第127話 しばしの離別(2)

「学校には絶対に行ってね……」

懐かしい聡の声はそこで途切れてしまった。電波のせいだろうか。

「アキラ、オレ、待ってるから」

それが聡に届いたかどうかはわからない。

聡との電話が途切れて、将のいる駐車場は再び、濃い灰色の静けさに包まれた。

聡無しであと5日もやりすごさねばならない。

将は、腹の奥底から突き上げて身を震わせるような、寂寥感に耐えた。

この感じ。昔に経験している。

思い出して将はハッとした。

母との死別。

まだ7歳だった将は、それがもはやどんな気持ちだったか、具体的に思い出すことはできない。

だけど腹の底からつきあげてくるような悲しさは、体が感覚として覚えている。

それは、長いこと断続的に将を襲ったものだ。

母の死に顔。出棺。火葬場で見送った煙。そういった直接的なものに触発された悲しさとは違う。

それは、大磯でヒージーと一緒に行った釣りの帰りに見た夕陽の中や、

友達と川で遊んで一人で帰るんぼのあぜ道の真ん中、

秋の夜中にふと起きて虫の声に包まれているのを感じたときだったり……。

将は、気を取り直そうと、助手席に置いた弁当を取った。

何で、そんなのを今、思い出すんだ。聡とは週末にちゃんと会えるのに。

死んでしまった母とは違うのだ。

将は感覚を頭で追い払おうとした。

それにしても。

何でこんなことになったんだろう。

将は、今回のことを秘書官の毛利のしわざだと確信していた。

だけど、何で?

親元を離れてから、こと、将がらみの手続きに関わることが多い毛利だが、今まで将のプライベートに関して介入してくることはなかった。

乱行を逐一知ってはいるだろう、というのは将はわかっていた。

だけど、瑞樹と同棲しようと、免許を偽造しようと、車を勝手に購入しようと、それを阻止したことはない。

毛利には、例えば将のヤクザ殺しのように、仮に問題が起きても、それをもみ消す才覚があるから、将のやることにいちいち口出しをしないのだ。

大嫌いな毛利だが、そのへんは……奇妙な言い方だが……将は信頼していた、といってもいい。

なのに、なぜ聡とは引き離し工作をするのだろう。

将は戦闘的な気分でアジフライを噛み砕いた。

どこかで、答えがわかっている気がする。ヒントは、たぶん手にしていると思う。

続いて、レンコンのはさみ揚げを頬張りながら考えるが、わからない。今は。

――ちくしょう!

そのとき、将は、レンコンの陰にウズラの卵のフライが隠れていたことに気付いた。

本当はこの弁当にそんなフライは入らない。ウズラの卵好きの将のために、主人がサービスしてくれたのだ。

それを見つけて、将の心は、少し柔らかくなった。

柔らかくなった心は、自動的に聡を映し出した。聡の泣き顔。

聡が電話の向こうで泣いていたのは、はっきりとわかった。

聡に逢えなくて自分もつらいけど、電話もロクに届かない山奥に閉じ込められた聡はもっとつらいのだろう。

将は、自分のこと以上に胸が痛む気がした。

他人のつらさが、自分に迫る。頭で理解するのではなく……。

こんなことは生まれて初めてだ。

 
 

将に逢える週末までの時間について、果てしなく長く感じていた聡だが、感傷に浸る暇もない忙しさが、その週を埋めることになるのをまだ気付いていなかった。

まず、将との電話が切れてすぐ、タクシーの運転手からデパートが遠いことを聞かされた。

急遽予定を変更して、スーパーで食料だけ買って、山に戻る。

運転手には翌日午後に山まで迎えに来てもらうように頼んでおく。

タクシーが敷地から出て行って、すぐに警備会社の社員が工事にやってきた。

だが、連絡に使うのは電話回線なので、それがまだつながってないのなら警備会社への自動連絡システムはできない、と言われ聡は愕然とした。

仕方なく、自動連絡なしでもいいから、警報装置を付けてくれと頼み、セ○ムの社員は翌日出直すことになった。

社員たちが帰ってしまうと、聡はまた山の中に独り、取り残された。

冬の日は2月になってやや長くなったとはいえ、早くも夕暮れの兆しである。

独りぼっちになると、木々を渡っていく風の音だけでも恐ろしい。

――オーディオを買おう。どうせ英語でも使うんだし。

聡は、前向きに考えると『必要なものメモ』にそれを書き込んだ。

ちなみに3万以下のものは、領収書があれば事後報告でよいといわれている。

それに買い物をしてきたから今日はカップ麺でなくまともなものが食べれるんだし。

聡は気持ちを明るく持って、早めではあるけれど、夕食の準備を始めた。

 
 

