夜中になって雪はますます激しくなったようだ。
暗くならない東京の夜に降り積んでいく雪の雪あかりで、外はコバルト色に発光しているようだった。
あの人と抱き合って暖をとった夜も、こんな色だった。
あのニセコの山頂の夜――。
万年筆を握りしめたまま将は、いつしか窓の外に思い出を投影していた。
もう25年以上も前のことなのに、昨日の出来事のように鮮やかにかつ詳細に思い出すことができる。
意図的に封印していた記憶が浮き上がってくるのを、将はもはや制御できなくなっていた。
いや、本当は。
聡の夢を……将はいまだに見てしまうのだ。
あれから25年経った今も、数日に1回はその夢を見る。
夢の中で、いつも将は17歳に戻っている。
そして教壇に立つ聡に見とれているか、もしくはオレンジ色に染まる放課後の教室で向かい合って補習を受けている。
そんな夢の中で将はすっかり安心している。
なんだ、聡が妊娠するのも。
聡が博史を選んで消えてしまうのも。
あの、つらくて長かったリハビリの日々も。
……みんな夢だったんだ。
俺たちは、これから幸せになるんだ。みんな、みんなこれからなんだ……。
しかし、オレンジ色の幸せな時間は、唐突に冷たい朝にくるりと変わる。
現実に戻ってきた将は、いつもいつも……落胆を覚えるのを禁じ得ない。
現実に不満なわけではない。
44歳という史上初の若さで総理大臣にのぼりつめたことは自分でも誇りに思うし、ヒージーの遺言通りの使命を1つ1つ果たしている充実感もある。
妻は聡明で明るい女だし、子供たちは可愛い。
なのに……理性で制御することのできない無意識の中で、将はまだ聡を忘れることができずにいたのだ。
その聡が。
余命宣告を受けている。
つまり、聡はまもなく、この世を去ろうとしている。
陽によれば、聡は2年前にガンで大手術を受けたという。
ガンはあちこちに転移していて……その手術で聡はすでに体内の一部を失っているという。
切除できるガンはすべて取り除いたが、血管に癒着していたりなど、取り除けないものもあった。
医師は、2年前の時点で、新しい治療法が出てこない限り、聡の余命はおそらく2年ほどだろうと宣告した。
……厳しい現実を淡々と説明する陽だったが、将には却ってそのつらさが伝わるようだった。
『先生は、それを知っているの?』
つまり、聡は自分の命の終焉がまもないことを知っているのか、将は陽に問いただす。
『はい。知っています。……だから、悔いがないように、私がお願いにあがりました』
陽は、取り乱すことなく、あいかわらずまっすぐに将を見据えていた。
『……先生が、僕に会いたいと言っているの?』
将は息苦しささえ覚えながら穏やかな口調をかろうじて保った。
そのとき将には、かすかな怒り――いや、怒りというよりむしろ冷めた視線があった。
――自分から離れておいて……何をいまさら。
突き詰めればそんな感情――わずかに存在する冷めた感情が、将を冷静に保たせていた。
『いいえ』
意外なことに陽は否定し……将は失望を覚える。
それで将は自分の中に、期待が膨らんでいたことを初めて自覚する。
『私が……総理に、母と会ってほしい、と勝手に希望しているんです』
陽はきっぱりとそう言い切ると『お願いします』と頭を下げた。
こんな風にきっぱりとした口調は……自分ゆずりなのだろうか。それとも単に外国育ちだからだろうか。
失望ゆえに、ややゆとりを取り戻した将は、陽の口調を分析さえしてみる。
『先生の容体は? 先生は入院していらっしゃるの?』
つまり、聡は危ない状態なのか。
将の質問に陽は再び首を横に振った。
『今は、まだ元気です。今は……まだ』
だけど、2年前に余命2年と宣告されている。
それを額面通り受け取るのなら、聡は明日死んでもおかしくないことになる。
将には陽がわざわざ頼み込んでまで、自分との対談に来た理由が痛いほどわかった。
心のどこかがかきむしられるように、痛い。
だが。その痛みを無理やりこらえて将は言い放った。
『……せっかくだが。先生と僕の間は25年前に終わっているんです』
その言葉の冷たさは十分わかっている。
『僕から離れたのは先生のほうです。先生も静かに残りの人生を楽しんでいるでしょうから……いまさら昔のことをほじくり返すようにして僕になど会わなくても』
『毎晩、母は泣いていました』
将の言葉を遮るように、割り込んだ陽の声に、将の声帯は張り付いたように止まる。
『原田の父と別れた頃、母は、卒業アルバムとこのベビーリングを握りしめては毎晩泣いていました』
博史と聡が別れた当時、幼い陽は、今まで可愛がってくれた博史となぜ別れないといけないのか、聡に問うた。
博史は陽にはよい父だったから。……それも、博史にはせいいっぱいの努力だったのだのだけど。
やっとできた自分と聡との間の子供が流れてしまい、無理をしていた博史の心は限界を迎えたのだ。
それでも、子供である陽にはその限界を見せなかったのが、せめてもの博史の良心だった……。
おとうさんと仲直りして、と何も知らない6歳の陽は、聡に詰め寄った。
そのときだった。
『ひなた。あなたのお父さんは、本当は違う人なの』
泣きはらした顔で聡は、娘に事実を告げた。
そして、それは自分にとって一生忘れることのできない、大事な人だと。
この世で自分の命より大事なのは陽。
そして同じくらい大切に思っているのは陽の本当の父親である人物だと、聡はまだ幼い娘に繰り返し言い聞かせたのだ。
『そのときに、このベビーリングを母からもらいました。その人物の名前を母が教えてくれたのは、大学生になって日本に帰国する直前ですけれど……』
そのあと、何と言って陽と別れたのか、はっきりと覚えていない。
おそらく、検討する、だか、連絡する、だかのあいまいな言葉を言ったような気がする。
それほど、将は動転していた。
心の秩序は、津波に襲われたかのようにぐちゃぐちゃになっていて……体面を保つだけでせいいっぱいだった。
いや、それもきちんとしていたかどうかわからない。
ここ十数年に渡って、冷静さを保っていた心が、あの人のことだけでここまで乱れるとは。
息苦しいまでに心乱れながらも……将は1つのことだけを思っている。
本当は、もっと考えるべき政策についての懸案事項がたくさんあるのに、それをすべて押しのけてしまったそれは。
――聡も……自分を忘れていなかった――
25年ぶりに明らかになった、その真実である。