第421話 最終章・また春が来る(29)

ロマーヌとの初対面を、聡はよく覚えている。

彼女は、その南国の海のような明るい水色の瞳で聡の顔をまっすぐに見つめた。

初対面の人間にしては、やや長めに見つめた後、にこやかにこう言ったのだ。

「アキラ……どこかでお会いしました?」

聡の方はもちろん初めてだったから

「いいえ。私はフランスに行ったことはないんですよ」

と答える。

「そうですよね。なんでそう思ったのかしら」

ロマーヌは軽く自問自答し、次の瞬間には陽に優しく微笑みかけた。

陽は少し恥ずかしそうに聡の後ろに隠れるようにして、様子をうかがっていたのだ。

「ロマーヌです。ロマでいいわ。よろしくね」

「ろま……」

聡の後ろに身を隠したまま、陽はロマーヌを盗み見た。

「あらあら、すいませんね。……幼稚園に通うようになってなぜか人見知りするようになってしまいまして。陽(ひなた)といいます」

聡がフォローする。

ロマーヌは陽の視線にあわせてしゃがみこむと、やさしく陽の名前を呼んだ。

どうやらやさしいお姉さんらしい、と陽はようやくロマーヌの前におずおずと進み出た。

その顔をみたロマーヌは「Ah!」と小さく声をたてると、聡を見上げた。

「ショウ」

懐かしい響き。

まったく無防備だった聡は、思わずビクッと体を震わせる。

こんな、青い瞳の異国の娘からその名前が出るなんて、予想もしていなかったから。

ひそかに心の中でおびえる聡に対して、ロマーヌは笑顔さえ浮かべながら立ちあがる。

「そうだわ。ショウ。思い出したわ……アキラさん、私、あなたを知っているわ」

聡より小柄なロマーヌなのに、威圧感を感じて聡はあとじさる。

どうして。

使い慣れている英語なのに、出てこない。

偶然に興奮したのか、ロマーヌは頬を紅潮させて嬉しげに説明する。

「前にショウにあなたの写真を見せてもらったの。私、ショウとは幼稚園が一緒で仲良しだったの」

知ってる――将がパリの幼稚園に行っていたことは。

だけどどうして自分の写真を?

疑問のそばから、記憶がはじける。

そうだ。

将が高3の5月だった。

将は写真集の仕事でパリに行っていたことがある。

そのときにロマーヌに会って自分の写真を見せたのだろうか。

聡の脳裏にはそのときの将との思い出が蘇っている。

あのとき、パリへと旅立つ将に聡は一方的に別れを通告した。

その後、ユーラシア大陸を超えた国際電話で、将は『一日も早く大人になる』と誓い、聡はいつまでも待っていると応えた……。

「Ah……本当にびっくりしたわ。ヒナタがいるってことは二人は結婚したのね。ショウはここにいるの? 会いたいわ。

ヒナタは本当にショウの小さいころにそっくりね」

ロマーヌは矢継ぎ早にしゃべっている。

フランス人にしてはきれいな英語だから、するすると耳に入ってくる。

それは聡に想像をさせた。

もしも仮に。

お互いにあのときの誓い通り、そのときが来るのをじっと待つことができたら。

いまごろ二人は……。

「……アキラさん?」

聡の様子にようやくロマーヌが気付く。

いつのまにか聡は陽に視線を向けたまま、ぼんやりしていたらしい。陽はそんな聡を心配そうに見上げている。

「おかあさん……」

陽の声にようやく、聡はハッとする。

ロマーヌは青い瞳を見開いて聡の言葉を待っていた。

やはり心配そうな表情だ。

「ごめんなさい、ロマーヌさん」

聡は笑顔をつくった。

なんて説明すればいいのか迷って……はっきりというのが一番だと結論付ける。

もう過去のことだと。

「……私、将とはずいぶん前に別れたの。夫は将ではない、別の人よ」

ロマーヌの視線が陽と聡と行き来する。

無理もない。将を――特に小さな頃の将を知っている人なら、10人中10人が、陽は将の子だと思うだろう。

大磯で見たアルバムの中の小さな将と、陽がよく似ていることは聡自身もよくわかっていた。

だけど……ロマーヌはやがてうなづくと

「早とちりしてごめんなさいね。アキラさん」

とまず謝った。そして

「そうよね。もう4年も前になるものね。私だってあの頃つきあっていた恋人とは別れてしまったんだったわ」

とおどけたように両手を広げて首をかしげてみせると、再びしゃがみこんで陽に微笑みかける。

「ヒナタちゃん。仲良くしてね」

……ロマーヌはすべてを悟ったうえで、フォローしてくれていることが、聡にはわかった。

優しいひとなのだ。

 
 

ロマーヌはボストンに留学している間の2年にわたって陽の面倒をみてくれた。

自己主張が強いとされるフランス人のロマーヌだが、聡とはとても気があった。

やがて、聡は日本語を、ロマーヌはフランス語をお互いに教え出すことになった。

幼い頃の将を知っているひと。

今から思えば、間接的にでも将とつながっていたかったのかもしれない、と聡は思い返す。

ロマーヌもそんな聡を知ってか知らずか――完全に将のことは思い出になっている風を聡が示したからか、ときおり将の昔話をした。

異国の女から聞く将の子供時代。

聡の中で大磯のアルバムの中の将が動き出し……それはいつしか17才に成長する。

その姿はしばしば聡の夢の中にも現れた。

教壇に立つ聡。将はその真下の席から、頬づえをついてじっと聡を見つめている。

あるいは夕陽の海辺。聡を後ろから抱き締める将。

『卒業するまで待って』

聡が将に乞うと、将はせつなげな瞳で聡を見つめるのだ。

――卒業するまで待てば、二人は、いつか幸せになれる。

――私たちは、まだまだこれからなんだから……。

夢の中でいつも、聡ははらはらしながらも、未来を信じていた。

何度夢見ても、夢の中では『今度こそ』と信じてしまう。

そしてくるりと引き戻される現実。

あきらかに日本とは違う、かわいた空気が聡を包んでいる。

そんなとき聡は博史に見られないように枕に涙を押し付けた……。

 
 

ロマーヌがフランスに戻る直前の5月。

聡に朗報が訪れる。

……やっと博史の子を身ごもったのだ。

ボストンにやってきてから5年の歳月が経っていた。