第416話 最終章・また春が来る(24)

博史と陽の姿に、聡の幸せを理解した将は……聡に会うことなく帰国した。

今度こそ、引き裂かれるように胸は痛んだ。

断腸の思い――子猿を失った親猿の、腸がちぎれるほどの悲しみ。その諺どおりの痛みに将は耐えた。

聡のために。

聡が将の未来のために身をひいたように。

聡がやっと手に入れた幸せを壊すことはできない……。

聡と自分の道は、すでに分たれてしまったのだ。

 
 

「……結局、僕は、あなたの幸せを壊せなかったのです」

将は乾燥した視線をティーカップに落した。

そこには……あのとき探して歩いた夕陽に似た色が残って揺れていた。

もう逢えない。

二人が二度と結ばれることはない。

それがあの人のためなのだ。

それがわかっていても、将の心はなおもひきちぎれた恋を求めて長いこと叫び続けていた。

 
 

ボストンから帰国した将は、K大に2年次から復学した。

体は奇跡的にもほとんど元通りに戻ったが、聡を失った将の心はまだ癒えることなく、抜けがらも同然だった。

将は、せっかく2年に進級できた大学をしばしばさぼった。

学校をさぼった将は、さまよっていた。

二人で歩いたあの街。

二人で座ったあのカフェのソファ。

聡の思い出を、面影を。

探して将はさまよった。

もしかしたら、偶然会えるかもしれない。

……ありえないとわかっているのに。

わかっていても将は思い出を訪ねずにはおれなかった。

 

あの海辺へも何度も訪れた。

あのときと同じローバーミニを運転して、あの海岸への道をたどる。

振り返れば、助手席であの人が笑っている。

そんな幻を期待したのに。

幻すら今の将に会いに来ることはない。

やがて車は二人がびしょぬれになりながら笑ったあの海岸にたどりついた。

春の海はサーファーでにぎわっていた。

あのとき、初秋の海岸にはあんずのような色の夕陽が輝いていた。

今、将の前にあるのは霞んだ薄水色の空と、水平線の上にやや力強く浮かぶ夏雲のはしりである。

 

  柔らかな風が吹けば
  春が訪れて
  海に浮かぶ雲は
  夏を呼んでる

  吹き抜ける
  青い空の向こうにはもう
  あの真っ白い冬が
  待っている

  ほんのなにげない
  晴れた午後は
  二人のことを
  思い出すことあるかな

  二人の時は
  止まったままだね
  また 春が来る

 

  今も 信じられないけど
  あの日 確かに
  二人
  終わってしまったのかな

  偶然でいいから
  どこかで
  会えればいいのに
  きっと時計が 動き出す

  知らないうちに
  いつかここも
  変わってしまった

  もう一度 二人
  ほんとうに
  会わないで いいかな
  ずっと
  このままで いいのかな

  季節はただ巡り
  また 春が来る

 

  ねえ 
  またあの海へ
  またあの街へ
  行ってみないか

  クリスマスの夜
  二人腕からませて
  またずっと
  どこまでも歩かないか

  もう一度 二人
  会わないで いいかな
  こうして 
  このまま 終わるのかな

(引用:小田和正「また、春が来る」)

 

将は高校時代に暮らしたマンションの前に立った。

……ここももう、売り払われていた。

聡が立ったキッチンも。

二人で初めて抱き合って眠った、コンポのパイロットランプが星空のようだった寝室にも。

もう立ち入ることはできない。

将はマンションを下から見上げると、あてどもなく夕方の町をぶらついた。

あの頃――塾講師のバイトがない日なら、聡が弁当屋にいた時間。

しかし……ごちゃごちゃした商店街はいつのまにか区画整理されていた。

聡が働いていた弁当屋のあたりは、大きな洒落たショッピングモールが建っていた。

かつての古びた面影などみじんもない。

『いらっしゃいませ。……山田さんは、中華か揚げ弁かオムライスだもんね』

『うすらの卵、サービスで3つも入れといたよ。好きでしょ』

地味な、白い上っ張りの上にあった、温かい笑顔。

レジを打つ間見とれた優しげな長い睫も、桃色がかった細い指も、低いくせに親しみのある声も。

もはや将に差し出されることもない。

時は流れ人は変わっていく。

わかっているのに。

将はその流れに身を任せることができず、ただぼんやりと立ち尽くしていた。