第393話 最終章・また春が来る(1)

あれから何回の季節が通り過ぎていっただろうか。

街も、人も、その姿を変えながらも、生きて動き続けているのは変わらない。

失ったひとも。

そして、引きちぎられるような悲しみも。

ともすると、生き続けていくために繰り返す日々の雑務の中で、沈澱してしまい……そのまま澱のように忘れてしまいそうになる。

 
 

2月。

小雪が舞う寒い日。

鷹枝総理は、今、先祖代々の墓の前に立ち尽くしていた。

総理にとって墓参りは、奇しくもその悲しみを浮かび上がらせ、今は亡い人を思う大切な日だった。

本来は……いとしい家族の命日は、まだ先だったが、今年の命日は先進国首脳会議の日程に掛っているから仕方がない。

それは前総理の都合で決まった日程だった。

前総理を衆議員解散・総選挙へと追いやり、歴史的な衆院選大勝で下した鷹枝総理とはいえ、個人的な事情で国際イベントのスケジュールを覆すわけにはいかない。

総理はアネモネの花を墓前に供えると、手をあわせた。

アネモネは、あたりの寒々しい景色に似合わない鮮やかさで、石造りの墓を彩った。

墓の下には、あまりに早く逝ってしまった愛する家族、そして偉業を成し遂げてきた先祖が眠っている。

心の中で、彼ら一人一人に声をかけているうちに……いつのまにか長い時が経っていた。

 

「総理。肩に雪が……」

ようやく総理が寺の外に現れると、待っていた初老の運転手が見上げるようにして声をかけた。

いつのまにか総理の肩には雪が積もっていた。

「ああ。温暖化が少しは止まったのならいいけど」

総理はほほ笑みながら自ら肩の雪を払った。

その間も、周囲に鋭い視線を走らせるSPが3人、総理を守っている。

長年政権を握ってきた与党を圧倒的多数で下して選挙に勝ち、史上最年少で宰相になった鷹枝氏は、与党や官僚の私欲がらみの癒着をばっさりと断った。

その断ち切り方は容赦がなかった。

大多数を占める庶民の不利になる関係は情けをかけることなく断った。

就任してわずか1年足らずながら、癒着がらみで検挙され、あるいは追い詰められて自殺した者は数十人にのぼるとさえ言われている。

ゆえに総理を恨むものも多く……利権の復活のために命を狙うものさえあることを、総理自ら知っていた。

死ぬことは別段怖くはない。

しかし。

私腹を肥やすために国を食い物にする輩から、この国を守れという一族の長老との約束を果たす道のりはまだ始まったばかりだ。

ここで殺されることによって、仕事を手放すわけにはいかない。

 
 

防弾仕様の車に乗り込んだ総理は、秘書から資料を受け取り目を通した。

分刻みのスケジュールは、確認せずとも頭に入っているが、なにせ忙しい総理である。

こうした移動時間は格好の資料を読み込むべき時間になっていた。

委員会の分厚い資料を10分ほどで目を通してしまい、次の資料を手に取る。

それは今夜収録されるテレビ番組で対談する相手のプロフィールだった。

総理は忙しい身ながら、テレビ番組をレギュラーで持っている。

各界で活躍する若いゲストと総理が1対1で対談する、30分の深夜番組だ。

対談といいつつ、実はゲストから投げられる政治への疑問に総理が答えるという形式になっている。

ともすると真意が間違って国民に伝わりがちなトップの地位にあって、自らの意思や政策を国民に自分の言葉で伝えること、そして政治を身近に感じてもらうことが主な目的だった。

総理としては本当は生番組がよかったのだが、総理ともなると何が起こるかわからないということで、収録になっているが、ほとんど編集をしないという約束になっている。

総理の人気や支持率は歴代総理の誰よりも高い水準で推移しているのもこの番組が一つの助けとなっているかもしれなかった。

「女優の月舘よう子ねえ。……三島くん知ってる?」

「知ってますよ。カンヌ映画祭で日本人初の主演女優賞を取った、今一番話題の人気女優さんじゃないですか」

若い秘書の三島が、そんなの常識といわんばかりの声をあげたから、総理は再びプロフィールに目を落とす。

たしかに三島のいうとおり、1年前、24歳だった彼女はカンヌ映画祭でパルムドールを授与されている。

しかもフランス映画でだ。

アメリカ生まれパリ育ちで3ヶ国語に堪能。18才で帰国し、19才でスカウトされてデビュー。

かつ、芸能活動をこなしながら、総理と同じ一流大学をきちんと卒業している。

しかし和服を着たプロフィール写真に、外国育ちながらルーツを大事にする彼女の気持ちが表れているようで、総理は好感を持った。

そのとき、運転手がつけたカーラジオから、懐かしい歌が流れてきた。

本来、カーラジオはニュースなどを知るためにかけている。

車にはテレビも完備しているが、資料に目を通しながらの情報収集にはラジオがぴったりなのだ。

 

