第402話 最終章・また春が来る(10)

忘れられるはずがない。

忘れたくなかった。

彼女がくれた万年筆を手放せなくて。

パスワードに彼女の名前をひそかにしのばせて。

25年を経て激しい恋慕は形を変えつつも、聡を忘れることはできなかった。

その思いを心の底に無理に封じ込めたのは……聡のためだった。

聡を包み込む新しい幸せを壊せなかったから。

ボストンへ旅立った時、将は期待していたのだ。

逢えばきっと、聡は自分の元にもどってくる、と。

だが……。

将はため息をつくと、思い出をたどるのをやめた。

いまさら何を思いまどうのだ、と自分を戒めながらも、わかっている。

聡が、博史ととうにダメになっていたと聞いて。

その聡もまた、将への思いを忘れずにいたらしいことを知り。

心はいつになく動揺し続けていた。

いままで、政治的にどんな窮地に立たされようとも、冷静でいたのに。

そして将は、知る。

あの人が、聡が、今もなお、自分の心を支配していることを……。

しかし。

責任ある「大人」という立場になって久しく、さらに一国の宰相となった今。

乱れる心のままに行動することはできない。

10代のあのときのように……いきなり駆け付けることなどできないのだ。

『母に会ってください』

陽の願いは叶えてやることはできないだろう。

逢えば。その顔を見れば。

地中深くに沈んだマグマのような感情は、もはや将の制御を超えてしまうかもしれない。

将はパソコンを閉じると立ち上がり、窓辺に寄った。

今夜は雪こそ降っていないものの、防弾ガラスの外はすべてが凍りつきそうなコバルトに沈んでいた。

ほとんど寝ずに運転して萩へ行った17才の正月。

その疲れた体で聡の実家にしのんでいったあの夜の冷たい空気がふいに蘇る。

逢いたい。だけど。

自分の取るべき行動は、いまさら選びようがないのだ。

 
 

翌日曜日、将は朝早くから仕事に出かけた。

鷹枝家では、朝食後、さっそく香奈がスーツケースいっぱいに持ってきたスイス土産をリビングで広げていた。

チョコレートに喜ぶ了の横で、海が段ボール箱としては小さな箱を取り出す。

「お母さん、何これ? あけていい?」

昨日の帰宅時に比べて、明るい海に香奈は少しほっとして

「いいよ。あけてごらん」

と促す。

「これ……鍋?」

「そ。フォンデュ鍋。チーズフォンデュもできるし、オイルフォンデュもできるんだよ。チョコレートフォンデュも面白いな」

「俺、温かいチョコだめ」

「えー? 美味しいよ! 甘いもの好きなくせに」

リビングは朝の光とともに笑いに包まれた。

香奈は海の笑い顔をひさしぶりに見た気がした。

そのとき、リビングの扉が開いて、純代が現れた。珍しく朝寝坊したらしい。

ゆうべ古い友達との食事だとかで帰りが遅かったからだろう。

「すっかり寝坊しちゃって、ごめんなさいね」

謝る純代に、香奈は気遣う。

「いいえ、お義母さま。今日くらいはゆっくりしてくださいな。……海、おばあちゃんのスープあっためてあげて」

海は素直に立ち上がるとキッチンにある鍋に火を入れた。

ダイニングテーブルに腰かけた純代に了が

「これおばあちゃんにお土産だって」

とリビングからのびあがるようにして箱を振ってみせる。

純代は、それに笑顔で応えてから、海の横でコーヒーを淹れる香奈に

「……香奈さんは今日は、お仕事は?」

と訊いた。

「明日締め切りの原稿があるんですけど、おうちでのんびり書きます」

「……そう」

純代は目を伏せた。

それきり、海が持ってきたスープを口にするだけで黙り込む。

その様子から……何か重大なことを言いたいのだ、と香奈は直感した。