ひるんだ将に、みな子はなおも畳み掛けてくる。
「少しでも……ほんのちょっとでも、好きだったことあった?」
明るく、冗談めかした口調を装いながら……その瞳は真剣だった。
将は息を飲みこむ。
追い詰められた心に直結した心臓が、苦しいほどにドクドクと動き始めるのがわかった。
「そんなこと、今さら」
逃げようとする自分は卑怯だと思う。
あの、一緒にボイコットした視聴覚室で。
色気のない眼鏡の奥に、黒目がちな瞳。
2つにわけて結んだまっすぐな黒髪。
真面目に着こなした制服の下に延びたスラリとした脚。
頬を染めて駆けてきた振袖姿。
みな子の中に、それらを見つけたとき、まったくときめかなかったといったら嘘になる。
でも、それはみんな、若い頃の聡を想像させてやまなかったから。
だけど……一瞬でもみな子自身を見ていなかっただろうか。
いや、あの元旦の日は。
……将は確かに、みな子の中の聡の面影ではなく、みな子自身に吸い寄せられて口づけしてしまったのだ。
だけど、そんなことを……みな子に惹かれた一瞬が確かにあったことを告白してどうする。
自分は最初から聡を選んでいるのだ。
聡だけを一生愛することに決めたのだ。
みな子に揺らいだことを……本人に伝えたところで、みな子の自身にも何の足しにもならないだろう。
将はどうしてみな子がそんなことをいまさら訊くのか理解できなかった。
しかし、みな子はなおも食い下がる。
「もしも……もしも。先生がいなかったら。……あたしを好きになってた?」
聡がいなかったら。それには将は答えられない。
聡がいなかったら、今の自分も……たぶん存在しないから。
聡のいない世界。それは太陽のない世界……暗黒の中で将はいつまでも心に救いがない暮らしをしていたに違いない。
それに……そもそも、そんなことを考えるのは聡に対して限りなく不実に違いないから。
答えられない将は目を伏せた。
「ねえ。先生と出会わなかったら……」
なおも質問を続けようとするみな子を将は遮った。
「ごめん。……アキラがいないとか……考えられない。てか、考えたくない」
みな子が大きく息を飲むのがわかった。
「そっか……。そうだよね」
ため息まじりにそう呟くと、みな子はチョコレートの紙袋を抱えたまま、虚空へと一度目をそらした。
さっきまで最後の光を差し出していた夕陽は、厚い雲に隠れてしまったらしい。
あたりは……みな子の絶望さながらに、青みがかったグレーに沈んでいる。
ごめん、ともう一度言ってここを立ち去れないか、と顔をあげた将に、みな子も同時に振り返った。
「じゃ、好きか嫌いかだったら……好きなほうだった?」
将があきらかに困惑するのが、みな子にもわかった。
みな子も……どうして自分がこんな質問を投げかけて将を困らせているのかわからなかった。
だけど、止まらない。
理性では『なんて馬鹿な質問なんだ。こんなことを訊いたって何にもならないのに』とわかっている。
なのに胸から湧き上がるせつなさは、将に自分の位置を確認させる言葉となって吐き出されていく。
無駄だとわかっているのに、訊かずにはおれない。
……いつかこんな日が来るとわかっていた。
わかっていながら、みな子は将のそばにいたかった。
将が聡を選んでいるのがわかっていても、せめて教室で将に寄り添いたかった。
自分から初めて、好きになった異性。
それがまったくの一人相撲だったのか。
それとも、髪の毛一本の先だけでも、ほんの0.001%だけでも。
将が自分に答えていてくれたのか。自分のことを好ましく思ってくれた瞬間があったのか。
それは、みな子の心にとって……畢竟、アイデンティティを賭けるほどの問題だったのだ。
「友達としてでもいい。……好きだった?」
将はみな子の本意がわからなくて、ただみな子の瞳を見つめるしかなかった。
その黒い瞳は……問いを重ねるごとに、歪んでいくのがわかった。
薄闇の中でも、たまりそうになる涙で目の表面が固まりかけたゼリーのように揺れるのがわかる。
それを、長い睫を懸命にパタパタと瞬いて堪えている。
そんな様子をみると、将の心は痛んだ。
傷ついて、必死で助けを求めている子猫を放置するような、心の痛み。
「ねえ……好きでいてくれたんだよね」
その声はどんどんかぼそくなり、ついにはふるえはじめた。
睫は休むことなく瞬いて……揺れる黒目がちの瞳からは、いまにも涙がこぼれそうだ。
「そうじゃなかったら……キスなんか……」
それ以上は言葉にならなかった。
忘れると言ったけれど、忘れられないだろう。みな子にとっておそらく初めてのキス。
それをした将の心に……少しでもみな子への好意を含んでいなかったのか。
みな子はついにそれを突きつけてきた。
それがしのびなくて、ついに将は、だまってうなづいた。
一度だけでは、軽い気がして、将は何度も確認するように、みな子の瞳から視線を動かさないまま首を振る。
みな子は、将がうなづいた――つまり将が少しでも自分のことを好きだった――その事実を確認すると、安心したのか、大きく息をついて横を向いて俯いた。
そのとき……雲が再び流れたのか、おそらく今日最後の夕陽が一筋、ふいに靴箱に射しこみ、みな子の頬に届いた。
光線から顔を隠すべく、みな子はチョコレートの袋に顔をうずめようとした。
しかし、その直前、将は泣き濡れたみな子の頬がキラキラと輝くのを見てしまった。
みな子が泣いている。
気丈な女子クラス委員が、声を殺して肩を震わせている。
ふいに正義のように湧き上がる、抱きしめたい衝動。
将はそれを、握りこぶしに力を込めながら懸命に堪えるしかない。
それは、ほんの一瞬だったのかもしれない。
気がつくと、夕陽は再び厚い雲に隠されて、靴箱はさっきよりさらに深い翳に沈んでいた。
やっと、みな子がチョコレートの袋から顔をあげた。
暗くてよく見えないが、涙は止まりつつあるようだ。
「……大丈夫?」
こんなことを訊く自分は……みな子のことを気遣うようでいて、とても薄情な偽善者だ。
自分に吐き気さえ覚える将だったが、もはや、どうしようもない。
しかしみな子は気丈にも、こくん、とうなづくと、10個のチョコが入った紙袋を両手で将に差し出した。
「友チョコ、だから」
躊躇する将に、みな子は拗ねたような声を出して抗議する。
「あたしが持って帰ったって、どうしようもないでしょ。チョコ10個も」
ほら、と促すみな子は、涙に目を光らせながらも、口調はいつもの調子に戻りつつあった。
それで将はようやく、チョコレートの入った紙袋を受け取った。
「友達では……いてくれるよね。クラスメートだもん」
最後に、みな子は微笑んで、卒業までは、と付け加えた。
濡れた睫で無理やり微笑む瞳。
また揺らいでしまいそうになったことは、ずっと心にしまっておかなくてはならない。