第403話 最終章・また春が来る(11)

香奈はプリントされたゲラ(※初校)の束を目の前にため息をついた。

先週、専門誌向けに出した論文がさっそくゲラになって戻ってきたというのに集中できないでいる。

心配ごとの1つだった海の受験は、今日無事に終わった。

にも関わらず、香奈の心は晴れなかった。

それは、夫、将のことだった。

 

夫には、忘れられない誰かがいる。

ずっと前から……まだ香奈が少女だった頃……将と初めて出会った頃からわかっていたこと。

これまでは実体をもたない存在だった『彼女』の正体が、純代によって明かされたのはつい最近だ。

余命宣告を受けている、夫の……将の恩師。

その恩師は、ただの恩師ではなく――。

そんな事実を知っても、香奈は冷静だった。

不思議に夫や、その相手への嫌悪感は起こらなかった。

もう25年も昔に終わっていることだ。

言ってみれば初恋の相手が余命宣告を受けている……というようなものだろう。

今生の別れに、会っておきたいなら、別に反対などはしない。

と、その時は思った。だが……。

香奈は今日のことを思い出して、何度目かのため息をついた。

ため息は夜の静けさに吸い込まれてしまったように、反響さえしない。

 
 

今日。

某名門中学の受験当日はよい天気だった。

陽だまりに先週の寒さはすっかり溶けたような中、香奈は足早に校門に入ると、父兄用控室をめざした。

そこではすでにたくさんの父兄たちがわが子を思って気をもんでいた。

難関校であるここでは昼食をはさんで4科目の試験が行われる。

父兄の中にはずっとここで待っていた者も多いらしい。

今は最終科目である理科が行われているはずだが、その終了になんとか香奈は間に合ったのだ。

忙しい香奈だが、息子の一大事である今日はさすがに休みを取った。

国政で忙しい夫に代わって、今日は一日中、わが子の受験につきそうつもりだった。

しかし、こともあろうか、義母の純代が風邪をひいてしまった。

海や了にうつしたらいけない、と自室に自らを隔離した純代は

『私のことは気にしないで。海につきそってあげて』

と気丈に気をつかった。そうはいっても、まだ熱が38度近くある。

60過ぎとしては高熱だから家で家政婦任せにしておくわけにはいかないだろう。

結局、海自身が『大丈夫だよ』と強く言ったこともあり、受験会場までは将が官邸までの道すがら送ることにし、香奈は帰りに迎えに行くことになったのだ。

 
 

何人かの知り合いの父兄に会釈をしているうちに終了のチャイムが鳴った。

父兄たちは先を争うようにして控室を出ていく。

わが子のほっとした表情を一刻も早く見たいのだろう。

香奈もそのあとに続いた――といっても、試験の出来栄えについては、それほど心配はしていない。

学力的に見れば、海の成績はこの難関を楽に突破するのに十分だった……海自身がその気なら。

ただ、ここのところ進路に迷いが生じているようで、香奈にはそっちのほうが心配だった。

とはいえ、のぞんだ試験に対して、わざと放棄するような性格に育てた覚えはない。

香奈は、試験を終えた自分の息子の顔を見たくて、前庭に急いだ。

「海」

香奈の姿に気付いた海は、軽い笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。

晴れやかな笑みに、香奈はほっとする。

おそらく息子は全力で試験にのぞみ、しかも手ごたえがあったのだろう。

こうしてみるとだいぶ背が伸びた。163センチの香奈と目線はほぼ水平に交差する。

「どうだった?」

「チョー楽勝」

さばさばと答える調子からも、自信がうかがえた。

香奈はひとまずほっとすると、ちょうど校門のところにやってきた迎えの車に二人で乗り込んだ。

「それで……うかったら、海は○○中に行ってくれるの?」

後部シートに並んだ息子の横顔に向って香奈は遠慮がちに切り出した。

温かい午後の日差しが、まだ柔らかい息子の髪を茶色に縁どるようだ。

「うん。たぶんね」

海はシート越しに車の行く先をフロントガラスに見つめながら答えた。

その様子があまりにも淡々としているので、香奈は思わず

「△△ちゃんのことは、もういいの?」

と言ってしまった。海の「彼女」の名前だ。

「えー、なんだソレ」

海は驚いて振り返った。

無理もない。海の『恋愛』について、海本人から聞いたわけではないから。

みるみる赤くなっていく頬に香奈は安心してくすっと笑った。

好きな子が出来た、といっても、まだまだ子供なのだ。

「お母さんは何でもお見通しなんだから」

香奈はいたずらっぽく笑った。

海は口を尖らせる。

「どうせ、おばあちゃんから聞いたんだろ」

『おばあちゃん』という単語がそろそろ似合わない声色になってきたな、と香奈は思う。

海は一度、くだんの女の子と二人でいるところを純代に見られているのだ。

ちゃんと挨拶ができる可愛いコだった、と香奈は純代から聞いている。

「……△△ちゃんと別々の中学になるのが嫌だったんじゃないの?」

香奈はふざけるのをやめて、できるだけ優しく聞いてみた。

将が、海が希望するなら公立中にやってもいい、と言っているのを香奈も承知している。

ただ、香奈は母親としてやはり、名門中のほうに進んでほしいのはかわりない。

将来のためというよりは、イジメや治安のことを心配してである。

海は香奈をちらりと見ると、そっぽを向いたまま答えた。

「嫌だったけど、もういい」

「もう、好きじゃなくなったの?」

海は一瞬目をむいた。その目だけで反論しているのがわかる。

だが、すぐに下を向いた。

親から好きだのなんだの、色恋沙汰のことを言われるのは照れくさくて恥ずかしいものだ。

自分にも覚えがあるのに、香奈はついからかうようにつついてしまう。

本当は幼いなりに真剣な気持ちを理解しているのに。

「……違う」

「じゃあ、どうして?」

しばらく車内に沈黙が流れる。

海はそっぽを向いたまま、「お父さんが……」とつぶやいた。

 
 

仕事が一向に進まなくて、香奈は時計を見た。もうすぐ、夫が帰ってくる時間。

いつもは夫の顔を見るのが待ち遠しいとさえ思うのに、今日は会うのが少しこわい。

将は、夫は……片時も『彼女』を忘れなかったのだろうか。

香奈の中で、忘れられない記憶がふと、きらめくように蘇る。

心の奥底にしまった、宝石のような一瞬。

 

『彼女のこと、どれくらい好き?』

『いなくなったら、死んでしまうくらい好き』

 

あの日の夕陽の色とともに、それを映した将の瞳は燃えるようないろでいて、透明だった。

きっと……あのときに将が愛していた相手、それが恩師なのだろう。

受験会場へ向かう車の中で、将は、海に向ってこういったという。

『……本当に好きだったら、時間も距離も関係なく、忘れられないものだ』