第138話 罪と罰(1)

博史の車に乗る聡を偶然見てしまった将は、一瞬、聡を疑った。

だが、すぐに博史に余命1年の母がいるといって、罪悪感に震えていた聡を思い出した。

おそらく、聡が博史の車に乗りこんだのは、その母の見舞いに行くために違いない。

そう分かっているのに、将の心はざわめいていた。

落ち着かない自分の心を無理に納得させて、将は井口との待ち合わせ場所に戻った。

 
 

結局将が、聡のコーポのチャイムを鳴らしたのは夜11時近くだった。

あのあと井口と少し遊んで、一緒に夕食を食って、マンションに来てもらった。

大悟もその頃には帰ってきていて、3人で少し酒を飲んだ。

そのせいか、遅くはなったものの、聡のコーポに来るまでに毛利の邪魔が入ることはなかった……。

ちなみに冬にしては強く降っていた雨は、夕方には止んでいた。

しかしそのかわりに、急激で厳しい冷え込みが襲ってきて、ドアの前に立つ将は白い息を吐きながら震えた。

 

少し間があいて、聡がドアをあけた。

細く開いたドアから見える聡の様子はかなり変だった。陰気な顔をして沈んでいる。

腫れあがった瞼は、泣きはらしたんだろうか。

「……お茶、飲む?」

それでもパジャマ姿の聡は将を部屋にあげると、マグカップをテーブルに置いた。

天井の明かりはつけず、スタンドのあかりだけにしてあった。

寝ていたのだろうか、と将は聡のようすを推し量りながらテーブルのわきに座る。

「うん……」

逢ったらすぐに抱きしめようと思っていたのに出鼻をくじかれた格好の将だ。

「ごめんね、おそくなって」

と到着が遅くなったことを、まずは謝る。

「ううん……」

聡は、ヤカンに水を入れながら、将のほうを見ないで答えている。

「見舞い……、どうだった?」

将はキッチンで湯をわかす聡に尋ねた。

「うん……」

レンジに向かう聡は聞こえているのか聞こえていないのかわからないような、あいまいなようすである。

心ここにあらず、といった感じだ。

「博史のおふくろさん、容態悪かったの?」

焦れた将は……ついに、自分からそれを言った。

自分は何もかもわかってるから……、という自己アピールと、

万が一博史との仲が仮にまだ続いているなら、という牽制の意味がある。

それを聞いた聡は、振り返ると腫れた瞼の目で将を見つめた。

将はその悲しそうな視線にとまどう。

「いや、アキラ、まえに博史のおふくろさんが、余命1年っていってただろ。だから今日の見舞いもそうかな、と思ったんだ……」

聡の瞳から思わず涙がこぼれる。まだ午後の傷は乾いていない。

人を傷つけた自覚によって、自分が深く、かつ複雑に傷ついている聡である。

ささいな刺激で、傷口からの血さながらに、涙がにじみでてくる。

「アキラ」

将は立ち上がると、涙をこぼす聡を抱き寄せた。聡も将の体に腕を巻きつけてくる。

声こそ出さないが、ときどきすすり上げる音が聞こえる。

『牽制』なんて気分は吹き飛んで、将は聡の髪の毛を優しくときほぐすようになでる。

「……将」

聡は優しい将にすべてを吐露したくなる。

今日、雨に打たれてびしょぬれになりながらも、心からは決して流れ去らない自己嫌悪。

余命短い優しいひとを傷つけてしまったこと。

形見のエメラルド……。

だけど。

それを、当事者の将に言ってしまえば。

聞き様によっては「将と出会わなければよかった」というふうに聞こえてしまうかもしれない。

『出会わなければよかった』?

