ぼんやりと過ごしていた将を動かしたのは、脚本家の元倉亮である。
将が刺される直前に準主役を務めたドラマ「あした、雪の丘で」のスピンオフが、舞台化されるにあたり、元倉は将を誘った。
もちろん将は断ったが、たった1日の上演とのこと、そして何度も何度も執拗にオファーを受けたことで、ついには根負けして承諾した。
たった1日ならいいか、と考えたのだが、そこで将はボロクソにしごかれた。
たった1日、たかが2時間もない劇だというのに、練習でとことんダメだしされた。
それはコメディ要素の強いスピンオフだった。しかも将は、女性に振られる役どころだ。
「君、まったく笑えないんだよね。真剣にやってよ!」
振られる役を面白おかしく見えるように演じるとは。
「演技が固い。理解が浅い!」
理解が浅いのは将にはわかっている。いや、理解していないわけではない。
わかっているのに……つらくて、浅くしか入り込めないのだ。
「なんか将君のシーン見てると、可哀そうで泣けてきちゃうのよね」
共演の女装家コメディアンが言った。将の事情など知らない彼をしてそう感じさせてしまっている。
可哀そうに見えてはだめなのだ。滑稽に見えないと意味がない。
将はもがいた。
もがいてもがいて、気が付くと自分を忘れている一瞬があった。
シンクロしてくる自我と役柄——それに必死で抵抗していた自分がいなくなった。
演技に集中している間は、聡のことを忘れることができた。
かくして、スピンオフコメディは、そこそこの成功を収め、将は歩き始めることを知った。
その後、将は学業と俳優業を忙しくこなしながら、政治を学んだ。巌の遺言を守るべく――。
それも聡を失った痛みを忘れ――そして、聡が自分に望んだ未来を実現させるだめだった。
こころに少しでも隙間ができれば欲してしまう。そんな自分の心から逃げるべく将は働いた。
そして、いま。歴代で一番若くして総理に登りつめた――。
「……それでもいつも、心のどこかであなたの幸せを願っていました」
将は『幸せ』という言葉をやや強調してみる。
盤石であったはずの、聡が手に入れた幸せ……。
それを知ってか知らずか、聡は静かに沈黙していた。
その黒目がちの瞳は――睫でその半分が隠れている。ゆえにそこに何が映っているのか将にはわからない。
それを確かめたくて、だけど将は躊躇する。
本当の聡の思い。
その後の聡が、どんな運命をたどり、何を思いながら暮らしたのか。
だけど問いは舌にからまってしまったようだ。
からまった問いを、ほぐすように、将は冷めかけた紅い茶で舌を潤す。
そのとき、再び窓から薄日が射してきた。
さっきより、やや強い日差しは、テーブルの上の小さな紅いバラの色をくっきりと際立たせた。
本当は――。
わかっていること。きっと浮かび上がること。
それは。本当は……二人がやり直せたかもしれなかった事実。
いまさら言っても仕方がないことだ。
だけど。
将は目の前にいる、聡へと瞳をあげた。
藤色の着物に包まれた聡は、レースごしの陽射しの中で、白磁のように白かった。
その血色の薄い肌はただ儚くて。
聡に残された余命の短さを将は確かに感じた。
――もう、これが聡と会う最後かもしれない。
だから。
何十年も前にすれ違ってしまった思いだけど、重ね合えた可能性を。
いま、確かめることができるなら。
将は、あえて投げかけてみる。
「……だけど、あなたは。あなたの幸せは……もうずいぶんまえに壊れていたんですね」
将の言葉に聡は静かに首を横にふった。