第417話 最終章・また春が来る(25)

ぼんやりと過ごしていた将を動かしたのは、脚本家の元倉亮である。

将が刺される直前に準主役を務めたドラマ「あした、雪の丘で」のスピンオフが、舞台化されるにあたり、元倉は将を誘った。

もちろん将は断ったが、たった1日の上演とのこと、そして何度も何度も執拗にオファーを受けたことで、ついには根負けして承諾した。

たった1日ならいいか、と考えたのだが、そこで将はボロクソにしごかれた。

たった1日、たかが2時間もない劇だというのに、練習でとことんダメだしされた。

それはコメディ要素の強いスピンオフだった。しかも将は、女性に振られる役どころだ。

「君、まったく笑えないんだよね。真剣にやってよ!」

振られる役を面白おかしく見えるように演じるとは。

「演技が固い。理解が浅い!」

理解が浅いのは将にはわかっている。いや、理解していないわけではない。

わかっているのに……つらくて、浅くしか入り込めないのだ。

「なんか将君のシーン見てると、可哀そうで泣けてきちゃうのよね」

共演の女装家コメディアンが言った。将の事情など知らない彼をしてそう感じさせてしまっている。

可哀そうに見えてはだめなのだ。滑稽に見えないと意味がない。

将はもがいた。

もがいてもがいて、気が付くと自分を忘れている一瞬があった。

シンクロしてくる自我と役柄——それに必死で抵抗していた自分がいなくなった。

演技に集中している間は、聡のことを忘れることができた。

かくして、スピンオフコメディは、そこそこの成功を収め、将は歩き始めることを知った。

 

その後、将は学業と俳優業を忙しくこなしながら、政治を学んだ。巌の遺言を守るべく――。

それも聡を失った痛みを忘れ――そして、聡が自分に望んだ未来を実現させるだめだった。

こころに少しでも隙間ができれば欲してしまう。そんな自分の心から逃げるべく将は働いた。

そして、いま。歴代で一番若くして総理に登りつめた――。

 
 

「……それでもいつも、心のどこかであなたの幸せを願っていました」

将は『幸せ』という言葉をやや強調してみる。

盤石であったはずの、聡が手に入れた幸せ……。

それを知ってか知らずか、聡は静かに沈黙していた。

その黒目がちの瞳は――睫でその半分が隠れている。ゆえにそこに何が映っているのか将にはわからない。

それを確かめたくて、だけど将は躊躇する。

本当の聡の思い。

その後の聡が、どんな運命をたどり、何を思いながら暮らしたのか。

だけど問いは舌にからまってしまったようだ。

からまった問いを、ほぐすように、将は冷めかけた紅い茶で舌を潤す。

そのとき、再び窓から薄日が射してきた。

さっきより、やや強い日差しは、テーブルの上の小さな紅いバラの色をくっきりと際立たせた。

本当は――。

わかっていること。きっと浮かび上がること。

それは。本当は……二人がやり直せたかもしれなかった事実。

いまさら言っても仕方がないことだ。

だけど。

将は目の前にいる、聡へと瞳をあげた。

藤色の着物に包まれた聡は、レースごしの陽射しの中で、白磁のように白かった。

その血色の薄い肌はただ儚くて。

聡に残された余命の短さを将は確かに感じた。

――もう、これが聡と会う最後かもしれない。

だから。

何十年も前にすれ違ってしまった思いだけど、重ね合えた可能性を。

いま、確かめることができるなら。

将は、あえて投げかけてみる。

「……だけど、あなたは。あなたの幸せは……もうずいぶんまえに壊れていたんですね」

将の言葉に聡は静かに首を横にふった。