第137話 形見

博史がドアの向こうに消えると、薫はあらためて聡にゆっくりと微笑みかけた。

「聡さん、ちょっと悪いけど、そこの引き出しをあけてもらえるかしら」

薫は枕の下から鍵を取り出すと、聡の掌の中にそっと置いた。鍵付きの、貴重品用の引き出しである。

聡は立ち上がると言うとおりにした。

引き出しの中には、深緑色のびろうどに覆われた古風なリングケースらしきものが入っていた。

「その緑色のケースを出して」

聡はそのケースをそっと取り出しながら、薫が何をしたいのかが、おおよそわかってしまい……困惑した。

「聡さん、お誕生日はいつ?」

薫はそういいながら聡の手からリングケースを受け取ると、大事そうにそっと開けた。

「11月……21日です」

「そう。じゃあ誕生石はトパーズね」

とニッコリ笑って聡を見上げた。

「ぜんぜん誕生石とは関係ないんだけど……それにデザインもちょっと古いんだけど」

薫の手の中にあるリングケースの中には、緑色の石に彩られた指輪があった。

それは雨で暗い窓辺にあっても、明るく澄んだ緑色にきらりと光った。

両脇に小さなダイヤが寄り添う豪華なものだった。

「エメラルドよ。これはね、私が博史を産んだときに、お姑さんからいただいたの」

薫はケースの中の指輪をいとおしそうに見つめながら、温かい声で語る。

大事な古い宝物を取り出して慈しむような……おそらく薫には大切な思い出なのだろう。そんな語り方だ。

「お姑さんの、形見、みたいなものかしら……」

形見、という言葉に聡は、思わず薫の顔から目をそらす。

「それでね。私も博史がお嫁さんをもらう時が来たら、その人にあげるんだ、って決めてたの」

薫は突っ立ったままの聡のほうを見上げると、

「聡さん、これもらってくれるわよね」

と微笑んだ。

聡は、ごくりと唾を飲み込んだ。

薫は、それが彼女自身の形見になってしまう日が来るのが、遠くないことを知っているのだろうか……。

「さあ、聡さん」

そうとも知らず、薫はケースを開けたまま、指輪を聡に手渡す。

緑色の石は、ピカッと光って、それは正義のように聡を射抜いた。

足が震え出す。

人を騙すということは……こんなに苦しいことだったのだ。

現実の音はまったく聞こえなくなったくせに、世界中が聡を責める声がこだまのように頭に響いている。

目をぎゅっとつむった。

「聡さん?」

様子がおかしい聡に薫が、声をかけた。

聡はかろうじて、ケースを閉じて薫の手に押し付けるように返した。

「いただけません……」

「そんな、遠慮しないで」

聡のようすを遠慮と思い込んだ薫は、優しくケースを聡の手に戻そうとした。

「私が、もらってほしいのよ」

薫が、ベッドから少し乗り出すようにして、聡の瞳をのぞきこんだ。

細い目の奥から、聡を見つめる澄んだ瞳。

――もう、これ以上はダメ。この人を騙せない……。

薫の瞳から注入された温かさが、聡の瞳に涙をあふれさせていく。

うつむいた聡の瞳から、涙が床へとたて続けに落ちて行った。

「いただけ……ないんです……。わたし、博史さんと……結婚しない……んです」

聡は、ついに真実を口にしてしまった。

この、余命短い、優しいひとを傷つけるであろう真実を。

驚いた薫は細い目を見開いて、そんな聡を見つめた。

リングケースは薫のベッドの上で、今だかつて、こんなふうな置かれ方はしなかっただろう角度で無造作に転がっていた。

聡は一瞬、それを告げたことを後悔したが、もう遅い。

婚約者を裏切った責め。

そして自分がつらい、というだけでこの優しいひとを傷つける事実を告げてしまった責め。

2つの責めが聡の心をつらぬいていく。

「ごめんなさいっ……!」

聡は顔を覆うと、その場にしゃがみこんだ。

薫は、しばらく見開いていた目をしばたくと、

「本当に?」

と訊いた。聡は涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげると、うなづいた。

「博史が……、あなたに、何かいけないことをしたの?」

薫は心配そうに聡を見た。

そんな顔をみて聡はさらに激しい罪悪感にさいなまされて新たなる涙が湧き出てきた。

この期におよんで、薫はまだ聡のほうを心配しているのだ。

「違いますっ……博史さんは悪くありません……。わたしが……、わたしがいけないんです」

そう。何もかも聡が悪いのだ。

博史と結婚を約束していながら、他の男を好きになるのを止められなかった。

博史には何も落ち度はない。

聡は再び、顔を手で覆った。

「そう……」

薫はしゃがんで泣きじゃくる聡から目をあげると、リクライニングになったベッドに寄りかかる。

小さくため息をつくと、目を静かに閉じた。

聡は涙のとめ方もわからないまま、立ち上がった。

「本当に……すいません……でした」

寄りかかる薫に、頭を深く下げる。頭を下げたことによってまた新しい涙がぽたぽたと床に落ちる。

薫は目をあけると、ベッドの上に転がったリングケースを手に取った。そして

「いつから……だめになっていたの?」

と聡に問い掛けた。問い詰めるような口調ではない。

リングケースに話し掛けているような静かな口調だ。

聡は答えられなくて、黙り込んだ。また涙が頬を伝う。

「クリスマスにはじめてお会いしたときには、もう……?」

薫はリングケースから顔をあげて、聡の瞳をのぞきこんだ。

その顔は、怒っておらず、むしろ聡を憐れむような顔だ。

聡はうつむくしかなかった。涙がいっそう激しく湧いてくる。

しかし薫は、聡の涙に答えを見つけたようで、

「そう……、そうなの……」

と呟いて、雨にけぶる窓の外を見つめた。

 
 

聡は病院の非常階段を駆け下りていた。涙はまだ止まらない。

『そんな顔で博史に会ったら、大変だわ』

と薫がベッドから身を乗り出すようにして非常階段のありかを教えてくれたのだ。

待合室で暇をつぶしているであろう博史と顔をあわさないように。

非常灯が暗く灯る踊り場で、聡は手すりに寄りかかってすすり泣いた。

あんな、ひどいことを告げたのに、聡に気を遣ってくれるひとなのだ。

薫は最後に言った。

「さようなら聡さん。いろいろと……ごめんなさいね」

薫も博史も、謝ることなんて、ないのだ。

悪いのはすべて、心変わりをした自分なのだ。

聡は足をひきずるようにして、非常階段を降りきった。

土曜日とあり、1階の受付にはかなりの人がいた。

すれ違う人も、ベンチに座る人も、涙でぐちゃぐちゃになった聡の顔を、好奇の目で、もしくは気の毒そうな目でチラリと見る。

ふらふらと玄関にでた聡は、タクシーの扉が自分をめがけて開くのを無視して、降りしきる雨の中に傘も差さずに踊り出た。

傘立てに差した傘のことなど忘れている。

雨は、聡の顔の上の涙を流そうとしたが、あとからあとから湧き出てくるそれと交じり合うのがせいいっぱいだった。