「おはようございます!」
将は吸い込んだ冷たく澄んだ空気を、一気に声に変換するように挨拶をした。
北海道の真ん中に近いB町の朝は冷え込む。今朝のように晴れているとなおさらだ。
なんでも昨日はダイヤモンドダストが観測されたらしい。
今朝は東京ではありえないほど……まさにコバルト色の空の下、白くうねる丘がはるか彼方まで見渡せる好天だった。
ところどころにある葉を落としたポプラ並木や、ハルニレの木が、白い雪に南極の氷のような色の透明な陰をつけている。
あっけらかんとすがすがしい光景……北海道に来て、余裕を持って景色を眺められるのは9月以来だろうか。
ここまで移動する車の中で、将は、景色に見とれながら、晴れ晴れとした自らの心に浮き立つようだった。
底冷えのまま凍りついたような民宿のロケ現場にいるスタッフは、皆白い息を吐きながら縮こまっていた。
そんな中、元気な将の声はいっそう響き渡った。
「おはよう。……やる気まんまんだねえ」
ディレクターが目を細めながら声を掛けた。
「その様子だと、センター試験はかなりよかった?」
「ハイ、たぶん」
たぶん、というのは、この場合謙遜だ。
……今日、将は朝6時に起きると、まっさきに朝刊を広げて自己採点をした。
朝刊には、センター試験の全試験問題と解答が掲載されていた。
果たして将の成績は……運も手伝って自分でも驚くほどの出来だったのだ。
迷って解答した部分もことごとく正答で、将は飛び上がりたくなった。
出来た、というよりは大バクチに勝った様な興奮。
平均点が跳ね上がっていなければ、たぶん足切りには引っ掛からないはずだ。
それも解説によれば、平均点は平年並みだろうと予想されていた。
もちろん……将はこの結果を聡に報告した。
まだ朝早かったから、メールで
>センター○点!
と短く報告する。教師である聡には、点数だけでその素晴らしさがわかるだろうと思ったのだ。
聡は、短いメールを受け取って、複雑な気持ちだった。
それは素晴らしい成績だった。おそらく全受験生の中でもトップレベルであろう堂々たる成績。
準備期間を考えれば、神がかりのような出来だった。
いままでの模試とは比較にならない……将自身の頭の良さ、勝負強さもそうだが、おそらく運も味方したのであろう。
これだけの成績を取れば、たとえ東大は難しくても、センター試験の成績だけで受験できるどこかの有名大学に入ることができるはず……。
嬉しいはずなのに、聡は心が沈みこんでいくのを自覚していた。
なぜなら、将の成功は、聡の決意の後押しになってしまうから……。
かりに、将が不安定なら……聡は『心配』という大義名分でいつまでも将に寄り添っていられる。
聡がいなければ将はダメだから。将は聡が必要だから……。
聡は自分の考えの陳腐さと情けなさに、お腹を押さえる。
お腹の中の……胎児は、まだ眠っているのか心臓の音だけが手にかすかに伝わる。
自分が将と一緒にいたいから……、将の成功を心から喜べないなんて、どうかしてる。
>すごいね。少し早いけど、おめでとう。仕事もしっかりね
自分でも月並みだと思う返信を返しながら、聡は決意をどうやって伝えるか、その瞬間を想像するのが怖くてたまらない。
将の撮りは、とてもスムーズだった。
12月のロケでは、あまりに寒くてうまくしゃべれないときがあったが、今回はそれにも慣れた。長いセリフを覚える要領も得た。
待ち時間も、受験のことは一切忘れる心の余裕が出来たせいだろうか。
将の演技が問題になるNGなどはほとんど出すことなく、撮影の半分ほどが進んだ、そんなある夜。
仕事が終わった将は、マナーモードにしてある携帯に着信が入っていることに気付いた。
『西嶋さん』
と表示されている。大悟の保護者である西嶋夫妻の番号だ。
――大悟が見つかった?
将はそのまま発信ボタンを押した。
……正月早々、大悟が失踪したことは将も聞いていた。
心配していたが、仕事と受験、さらにスキャンダルのあわただしさの中、心から抜け落ちていたのだ。
電話には節子が出た。
「ああ、鷹枝くん? ……忙しいんでしょ、ごめんね」
西嶋夫妻とは、みな子と一緒に猫を見にいったときに親しく話している。
くだけた口調ながら……節子の声はひどくかすれていた。
その声で、大悟のことはよい知らせではなかったのだな、と将は瞬時に悟った。
将が何か話す前に、節子のほうから
「実は、大悟くんが……」と切り出した。
将は、携帯電話を握りなおすようにした。
正月早々、大悟の失踪を聞いたとき、将はふいに元クラスメートの前原茂樹の濃い顔を思い浮かべた。
前原茂樹が少年刑務所から釈放された……。元旦に井口が将に伝えた知らせ。
なぜ、そんなことを思いついたのかわからない。
大悟と前原茂樹はたしかに同じ中学の顔見知りではある。
だけど親が借金からバックれている状態だった大悟は自分の食い扶持を稼ぐために犯罪に手を染めざるを得ず……結果、あまり中学には行っていないはずだ。
「3日前に大悟くんが、うちに来たんだけど……。声をかけたら逃げちゃったのよ」
「逃げた?」
「そうなの。それで、郵便受けに手紙と……10万円が入ってて」
「10万?」
将は、嫌な予感に胃液が逆流しそうになるのをかろうじて止める。
失踪して……10万もの金を手にする。
台風の夜。地下のクラブ。ブラックライトの明滅。尖った靴の男。
将はつながっていく記憶に下唇を噛みつつ、ようやく次の質問を口にする。
「手紙には……何て書いてあったんですか?」
「『お世話になりました。いろいろとすいませんでした』って……。三宅さんには相談したんだけど、将くん、大悟くんが行きそうなところ、もしかして知らないかとおもって……」
将は言いよどんだ。
大悟が行きそうなところ。
これがもし、中学時代の大悟でも、半分くらいは知らなかった。
将の知らないうちに、自らの身体を売っていた大悟である。
今など、もっと知らない。だが。
将が知るわずかな心当たり……しかしその暗闇を考えると、それを善良な市民である西嶋夫妻に教えるわけにはいかなかった。
将はせめて、友達に聞いておきます、と答えた。
それがせいいっぱいだった。
大悟が、覚醒剤を得るために……暴力団の下部組織の、詐欺グループに属していたことは、さすがに言えない。
将は切れた携帯電話を握り締めながら、記憶をたぐる。
あれは、梅雨の頃だった。
朝なのに、真っ暗な夕暮れのような……どしゃぶりの教室で、たしか井口が言っていた。
クラブで大悟と前原の友達が話していた、と。
将がはじめてのドラマのレギュラー出演で忙しかったあの頃、すでに大悟は覚醒剤に依存していたはず……。
大悟と詐欺グループをつなげたのは前原がらみだ。将は確信を持った。
ほぼ的中してしまうだろう嫌な予感に、将は頭を抱えた。