第266話 叶わぬ恋(6)

巌は、そこまでも自分の将来を大切に思ってくれている史絵に深い感動を覚えた。

清らかな水の流れの源に、深い蒼を沈ませた淵をのぞきこんだかのような……巌は自分を思う史絵の心を覗いた気がした。

まもなく、庭先から史絵が戻ってきて、いつも通りに勉強が始まったのだが、巌の鼓動はずっと収まらなかった。

史絵の、寝室も兼ねたこぢんまりとした6畳間にちゃぶ台を出して、そこで二人は頭をつきあわせていたのだが、

巌はいつもの、この近さにめまいがしそうだった。

だがそこから動けない。それどころか、もっと近くに寄ろうとさえ試みてさえいた。

あまりに巌が近すぎると思ったのだろうか。史絵は唐突に

「お茶にしましょうか」

と提案した。懐中時計を取り出すと、なるほどもう3時だった。

史絵は、巌のそばを立つと、火鉢にくべた炭を七輪に移して湯を沸かした。

その間に芋ようかんを切って持って来た。

史絵はようかんの皿をちゃぶ台に置きながら言った。

「鷹枝君。……もう、ここには来ない方がいいわ」

「どうしてですか」

思いがけない言葉に巌は目を見開いた。

史絵は答えずに目を伏せた。いつもの史絵らしくない態度だ。

自分でもそう気がついたのか、史絵はすぐに、姿勢を正して

「いろいろとよくない噂をする人がいるの」

とハッキリと言った。

「噂なんて、関係ありません」

巌は即座に反論した。

先生に勉強を見てもらったから、成績も上がったんです……そう言おうとして、巌は自分でもそれは違うと気がついた。

その目的が、勉強だけではないことは、自分でも意識していた。

史絵が好きだ。自分は史絵に恋している。

そのとき、ヤカンがしゅんしゅん言い出した。

沸騰するヤカンの中の湯と同じように、巌の思いも急速に沸点に達した。

史絵は静かにちゃぶ台から立ち上がると、七輪からヤカンを持ってきて、その中の湯で湯飲みを温めた。

そして、湯飲みの中の湯をきゅうすに移すと茶葉が開くのを待つ。

やかんから立ち上る湯気が、障子の隙間からの光を斜めに浮き上がらせている。

静かな晩秋の部屋にいながら、巌の心の中では史絵への思いが夏の嵐のように吹き荒れていた。

やがて十分に茶が開いた頃合を見て、史絵は温めた湯飲みに茶を注いだ。

茶の乗った茶托を巌の前に置こうとした史絵は、ふいに巌に肩を掴まれた。

茶托はバランスを崩して、ちゃぶ台の上にこぼれた。

巌は、史絵の唇に自らのそれを押し付けていた。

はじめて味わう女の唇は、柔らかくて、思ったより乾いていると思った。

目をあけていたはずなのに、史絵がどんな顔をしていたか覚えていない。

たぶん無我夢中だったのだろう。

こぼれた茶はしばらく顧みられずに、ちゃぶ台から畳へと滴った。

「お茶が……」

史絵は巌の手を振り解くと、布巾を持って来てこぼれた茶を拭いた。

巌はぼうっとして、そんな史絵の、そろそろあかぎれがひどくなってきた指を眺めていた。

「……たわむれにそんなことをしたら、いけないわ」

やっと史絵が口を利いたのは、こぼれた茶が一通りなくなってからだった。

史絵の声を聞いて、巌は我に返る。