 ♪ La La La……言葉にできない ♪

 

愛したひとが好きだった歌の一節を、思わず総理は資料から目を離さないまま口ずさんでいた。

「総理の歌なんて、初めて聞きました」

三島が意外そうにつぶやいた。

「そう?」

総理はいたずらっぽく笑うと、資料を秘書へと返す。

『先日×歳で永眠した○○○○さんの約半世紀を超えての歌声。本当にいいですね。これからも私たちを魅了し続けていくことでしょう……』

アナウンサーの声に総理は、また、時が進んだことを知った。

人は逝き、歌はこうして残る。

人が生きるとは、そして生きた証とは。

遠い昔、考えたそれが、ふいに頭を占拠しそうになり、総理はあわてて思考を資料に戻す。

考えても考えても、答えになどたどりつくはずなどないのに。

こうして何かを失ったとき、忘れかけていたそれが浮かび上がってくるのだ。

それは……使命のために忙殺されていても、なおも生きている『心』というやっかいなものの証のようだった。

 
 

「総理、こちらです」

プロデューサー自ら総理を出迎えるのは毎回のことだ。

「今日のゲストの、月舘よう子さんです」

「よろしくお願いいたします」

総理よりずっと早く到着していたのか、プロデューサーと一緒に月舘よう子が頭を下げる。

顔をあげた月舘よう子を見たとき、総理は、一瞬、懐かしい風が通り過ぎたような錯覚にとらわれた。

しかし、顔をもう少しよく見ようとしたそのとき。

「それではさっそくカメリハ行きましょう」

とプロデューサーが促したから、それはうやむやになってしまった。

 
 

収録はつつがなく進んだ。

総理は、よう子の質問に如才なく答えながら、その顔を観察していた。

――どこかで見た気がする。

そして、この雰囲気。低い声ながら温かみのある話し方。

25才。一見、日本の若い女性とまるで変わらないよう子だったが、しっかりと社会や世界の中の日本を見据えて、自分なりの価値観を持っている……

話からはそんなよう子の高い知性が伺えたが、その雰囲気は硬いものや、人を見下す類のものではなかった。

柔らかく温かい雰囲気。

それは、あきらかに、遠い記憶の中の、あの女性に似ていた。

 

総理がすべてのスケジュールを終えてから行われる収録だから、終了はたいてい深夜になる。

「お疲れ様でした」

今日の仕事をすべて終えて、ほっとした総理が秘書と共にスタジオを後にしようとしたそのとき、

「総理」

後ろから呼び止められた。よう子だった。

「今日は、ありがとうございました」

しなやかな身のこなしながら、深々と頭を下げる。

「こちらこそ。いろいろと勉強になったよ」

総理は挨拶を返しながらも、再びよう子に漂うものを観察した。

やっぱり似ている。こうやって立ち上がると、ますます――。

「あの、総理」

顔をあげたよう子は、なおも立ち去ろうとせず、総理を見上げた。

どうやら単なる挨拶で呼びとめたのではないようだ。

総理はよう子に向きなおった。秘書の三島は、総理がいつになく優しい表情を浮かべている、と思った。

「……総理は、ロマーヌさんを覚えてらっしゃいますか?」

「ロマーヌ?」

総理は首をかしげたが、よう子はなおも続ける。

「ロマーヌ・ディビエさんです……パリの。総理と幼稚園が一緒だったって聞きました。私、子供の頃、ロマーヌさんにベビーシッターをやってもらっていたことがあるんです」

そこまで聞いて……総理のまなこと口が大きく開いた。

遠い記憶がマジックの花のようにいきなり蘇る。

「ロマーヌ。ロマか!」

「はい」

よう子は嬉しそうにうなづいた。そして、頬を紅潮させたまま、さらに口にする。

「総理。……私の本名は、古城陽(ひなた)っていうんですよ」

鷹枝総理――つまり鷹枝将の息は一瞬止まった。

それは……25年の間、止まっていた何かが流れ始める合図のようだった。