳重注意で今回は穏便に済まそうと、署では判断しまして。それで再三、おうちのほうにも電話をしたんですが、お留守のようで、時間も遅くなりましたので先生に来ていただいたんです」

井口は、椅子に浅く腰掛け、手をズボンのポケットに入れて、バカでかい体を斜めに仰向けにしている。

この、不良そのもののポーズのどこが反省しているのだ。聡はなんで補導しないんだ、とさえ思った。

「どうも、お手数をおかけしまして、申し訳ありません」

聡は一応儀礼的に謝った。

「今日は先生にお任せしてよろしいですか?」

聡は、一瞬とまどった。視聴覚室で組み敷かれた嫌な思い出が蘇る。夜道をこんな危ないやつと二人で帰るのは自分が危険だと思ったのだ。

「……あの、もう一度、おうちに電話をしてみてもよろしいですか?」

聡は警察官に申し出て、再度、井口の家に電話をする。

……本当に出ない。

聡は根気強く、コールを30回以上鳴らした。すると、一瞬受話器を上げる音がした。

「もしも」ガチャッ。ツー、ツー、ツー、ツー。

聡が呼びかける前に受話器は置かれてしまった。一度は確かに誰かが出たはずだが……。もう一度かけても、もうつながらない。

――どうしよう。

聡は途方にくれた。

……結局、聡は井口と二人で警察署を出るしかなかった。歩きながらも一定の間隔を保つようにする。

しかし警察署から少し離れると「じゃーね。先生よ、」と言って井口のほうから勝手にいってしまおうとする。

「待ちなさい!私はあんたを家に送り届ける義務があるんだから」
「……ンだよ」

井口は、振り返るとこっちへ歩いてきた。腰パンのポケットに手をつっこみ、バッシュの踵を踏みつけてサンダルのように足をひきずりながら、ガニ股で肩をいからせて聡にまっすぐに近寄ってくる。

「や……」

聡が声をあげそうになったその時。聡の後ろでパッパー、とクラクションが鳴った。

井口が聡の横をすりぬけて「将じゃん、何だよ」と親しげな声を出した。

聡が振り返ると、ローバーミニがいた。運転席の窓から将が頭を出す。

「先生、迎えにきたよ」

困り果てて聡は、将に電話をしたのだ。
 

 
「万引きィ?だっせーの」

将は夜の町を運転しながら笑った。

「うっせえ」

助手席の井口は照れて窓の外に顔をそらした。後部座席にいる聡は、そんなふうに照れる井口を意外に思った。

「で、なんでやったの?金ないの?」

将の問いに

「ないね」

と井口はあっさり答えた。人気の漫画本を万引きして古本屋に売れば金になる。井口はそれで稼ごうとしたのだ。

「なんでよ」
「お前のせいなんだよ」

井口は運転席の将に向き直って吐き出すように言った。

「なーんで」

答えながら将はバックミラーに目を走らせる。暗がりの中で対向車のライトに照らされた聡の顔が白く浮き出ている。聡はバックミラー越しに自分を見る将の視線に気付いて、視界から逃げようとした。将はそんな聡にふっと笑う。

「お前最近付き合い悪いじゃん。だから……」

井口は二人の様子にも、気付かずに将に不平をもらした。

「あ~……」

将は理解した。いつも金を出す将が一緒に遊ばないから、遊ぶ金がない、というわけだ。後ろにいる聡にはさっぱり意味がわからない。

「何、そんなに遊びたいわけ?」

将の問いに井口は答えないで再び窓の外に顔をそらした。

「俺、あすこ、帰りたくないんだけど」

しばらくして井口が将に言う。「今日もお前んち泊めてよ」と続ける。聡はそれを阻止する。

「ダメよ!今日はおうちに帰らないと」
「うるせえなあ」

井口が助手席から振り返って睨みつけたので聡はひるんだ。

「まあ、今日は帰れよ」

将が助け舟を出してくれた。

「え~……。今日、『バカ』しかいねえからなあ」

と井口はいかにも嫌そうに言った。

「あ~」将は再びそれだけで分かったように答えた。
「なあに、『バカ』って。ご両親今日は留守なの?」

聡は後ろから訊く。すると井口はいかにもうざそうに「ホージ」と一言で答えた。つまり法事に出かけているということだ。

「でも誰かいらっしゃるのね。よかった。挨拶くらいしておかないと」
「『アイツ』が挨拶なんかするわけねえよ」

そうこう言っているうちに、井口の家についた。わりときれいな一戸建てである。聡は唾を吐きながら歩く井口と共に、玄関に立った。井口は自分で勝手に鍵を開けると、聡などいないように中に入ろうとする。

「おうちの方は?」

聡が訊くと、井口は「いねえも同然だよ」と答えると「じゃな先生、手間かけたな」と奥へ行ってしまった。

「ちょっと……!」と引きとめようとする聡の肩を将がつかんだ。
「いろいろ事情があるんだよ」

「でも……」
「いいから」

将は聡の手を引っ張って、ローバーミニの助手席に乗せると、夜の街へとアクセルを踏んだ。