「たわむれなんかじゃない」

巌は怒ったように言った。

「僕は、先生が好きです」

史絵はあいかわらず畳を拭いていた。目をしばたいているのが下を向いた睫でわかる。

返事を発することがないまま、史絵は立ち上がった。

奥から乾いた布を持ってくると、しつようなほどに畳の水分を拭き取る。

「先生。僕は本気です。高校に受かったら、結婚してください」

しかし史絵は畳の目にそって乾いた布を動かしながら顔をあげなかった。

やがて、おもむろに顔を上げると

「そういうことは、軽軽しく口にするものじゃありません」

と教師の口調で言い放った。

「軽軽しくじゃない。本気です。ずっと、先生のことを好きだった。嫁に行く前から……!」

巌は、ふたたびにじり寄ると、史絵を抱きしめた。

史絵は巌を振りほどこうとしなかった。

「巌くん……」

「好きだ」

顔を埋めた史絵の首筋からは、ほんのりと甘い白粉の匂いがした。

それをむしゃぶるように嗅ぎながら巌は、好きだ、と喘ぐように言う。

他の言葉が見つからない。英語の”I LOVE YOU” の訳が『愛している』というのはわかる。

だけど、『愛する』というのがどういう感情を現すのか、『好き』『愛』の区別がわからない。

だから巌は、白痴のように「好きだ」を繰り返す。

……どれくらい時間が経ったのか。もしかしたらほんの一瞬だったのかもしれない。

なぜなら、たしなみのある女である史絵が、そんなに長いこと巌に抱きしめられたままになっているはずがないから。

「巌くん。私は……あなたより十も年上よ。……出戻りだし」

巌の気持ちが本気だとわかったのか、史絵は自分の体を抱きしめる巌を引き剥がしながらこんなことを言った。

ゆっくりと落ち着いた物言いだった。

巌の手は依然、史絵の上腕をがしっと掴んでいる。

「年なんか関係ない。この世で先生はたった一人っきりだ。僕には……この世で女は先生だけしかいません」

巌はそういうと、もう一度史絵の体を自分の方に引き寄せた。

そしてその狭い背中に

「先生は、俺のことが好き?……愛してる?」

巌は自分には使わなかったくせに、史絵への問いかけには『愛』という言葉を無意識に使った。

巌の胸に押し付けられた史絵は……今度は本当にしばらく身動きしなかった。

巌は、史絵に心臓の音を聞かれているように思った。

小春日和の陽が差す静かな離れが、自分の鼓動で揺れはじめるのを巌は感じた。

「先生。僕が……好きなんでしょう?」

巌は耐えられなくなって、もう一度問いかけた。史絵は巌の胸から顔を起こした。

そして、まっすぐに巌の顔を見上げながら言った。

「答えが知りたかったら、まず、一高に受かりなさい。そして帝大を、きっと卒業なさい」

巌は史絵の瞳を見ながら、少し狼狽した。

「そりゃ、受かるし、卒業もします……。先生、そのときいくつになる」

あと7年も先の話になってしまう。17歳の若者には永遠とほぼ同義の遠さだ。

「あら。年なんか関係ないと言ったのは、巌君じゃない」

史絵はにっこりと微笑んだ。

「ね。私、巌君が帝大を卒業するのを待っているわ」

 
 

