試験を終えた将がマンションに戻ると、部屋はすでにもぬけの殻になっていたのだった。
ご丁寧に電気も水道も止められている。将名義の通帳もパソコンもすべて持ち去られていた。
ただ、知らなかったのか忘れていたのかは分からないが、かろうじて駐車場にミニだけは置いてあった。
幸い、車のキーは部屋の鍵と同じホルダーに付けていたので、将はミニまで盗られてたまるか、と出てきたのだった。
「そこまでする……」
聡は言葉を失った。康三は本気で将を外国にやるつもりなのだろう。
冬の夕方に廊下で立ち話も何なので、聡は将を部屋に入れて、温かいコーヒーを淹れた。
将が誕生日にくれたマグカップを初めて使う。
「だからサ、しばらく泊めてよ」
将は困っているようだが、喜んでいるようにも見えた。
「誰かお友達はいないの?井口くんとかは?」
「引きこもりがいる家に居候は無理だろ」
他のクラスメートを聡は提案してみたが、皆期待できなさそうなのだった。
「そんなこと言っても……。……ねえ、将……じゃない、鷹枝くん」
聡はマグカップをろーテーブルの上に置いた。
「お父様は絶対外国に行かせるつもりでしょ」
「俺は絶対行かないよ。……絶対襲わないからさ。頼むっ!」
将は聡の前で手を合わせて拝んだ。
「しばらく泊まったとしても、そのあとどうするの?」
「どうって……」
将は下を向いた。一度決めたことを曲げない父のことを、一番知っているのは他でもない将なのだった。
「俺、いっそ家を出るよ」
「そんなこと……」
「家を出て、学校もやめて、アキラと暮らす」
将は顔を上げて聡の顔をまっすぐに見た。無謀なことを言っているとは思えない澄んだ瞳。
その瞳の中に、聡はどこか世界の果ての、小さな家で寄り添って暮らす、おとぎ話のような二人を一瞬夢想した。が、口にしたのは現実だ。
「そんなことできるわけないじゃない」
「できるよ。俺、聡と離れたくないんだ」
私だって、と聡は喉まで出掛かったのを飲み込む。
「アキラと一緒にいるためなら、何でもやれる」
将は腕を伸ばして、狭いテーブルの隣の辺にいる聡の肩に手を置くと、ぐい、と抱き寄せた。「アキラがいれば何もいらないんだ」
将は自分の心臓の音を聞かせるように聡の頭を胸に押し付けた。
その力強い腕とぬくもりに聡は一瞬、我を忘れそうになった。だけど……。
「……ダメ!」
聡は将の手を振りほどいた。
「そんな非現実的なこと、できるわけないでしょ」
何でこんな冷たいことを言えるのだろう。と聡は自分でも思った。
「それに……私、考えてた」
理性が聡の感情とはまったく反対のことを言わせる。
「私たち、もうこれ以上、進んだらいけないと思う……」
もちろん将の目を見ることはできない。聡は床の木目を見ながら一息に言う。
「だから、将が外国に行くのも、いいと思う……」
どうして大人は思ってもいないことを、自分が望んでもいないことを、やすやすと言えるのだろう。
言い終わって聡は、顔を上げた。そこには驚きと困惑と哀しみと怒りをいっしょくたに同居させたような将の顔があった。
「なんでだよ……」
将は目を歪ませた。その目は赤く充血している。
「あの週刊誌のことを気にしているの?」
聡は首を振った。
「違う。お互いの今後のために」
ひどく落ち着いた声は、より将を傷つけるだろう。なのに何故こんな声が出るのだろう。
「俺……アキラなしの今後なんて、考えられないよ」
「将……」
「アキラは俺のことを好きじゃないのか!」
聡は再び床の木目を見るしかない。将は聡の肩を再度つかむと揺さぶった。
「アキラ……、アキラ!」
握り合った手は、深い口づけは、口移しは、抱き合って眠った夜はいったい何だったのだ。
揺さぶられながら、聡は目を堅くつぶっていた。目を開けて将の姿を見たら最後、泣いてすがってしまうだろう。
気がつくと、将はがっくりと肩を落として立ち尽くしていた。
「将、遅くならないうちに帰って……」
「思ってもないことを言うな!」
将は叫ぶと、玄関ドアへ身を投げ出すように出て行った。
聡は追うこともできず、目を閉じて遠ざかる足音を聞くしかなかった。
その足音も消えてしまったとき
――終わった。
と力が抜けた。あまりにあっけない終わりだと思った。
視線を床から上げた聡はローテーブルの上にペアのマグカップを見た。
将がくれたカップ。聡は吸い寄せられるように飾り棚へ近寄った。
にじんだ将の字が記されたカードがそこにあった。
もう耐えられなかった。涙がぼろぼろとこぼれて床に落ちていった。
――将のことを考えれば、自分がとった行動は正しかったのだ。
とは、思うけれど。聡はベッドに倒れると、カードを抱きしめて、声をたてて泣いた。
夕陽が斜めに差し込む放課後の教室。狭いローバーミニの車内と大御所の歌。ずぶ濡れで笑いあったあの波打ち際。
きらめく都市高速と湾岸の遊歩道。カフェのソファー。……そして雪が花びらのように舞う夜の川とコンポの星を浮かべた暗い寝室。
将のいた風景が聡に押し寄せてくる。
将がいなければ振り返れない日々はどれも煌めいている。
忘れる日など永遠に来ない。聡は泣きながら確信していた。
……その夜から、将の姿が、消えた