聡は将の腕の中で目を見開いた。将と出会わなければ、すべてはうまくいっていたのだろうか……。

誰を傷つけることなく……。

聡は、自分の中に芽生えた考えに、ぞくっとする。

心の声は必死で『違う、違う』と叫ぶ。

だけど、一度芽生えた考えは、菌糸のように聡の思考にじわじわと根を生やしていく。

『将と出会わなければ、はやく結婚したいという博史の申し出だって嬉しかったはずだ。博史を、薫を傷つけることになったのは、将のせいだ』

否。

聡は将にからませた腕に力をこめる。

将が悪いわけではない。将を好きになったのは、他でもない聡自身なのだ。

将は、しがみつく聡の腕の力が強まったのを感じて、聡の顔を自分のほうに向けた。

そのまま唇をあわせる。

最初聡の舌は、とまどっていたようだったが、そのうち意を決したように将のそれにからみついてきた。

ヤカンが沸いてシュンシュンと音を立てはじめた。

しかしそれをよそに二人は、口づけと抱擁を続ける。

将は、聡と舌をからませたまま手を伸ばして、ガスをとめる。

そしてそのまま、少しずつベッドのほうへ移動を試みた。聡は将に体重を預けて、抵抗する様子はない。

将は、ベッドのそばまでくると、聡をベッドに押し倒した。

「将」

押し倒された聡は、目を開けて、上にのしかかる将を見上げた。

せつなく光る目に、口元はわずかに微笑むよう。

複雑な表情を一瞬だけ見せて、すぐに髪の毛しか見えなくなる……将は聡の首筋に唇を這わせてきたのだ。

右手はパジャマ越しに聡の胸をまさぐり始めている。

「……イヤ。やめて、将」

聡の声をとめるように、将は聡の口を自らの口でふさぐ。

「きのうの、つづき」

しばらくして唇を離した将は、聡にそう呟いて笑顔をつくると、再び……こんどはパジャマの裾から聡の素肌に手をはわせる。

「いや……。お願い、やめて将」

将はやめない。

本気で抵抗する聡は体をよじらせる。それを無理やり仰向けのまま固定しようとする将。

将は、再び聡の首筋に唇をはわせながら、掌はパジャマの下の肌をじかにとらえた。

「やめて!」

聡は将の手から身を守るように体を丸めると、乱暴に将から背をむけた。

「アキラ……?」

さすがに乱暴に抵抗しすぎた。おそるおそる将を振り返ると、彼は聡を呆然と見つめていた。

聡は付け足しのように、だけど極力優しく将に言い訳する。

「ごめん。今日はダメ……。そんな気分になれないの」

将の困惑した顔に、だんだん怒りが混じり始める。

「ごめん……」

聡は体を起こすと、将に手を延ばした。

将は、怒りを隠すように俯くと、ベッドから降りて立ち上がった。

「オレ、帰ったほうがいい?」

言葉は拗ねているけれど。後姿はひどく寂しげだった。

存在を全否定されたかのような、悲哀。

――ちがう、将を拒絶したんじゃない……。

「将……」

聡は将の背中に、すがるように呼びかけると、ベッドから降りて、将を後ろから抱きしめた。

「ごめん……帰らないで。将」

しかし将は後ろを向いたままだ。聡は将の背中にすがりついたままさらに嘆願した。

「帰らないで。お願い……」

将は後ろを向いたまま呟いた。

「今日、オレ、見てたんだ」

その広い背中は少し震えているようだ。

「アキラが博史の車に乗るのを……」

そこで将は、聡の腕をほどいて、振り返ると聡に向き合う。

「オレ、一瞬聡を疑った。だけど、博史のおふくろの話を聞いてたから、疑わないようにしたんだ」

寂しげな将の瞳。スタンドの灯りを受けてそれはトパーズのような色に反射している。

「将……」

「オレ、アキラを信じたい。だけど……、こんなふうに拒否られると、すっげー……」

将は『すっげー』のあとを続けられなかった。

文字通り、言い表せないほどの哀しみや寂しさ、せつなさだったのだ。

聡を直視していた将のトパーズの瞳が、降りてきた睫によってだんだん隠されていく。

将は目を伏せたまま、ついに聡から瞳をそらした。

「将」

聡は将の胸に倒れこむように飛び込んだ。

「ごめんね……」

温かい胸に語りかける。

「今日は、いろいろありすぎて……」

将の胸からは鼓動が聡にかすかに伝わっている。

「でも、信じて。私が好きなのは、将一人、だから」

鼓動をさらに確かめるように、聡は頬を将の胸に押し当てた。

「どんな罰でも受ける……。将のためなら……」

思いがけないところで聡の口から出た『罰』という言葉に将は思わず胸にすがる聡を見下ろした。

『罰』を受ける。ということは。彼女は『罪』を犯したことになる。

将のために犯す罪……。

そのインモラルでドラマチックな響きに無意識に聡を抱きしめる。

ちょうど顔をあげた聡と目があった。

聡の瞳にまた涙が溜まっている。

涙を溜めた瞳の上にある瞼がうす赤く腫れているように、唇もいつもよりぼってりとして濃いばら色になっている。

「泣き虫だな」

つぶやいた将は、少しため息をついた。やはり聡は、いとしい。

将がため息をついたのと同じタイミングで聡が洟をすすった。

二人は同時にゆっくりと微笑うと、互いに吸い寄せられるように唇を重ねた。

 
 

将と聡は久しぶりに、ベッドの上で静かに抱き合って眠った。

聡の転勤前は、ギプス足のせいで仰向けで手をつなぐしか許されなかったが、半ギプスの今はこうやってお互いの体に腕をまわして、抱き合うことができる。

本当は将は、聡のすべてがほしかったけど、これでもいいと思うことにした。

ときどき聡は、将にさらに強くしがみつくようにしてきた。まるで発作のように激しく。

将は、聡がそうするたびに、優しく髪を撫でておでこに口づけをした。

いったい、博史の母の見舞いで、どんな傷を受けたのだろうか。

将は、それを詳しく訊こうかとも思ったけど、なぜか訊けなかった。

さっき聡の口からこぼれた『罰』という言葉。罰というからには罪があるはず。

すべてそれがキーワードなのだと思う。

将は聡の髪を、背中を、優しく撫でて続けてやることにした。聡が寝息を立てるまで……。

それが聡の傷を少しでも軽くするなら……。

 

寝付いたのが遅い二人が、まだベッドの上で寝息をたてている朝の時間。

玄関のチャイムがけたたましく鳴った。

ピンポーン、ピンポーン、ピンポン、ピポン……、と何度となく間隔を考えずに連続して押しているらしい。

最初の1回で二人とも目が覚めていたが、そのただごとならぬほどせわしない連続チャイムに、聡はカーディガンを羽織ってあわてて玄関に出た。

将は、目をこすりながら自分の携帯を開いて、時刻を見る。9時前だった。

チェーンをはずすのももどかしく、ドアをあける。

そこには、博史が立っていた。

聡は博史が突然ここに来たことにも驚いたが、その様子にも思わず目を見開く。

髪はボサボサ、充血した目は憔悴しきったようで、あきらかに異様だった。

「どうしたの、博史さん……」

聡が言い終わるかどうかというところで

バシッ

という鋭い音がして、聡は玄関に倒れこんだ。

将は、その音に思わずベッドから立ち上がった。

倒れた聡は赤く腫れた頬を押さえて、博史を見上げる。

将が何か言おうとする前に、博史が聡を睨みつけたまま低い声を出した。

「おふくろが危篤だ」