『卒業するのを待っている』。その言葉を巌は、肯定的な言葉として受け取った。

そして、今年こそ一高に受かるべく、猛勉強を始めた。

史絵の部屋へは……無理やり接吻をしてしまったのが恥かしくて、しばらく行けなかったが、代わりに頻繁に……毎日のように文を出した。

ようやく、史絵のもとに顔を出せたのは、年始の挨拶の折だった。

史絵は「ずっと風邪が治らなくて」と小さく咳を繰り返していたが、熱で潤んだ瞳で巌の顔を懐かしそうに見つめた。

せっかくだから、と史絵は巌を近所の神社へ、お参りに連れ出した。

賽銭を投げると、二人拝殿で手を合わせる。

顔をあげた巌の横で史絵はまだ目をつむって神妙に手をあわせていた。

「先生、何祈ったの」

ようやく顔をあげた史絵に、巌は訊いた。

「『今年こそは巌君が一高に受かりますように』って」

「それって、僕が好きだってことですよね」

「またその話」

史絵はつんと横を向くと怒ったふりをした。

そんなようすは、十も年上の女とは思えない。

「今年こそは頑張りなさいよ」

だが史絵は、袂が翻るほど勢いよく振り返ると、強い口調で巌を戒めた。

口調が強すぎたのだろうか、やにわに咳こんだ。

「大丈夫?早く帰って寝ないと」

「大丈夫よ。もう治りがけなんだから。……ところでここの神社のおみくじはとても当たるって評判なのよ。ぜひ引きましょう」

史絵は明るく誘った。

史絵は巌の合格を祈りながら、巌は史絵と結ばれることを願いながら、おみくじを引いた。

「うわっ!」

おみくじを見た巌の顔が歪んだ。

「私は大吉だったわ……どうしたの?」

史絵は、固まってしまった巌と、そのおみくじを覗き込んだ。

……そこには凶、とあった。

「悪いおみくじは、杉の木に結べば『過ぎる』っていうんだから、杉を探しましょう」

史絵は巌を元気付けるように肩を叩いた。

「凶なんて、逆に少ないんだから、巌君、ツイてるわよ。きっと」

そう付け加えながらも、史絵は激しく咳き込んだ。

巌はそれで我に返った。おみくじを丸めて袂に突っ込むと

「もう、家に帰って寝てください」

と咳き込む史絵の背中をさすった。史絵は弱弱しく微笑んでうなづいた。

この帰り道が……今生の別れであることに巌はまだ気付いていなかった。

 
 

「そのときすでに……、いや、ずいぶん前から、先生の体は、労咳におかされていたのじゃ」

「労咳って結核のことだよな」

将でも、それぐらいの単語はわかる。

「そう。……戦後、特効薬が出来るまでは、不治の病じゃった。栄養が足りない時代、この病気に取り付かれると、ほぼ死ぬことが決まったも同然だった」

「ヒージー、先生が労咳だったことを知ってたの?」

「いや……」

巌は、瞼を閉じた。

夕方にさしかかり、蝉の声は一段と高くなったようだ。

カナカナカナカナ……という声も聞こえる。

「わしは、知らなかったんじゃ」

巌の声は、一生分の痛恨を吐露するがごとく、将と聡の心に響いた。

 
 

巌には二度目の挑戦である一高の入試が終わった。

出来栄えに確かな手ごたえを感じたとおり、巌は見事に合格した。

祖父母や父に報告するよりも前に、巌は史絵の部屋に向かって走り出していた。

実は、正月以来、史絵に会っていない。

史絵に会うと嬉しい反面、いつかの接吻を思い出して、ときめく鼓動を抑えられなくなる。

自分の中で蠢く狂おしいほどの激しい恋情に自分が制御できなくなる。

受験に臨んで、巌はそれを律するべく、自ら史絵に会うのを控えたのだ。

試験が終わってすぐに来てもよかったのだが、万一の不合格ということもある。

巌はひたすら合格発表を待ったのだ。

「先生ー!」

巌は、いつものように縁側の障子を勢いよく開けた。

火の気のない部屋は、曇り空の下、冷え冷えとしていた。

そして史絵の姿もなかった。

「先生?」

留守だろうか。それにしては、部屋がどことなくガランとしている。

巌は、壁に立てかけられたいつものちゃぶ台を畳の上に下ろすとどっかと座り込んだ。

合格を告げた時の史絵の顔を想像して、しばし、ひとりニヤつく巌だったが、さすがに寒くなってきた。

まだ3月、火鉢もない部屋は寒すぎるのだ。

巌は奥に入って火鉢を探そうとして……気付く。

道具があらかたなくなっている。

巌は部屋を見回した。

史絵のものは、すべてなくなっていた。

不吉な予感にかられた巌は半狂乱のように押入れや箪笥の引き出しなどを開けてまわった。

そして……文机の中に、手紙を見つけた。

『鷹枝君へ』と宛名が書いてある。

 
 

