康三は……将が今日、聡に逢いに行くことを見抜いていた。
見抜いていながら、黙っていた。
――彼女が日本を発つのは明日――。
せめて別れを惜しませてやろうという情けと。
……今日、逢って気持ちを落ちつけておけば、明日の試験によい結果をもたらすかもしれない。
そんな親心とが、康三を大目にさせていた。
にしても。
資料が頭に入らない。
康三は膝の上に開いた資料から目をあげて、軽く目を閉じた。
車の振動のせいではない。
軽い吐き気を覚えて……そのまま、シートに寄りかかる。
そのとたん……フラッシュバックのように、こちらを睨みつける将の目が、記憶の底から急浮上して迫ってきた。
中学の頃……荒れていた頃の将の鋭い目。
『オヤジのバッキャロー!』
若い手負いの猛獣のように手が付けられなかった、あのときの将。
あの、殺人事件を起こした直後だ。
自らの罪を大悟に着せたと知ったとき、将は荒れ狂った。
三宅弁護士の説得により、やっと気を鎮めたように見えたが……。
たしか三宅弁護士はこんな風に説得していたはずだ。
『未成年だし正当防衛だ。大悟くんの将来を傷つけることにはならない。
……しかし将くん、君の場合は違う。目立つ家柄の子供だ。もし、君が犯人だということになれば、ひいおじいさんの血筋に泥をつけることになってしまうんだぞ』
巌の血筋、という言葉に将は黙ったものの。
その瞳は変わらなかった。
康三に向けられたのは、鋭くぎらつく日本刀のような……冷たく鋭い将の視線。
なぜ、そんな視線を今、思い出すのか。
……わかりきっている。
聡を失った将は……またあの頃に逆戻りするのではないか。
将はきっと……今回のことについて、康三のしたことだと……嗅ぎつけるに違いない。
ばかな。
康三は自らの恐れを打ち消した。
前とは状況が違う。
将は、うちに戻ってきてうまくやっている。
康三は条件付きとはいえ……聡のことを認める姿勢を将に見せている。
何も知らない妻の純代は……一生懸命、みごもった聡の世話を焼いていたはずだ。
聡を失っても。
将が康三を恨む理由など、何もないのだ。
そうだ。聡が……自ら、将を、捨てるのだから。
このところ……将の顔を見るたびに、毎回そんな自己確認を繰り返している。
だが、一向に康三は安心できない。
将が……それを嗅ぎつけるのではないか、と気が気でない。
康三は、携帯を取り出した。
毛利を呼び出す。
「例の件は、どうだ」
「はい。順調です。夫妻は婚姻届を出し、明日11時30分の便でボストンへ直行します。同行する医師も手配済みです……」
すべて予定通りに進んでいる。
あとは……聡を失い傷ついた将を、家族で慰め、立ち直らせるだけ。
何も、心配することはないのだ。
康三は自分に言い聞かせた。
大きなスーツケースは、フローリングの床を占領した。
……聡は、蔭りゆく部屋の中、荷造りをしていた。
「古城先生がたとえ手ぶらで行かれても大丈夫なように整えておきます」
毛利はそういっていた。
「残った家具などは、こちらで責任を持って保管もしくは処分しておきます」
とも。
家具や家電、食器は向こうの家に万端そろえてあるのだろうから、こっちのを持っていく必要もない。
それでも。
気に入った服や、萩の叔父に焼いてもらった食器、身の周りのこまごまとしたものなどを聡はスーツケースに詰め込んでいく。
2度目の長期渡米だから、だいたい勝手はわかっている。
だけど、大きなお腹を抱えての作業は、少しだけ大儀だった。
パズルのように隙間にものを詰め込もうと、下を向く聡の頬に髪がかかる。
それを無意識のうちに……ゴムを手にして後ろにまとめようとして……その長さが足りないことに気づく。
――そうだよね。切ったんだった。
聡は鏡を振り返った。
鏡の中には、顎の上あたりで髪を切りそろえた聡がいた。
聡は髪に触れてみた。
ストレートにした短い髪は……今までに比べるとあっけないほど指からこぼれていく。
腕のいい美容師がやってくれたおかげで、その髪型はむしろ前よりお洒落になったといえる。
そして……明るく活動的ともいえる。
聡は鏡の中の自分に微笑んでみせた。
その微笑みに……将が重なり、聡はあわてて目をそらした。
将は見ることのない髪型……。
そんな事実が胸をよぎり、きゅっと苦しくなる。
聡は、感情を無視して作業を続けることにした。
明日発つために、今日の夕方に業者がスーツケースを取りに来る。
急がなくてはならない。
クロゼット、食器棚、本棚……と来て、飾り棚とその下の引き出しに差し掛かる。
引き出しをあけようとする聡の手が止まった。
飾り棚の上に……あのペアマグカップ。
将が、はじめて聡にくれた……。
そしてエンゲージリング。
将との日々が急に膨らんで一気にはじける。
……すべての思考が止まる。
ただ唯一残った感情が……聡の体を動かす。
聡はケースをあけると、そのリングを取り出した。
ダイヤのリングは午後の光を受けてキラリと光った。
将が……。
こちらを振り返った気がした。
長い時間。
リングを指に嵌めたまま、聡はぼうっとしていた。
将と……。
指輪をくれて。
結婚しようと誓った将と……。
離れなくちゃいけないんだ。
明日。
あした。
いやだ。
離れたくない……。
「どうして、行かなきゃいけないの」
口に出してみる。
静まり返った部屋で返事をするものは皆無だった。
そのかわりに聡の目から涙がこぼれおちてきた。
ぐる。
『ひなた』の動きに、聡はハッとする。
何をいまさら。
将のために、決めたんじゃない。
聡はかろうじて、気を取り直した。
この指輪だって。
置いて行かなくてはならないのだ……。
どこの世界に。
前の恋人からもらったエンゲージリングを新居に持ちこむ妻がいるだろうか。
……だけど。
いまだけ。
いまだけ、いいよね。
聡は将のリングが光る薬指をもういちどいとおしんだ。