ドアをあけるなり抱きしめられた聡は懐かしい博史の匂いに包まれた。森林を思わせるような香りに、思考が一瞬飛ぶ。
博史は、いったん聡を離すと、ドアを閉めてもう一度聡を抱いた。
しばらく聡をきつく抱きしめたあと、
「顔をよく見せて」
博史は聡の頬を両手ではさむようにして顔を近づけた。
お互いの視界がお互いの顔だけになるほどの距離まで近づく。もう少しで唇がふれあう、というときに、
「どうしたの……?明日じゃなかったの?」
と聡が訊いた。自分でもかすれてうわずった声だと思った。
「喜んでくれないの?」
聡の視界いっぱいに笑顔を浮かべて、博史はそのまま、聡の唇を吸った。
馴れた博史の口づけに、聡はされるがままに『なるしかなかった』。
そう。いつもどおりの深い口づけを交わしながら、聡は、完全に醒めている自分の心を自覚していた。
聡はからんでいた舌を手始めに、体をするりと離した。
「寒かったでしょ。コーヒーいれるね」
そんな理由もなんとか通用する寒さでよかった、と思う。
博史は、仕事が予定より早く終わったので、急遽有給休暇を取得して飛行機を1日早めてきたのだという。
そんな博史の話を聞きつつ、聡は微笑みをつくりながらコーヒーを淹れ、なお余る頭の余白で考えていた。
博史の顔を見れば、案外自分は博史にまた戻っていくのではないか、という予想は見事にはずれた。
やはり、スキンシップのせいなどではない。自分の心は完全に移動してしまったのだ。
博史の唇を受けながら、醒めた頭のどこかで思い浮かべていたのはやはり将だった。
――将は?将との約束は?
聡は思わず時計を見る。17時23分だ。
「聡の部屋に来るのはじめてなんだよね。結構センスいいね」
博史は、そんなことをいいながら、コーヒーを淹れる聡に気を利かせて、棚からペアのマグカップを出してローテーブルの上に並べた。
デキャンタにコーヒーをもってきた聡はそのカップに気付いた。
――将からのバースデイプレゼントのカップ。
1つはもちろん自分のものだ。もう1つを使う権利があるのは……。
でも、聡にそれを言い出せるはずはない。
聡は心で将に謝りながら、もう1つのカップにコーヒーを注ぐしかなかった。
「ところで……重要な話って何?」
聡は博史に訊いた。
博史は将のためのマグカップからたちのぼるコーヒーの湯気に顔をうずめながら、それに答えない。かわりに
「アキ、あの指輪をはめたところを見せて」
と言った。
聡は、一瞬どきっとしたが、飾り棚の下の引き出しからびろうどのケースを持ってきた。
博史はケースをあけた。室内なのにダイヤは明るく煌めいた。
博史は長い指でそのダイヤのリングを丁寧につまみだすと、もう片方の手で、聡の手をとった。聡の薬指に静かにダイヤ付きのプラチナの輪を通していく。
美しい輝きとはうらはらに薬指に約束の重みが課せられ、聡の心は枷をはめられたように苦しくなった。
聡は救いを求めるようにまた時計を見た。17時40分。約束の時間は過ぎている。
だけど……だけど、きっと彼は待っているだろう。
きらめくダイヤで豪華になった聡の手を博史は握った。
熱くて硬い博史の手に聡の手は包まれて、身動きがとれない。
「似合うよ。よかった」
博史は細い目を糸にして微笑んだ。
違う。欲しいのはその手ではない。
やはり将の顔が――アメリカに行ってしまうにしても――せめて一度だけでも見たい。
熱くて固い手から、聡は手を思い切って抜いた。博史は少し驚いた顔で聡の顔を見た。
「聡?」
「あ、あの」
聡は指輪を自分で薬指から引き抜きながら、下を向いて言う。
「実は、博史さんが帰ってくるの明日だと思い込んでいたから……。友達とパーティの約束を入れちゃったの」
博史は、ああ、とうなづきながら特に聡を疑う様子もない。
「あ、そう。そうだよね。今日はイブだもんな。それで出かける格好だったんだ」
聡は、疑わない博史に新たな罪悪感を感じて付け加える。今はまだ、婚約者だから。
「ごめんね。ちょっとだけ顔を出して戻るから」
「僕も一緒に顔だそうか?」
「う、ううん。すぐ、すぐに戻るから待ってて」
博史に見られないように、聡は手早くチケットとメモをバッグに入れる。
「じゃあ、僕も1回家に帰ろうかな」
博史の家は都下にある。
「そうして。あとで電話するから、待ち合わせよ……」
「そうだな。実はアキに今日付き合って欲しいところがあるんだ」
「……わかった」
聡はマグカップを流しへと持っていき、その足で、ストッキングを身につけるためにバスルームへ入る。
いったん脱いだコートを着ようとして博史は、飾り棚に奇妙なものを見つけた。
よれよれになったカードだ。『Happy Birthday』とある。にじんだ青いインクで書かれたメッセージは、カードを手にとるだけでたやすく読めた。
……博史は細い目を一瞬、見開いた。
「ごめんね。せっかくうちまで来てもらったのに」
声がして、バスルームからストッキングを身につけた聡が出てくるまえに、博史はカードを棚に戻した。
「いいよ。こっちも突然だったから」
カードの中身など見なかったように、博史はことさら優しい声を出す。
聡のコーポを出た二人は、タクシーが拾える通りまで久しぶりに並んで歩いた。
博史は、聡の腰にさりげなく手をまわした。
8月までは嬉しかった動作なのに、今の聡はとまどった。それを隠すように
「寒いね。今夜はホワイトクリスマスかな」
とたわいもないことを口にする。
たしかにいっそう厚くなった雲は、雪雲のようだ。透明感のないグレイはいっそう寒そうだ。
「そうだね」
博史は聡の耳元で小さく同意した。
ちょうど通りに出たので、博史は手を高くあげてタクシーを呼んだ。たまたま流しのタクシーがすぐ捕まった。
「先に乗りなよ」
博史は、聡にタクシーをゆずった。
「すぐ、戻るから」
聡は罪悪感からシートから博史を見上げて言う。博史はうなづくと、
「……今夜は一緒に過ごせるんだろ」
と聡の瞳を見つめて確認した。だまってうなづいた聡が、目をそらすのを博史は見てしまった。
聡のタクシーが発車してすぐ、博史はすぐ後ろに来たタクシーに乗り込んだ。
「前のタクシーを追ってください」
運転手に頼むと、博史はシートに深く沈みこんだ。