合格おめでとう。まだ私は君の合格を知りません。

だけど、きっと合格するでしょうから、先にお祝いの言葉を述べておきます。

急なことですが、私は、郷里の○○村に帰ることになりました。

お別れも言えずに、申し訳ないと思いますが、先生はいつまでも巌君を見守っています。

君の今後の栄光と幸せを祈っています。

体に気をつけて、今後も勉学に励んで下さい。

                森村史絵

 

最後の日付には、おとついの日付が書いてあった。

急に帰郷するなんて、また嫁にでも行くんだろうか。

「先生ッ」

巌は、文を懐に押し込むと、縁側を駆け下りるようにして降りた。

そして、隣の、家主の家の戸を激しく叩く。

「もし……!すいません!……すいません!」

やっと開いた引き戸の向こうで、頬が垂れた家主夫人が巌を見上げた。

「あの……先生は?どうして、急に実家に帰られたんですか」

巌は挨拶もそこそこに、疑問をぶつける。

家主夫人は眉を思い切りゆがめて、吐き出すように答えた。

「肺病よ」

その言葉を言うだけで感染するような物言いだった。

「なんか、ずっと咳が止まらないから、病院で検査してもらうように勧めたの。だって子供たちに教える仕事じゃない。そしたら……肺病だってことがわかって」

巌は、史絵が崖から突き落とされるのを見る心持だった。

「悪いけど、うちもそんな病人を置いておくわけにはいかないし……。

史絵ちゃんも、心得ていて、里のほうが空気がいいからって、すぐに学校を辞めて、荷物をまとめて出て行ったよ」

気がつくと巌は庭先に立ち尽くしていた。

脳裏には、苦しげに咳き込む史絵が、汽車にたった独りで乗り込むところが再現された。

暗い色合いの列車の中で、史絵の顔だけが青白く浮き出ている想像は……死出の旅を想像させた。

巌は不吉な想像を振り払うと、懐から文を取り出して手跡をたどる。

短い文面にあわただしさが出ているようだった。

それでも、最後に自分の里の住所がしたためてあった。

それに希望を託した巌は、ようやく庭先の桃が満開であることに気付く。

 

巌はさっそく合格したことを手紙に書いた。夏休みになったらぜひ遊びにいく、とも。

一高にあがった巌は、その学校でのことなどをまるで日記のように手紙に書いて史絵に送った。

医術に詳しい友人に訊いた、治療法なども書き添えた。

史絵からはときおり返事が戻ってきた。

それは来るたびに短く、手跡もかぼそくなっていて、容態の悪化を暗示するようだった。

巌は、毎日史絵の回復を祈った。

やがて、若葉の季節から、うっとおしい梅雨が過ぎ……力強い太陽の復活とともに待ちかねた夏休みがやってきた。

巌は汽車に乗って史絵の里を目指した。

史絵からの手紙は、梅雨のさなかにやってきたものを最後に途絶えている。

それからもう1ヶ月が経つ。

よほど容態が悪いのだろうか。

巌の心配は、汽車の中で走り出したいほど高まっていた。

――早く史絵に会いたい。顔を見たい。

どんなに美しい景色よりも、今巌が見たいのは……会わずにはいられないのは史絵の顔だった。

史絵の里は、金沢から馬車で2時間ほど行った、ずいぶん田舎にあった。

巌は住所が書かれた手紙を懐に持っていたが、そんなものはなくても、苗字だけで御者は

「ああ、森村様の」

と勝手に馬車を走らせた。

元領主である史絵の実家は、農家より一段高いところに蔵を備えた立派な邸宅を構えていて、誰が見てもすぐにわかったのだ。

蝉の声と、夏の日差しがいっせいに降り注ぐような中、巌はそれを見上げた。

しかし……東京から一昼夜かけて、ようやくたどりついた巌を待っていたのは、史絵の位牌だった。