また書き損ねてしまった。
聡はそのために買った便箋を破って捨てた。
そのため――将への手紙。将に宛てた、将を捨てるという宣告。
「将さまへは必ず手紙を残してください。出来る限りきっぱりとした文章がいいです。そして……偽造と思わせないように、手書きでお願いします」
毛利は聡にそんな風に指定した。
将に、未練を残させないための手紙。
……できれば恨みを持つほどの冷酷な内容がいい。
それは聡もわかりすぎている。
もしも聡が何も残さずに旅立てば、将は聡を探すだろう。
手紙を残しても……それがメールだったり、印字されたものだとしたら、将はそれを聡本人からのものだと信じないだろう。
毛利の提案は至極当然のことなのだ。
なのに……文案は考えてあるはずなのに、もう5枚は書き損じている。
うち最初の2枚はこぼれた涙で、文がにじんでしまった
あふれる涙を落ちないうちにティッシュでぬぐいながら、できるだけ冷淡に、
――博史とやりなおすことにした――
――将への気持ちはもう醒めてしまった――
そんな内容をつづる。
だけど、どうしても……気持が動揺しているのか、手が震えてしまう。字を間違えてしまう。
6枚目を破って捨てたときには、もう夕焼けもすっかり消えて、部屋には薄闇がしのびよっていた。
――ひなたちゃん。日本で最後の夕焼けを見損ねちゃったね。
聡はお腹に向かって心で囁いた。
できればもう一度――あの海に行きたかった。
将と初めてデートしたあの海へ。
波にはしゃいで、夕陽が落ちるのを一緒に眺めたあの海へ。
でも、先週突然決まったボストン行きに、そんなことをする時間などなかった。
聡は将との思い出の場所を訪ねる暇もないまま、明日旅だたなくてはならないのだ。
そんなことを考えていたら、また涙がこぼれてきた。
「ごはんにしようか」
聡は手紙をいったん諦めると立ち上がった。
出発は明日の朝だから、夜中にゆっくり書けばいい。
立ち上がった聡は灯りをつけた。
夕闇から一転して明るくなった部屋は、その主が明日から旅立つようには見えない。
冷蔵庫の中ですら……今朝、純代が送ってきた無農薬野菜がいっぱいに詰まっている。
康三の妻であるにもかかわらず、おそらく純代には何も知らされていないのだろう。
この部屋と部屋に残されたものの処分と保管についても、毛利は万事責任を持つことを約束していた。
つまり、ごく普通の生活の連続をいきなり断ち切るように、旅立てる手筈が整っている。
聡がボストンへ持っていくのは、スーツケース1つだけだ。
ボストンでの暮らしに必要なものだけを詰め込んだスーツケースは、1時間ほど前に詰め終わり、あとは業者が取りに来るばかりになっている。
将の思い出の品はすべて置いていくつもりだったが……たった1つだけ入れてしまった。
クリスマスに将がくれた、お腹の『ひなた』の靴下とベビーリング。
『ひなた』はもちろん博史の子として育てることになる。
博史は忙しい出発準備のあいまに、産科主催の父親教室にも参加してくれているのだ。
おそらく……博史の性格からいってもやさしい父親になってくれるだろう。
でも。
聡は最後の最後で、それをスーツケースに入れてしまった。
もちろん、本当の父親を知るチャンスなどないほうが、娘にとっては幸せなはずに違いない。
だけど。たった1つくらいは……実の父親ゆかりの品を残してやりたい。
この世に裸で生まれ出てくる娘に、本当の父親が選んだものの1つくらいは身につけさせてやりたい。
それは、娘が愛されて望まれて、生まれてきた証になるだろう。
……聡は無意識にそう思ったのだ。
このあたりは何度か歩いたことがある。もう、聡のコーポに近いのだ。
将はシートの隣にいる藤井さやかを振り返った。
「じゃ、井口クンによろしくね」
するとさやかは、
「マスク、忘れてるよ。『花粉症』なんでしょ」
といたずらっぽく微笑んで、マスクを差し出した。
サングラスの下をマスクでかくしながら将は
「あとサ、悪いけど……」
最後にもう一度念押しをしておこうと口をあけた。するとさやかはすかさず
「わかってる。降りた場所は、春樹には内緒、でしょ。大丈夫。あたし東京詳しくないから」
と、小さな顔の中のつぶらな瞳をくるっと動かすようにして先回りした。
さすが、井口の年上の彼女だ。察しが早い、と将は思った。
井口とこの長野に住む藤井さやかの仲は、井口にしてはかなり長く続いている。
夏ごろからだから、もう半年続いていることになる。
しかも、さっきの様子から見ると、井口はまだまださやかに夢中なようだ。
今度こそ、井口も幸せになれるかな、と将はさやかを頼もしく思った。
さやかだけを乗せたタクシーが行ってしまうと、将はあたりを振り返った。
誰も付いてきている気配はない。作戦は成功したのだ。
将は愉快な気分で、1ブロック先にある聡のコーポへと急いだ。
コーポの前にはトラックが停まっていた。
駐車禁止のはずだが、宅配便か何かだろうか。将は気に留めず、階段を上った。
途中、階段を下りてきた、大きなスーツケースを抱えた業者とすれ違った。
体を横にして業者を行かせながら、将は、暗い蛍光灯に浮き出たそのスーツケースを振り返る。
どこかで見たような気がする。
聡のだろうか、と一瞬浮かぶが、すぐにそれが違う根拠を将は思い出す。
山梨に転勤していたときに見た聡のスーツケースはあれより小型だったはずだ。
そんなことより早く逢いたい。
将ははやる心のままに、コーポの階段を駆け上がった。