ケモノの声が怖くて、あいかわらずカラスの行水で風呂に入ってしまうと、やることがなくなった。

カリキュラム作成の仕事があるが、もちろん今からやる気になるはずもない。

聡は寒さから逃れるために布団にくるまると、もう一度携帯のメールを見た。

さっき受信した、将からのメールを1つ1つ噛み締めるように読む。

すべてに聡を心配し、連絡を待っている将がいた。

聡はそんな将を今すぐ抱きしめたくなる。将のぬくもりが恋しくてせつなくなる。

そんな中。

受信箱を占める将からのメールの中に1通だけ。

……博史からのメールが混じっていた。

それを見つけて聡の体は緊張した。

さっきはざっと見ただけなので気付かなかったのだ。

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こないだ、母を見舞いにいってくれたんだってね。

母がとても喜んでいました。

ありがとう。

ようやくカタールでの引継ぎにケリをつけて帰ってこれました。

2月からしばらく本社勤務になります。

週末にでも一度会って話がしたい。

  博史

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聡は忘れていた苦しみが再び重く胸にのしかかるのを感じた。

博史のことよりも、その母のこと……、

余命1年ない病人に新たなる悲しみと絶望を与えることになるかもしれない……そのことである。

独りで山の中にいる恐ろしさも忘れて、聡はうなだれた。

そして。博史。はっきりと結婚できないと伝えたけれど、彼はまだ承服していないようだ。

このメールに返事をするべきだろうか。

――どうしよう。どうしよう。こわい……こわい、将。

思わず、聡は将に救いを求める。だけどすぐに、そんな莫迦な自分に気付いた。

莫迦だと思うけれど。聡はフォトフォルダの将を再び開ける。

まるで、キリスト教徒のクロスのように、仏教との数珠のように。

今の聡の救いである将を象徴し凝縮した携帯の画像に聡はすがる。

 
 

結局、博史には、返信をしないことにした。

『無視』という形をとる自分を卑怯だとは思う。だけど何を返事すればいいのだろう。

相手が望む返事ができないことだけは、わかっている。

だから……何もしない。

 

火曜日朝、ノートパソコンが届く。新品なので、その立ち上げにマニュアルとくびっぴきで苦労する。

しばらくは携帯に接続してネットが使えるようにしなくてはならないが(それも麓でしか使えないのだが)それをするための部品もない。

そうこうしているうちに、昨日いったん帰ったセ○ムの社員がやってきて、監視カメラや警報装置の取り付け工事が始まる。

午後は、昨日頼んでおいたタクシーで、車を見に行く。

一刻も早く車は必要だったので、中古屋につくなり聡は

「諸経費込みで100万以下の車を下さい!」

と叫ぶように言った。だが、人のよさそうな中古屋は

『これは車検が○年までついてますが』

『取り回しだったら』

『燃費だったら』

果ては『ナビはつけますか?』

『ナビはハードディスクとDVDがありますが』

『イオンコーティングもできますが』

などとあれこれいちいち聡に訊いてくる。

とにかく車がないと困る聡には、全部どうでもよかったが、何とか全てに判定を下した。

ちなみに自分で車を買うのが初めてな聡は、どんな書類が必要かわからなかったので、社判から通帳から登記書コピーまで、全部の書類を持ってきていた。

それが幸いしたところもあるのだが、ふと『これって重要書類だよね』と気付いて、納車前に中古屋が手配してくれたレンタカーを運転して文房具店に行き、金庫を買う。

それまでで、陽は傾いていた。夕食はつくるのが面倒になったので、ファミレスで済ます。しかし聡はそれを思い切り後悔することになる。

すっかり陽が落ちた帰り道は真っ暗で、車でも恐ろしい山道が連続していた。こと、未舗装道路と来たら、暗闇の中ガタガタと揺れる。

ときおり、大きな石に乗り上げるのか、揺れ方が一定ではないのが恐ろしい。

運転に不慣れなこともあり、聡は前にネズミ系テーマパークで乗ったアトラクションを思い出す羽目になった。

レンタカーがナビ付でよかった、もしこんな真っ暗な山道で迷ったら。車の中で夜明かしすることを考えるとぞっとした。

やっと学校の敷地に着いたときは、どっと気疲れした。

寮でそんな聡を迎えたのは、盛大な電子音だった。

規定の時間を過ぎて車が敷地内に入ったので、センサーが反応して、電子音が鳴り出したのだ。

あわててそれを止めようとするが、まだ新しいのでやり方がわからない。

耳障りな電子音が鳴り続ける中、マニュアルを読み、どうにかそれを止めたときには、心底ぐったりした。