第136話 見舞い

翌土曜日は2月にしては珍しく、雨が降った。

その気圧の低さゆえか、昨日の酒が残ってしまったのか、目覚めた聡は起き上がるのも大儀なほどのだるさに包まれているのを感じた。

時計を見ると、もう11時近い。

今朝未明、いったん目覚めてしまった聡だが、体に残る悪質なアルコールに邪魔されて、寝付けなくなってしまった。

だけど本などを読むには頭がズキズキと痛すぎる。

つぶせない時間が頭痛と共に悶々と横たわる。

無理やり頭痛薬を飲んで祈るように目をつぶった。

――早く、効いて、早く……。

そんなこんなで、気が付くとこの時間だった。

聡は粘りつくようなだるさを引き剥がすようにベッドから起きると青いカーテンを開ける。

空は、だるさを増幅するようなグレー、雨でけぶるようないつもの景色に聡はうんざりした。

何も考えたくないような頭痛はあいかわらずだ。

食欲はないが、食べて頭痛薬を飲まないと、と常備していたゼリーを流し込む。

酔い覚ましにシャワーでも浴びようか、と考えつつも、動かないままの聡を促すように携帯が鳴った。

博史だった。思わず聡は身構える。

「今日、何時ごろ見舞いに来る?」

すぐに用件に入るのは、もう聡に恋人としての役割は一切、期待してないということなのだろうか。

「午後にしようと思ってるんだけど」

「1時ごろ迎えにいこうか」

この天気を気遣っての提案なのだろう。

そこで聡は、ここに来るといっていた将を思い出す。

迎えに来た博史を偶然見てしまう、ということもあるかもしれない。

無駄な疑惑を呼ぶような行為は避けたい。

「うん……。でも駅まででいい」

「そう。わかった。じゃあ駅に1時半はどう?」

博史はあっけなく聡の望むとおりの約束をすると、無駄話をせずにすぐに電話を切った。

身構えていた聡はなんだか拍子抜けするような気がした。

 
 

将は、寝室で横たわったまま、雨音を聞いていた。そして考える。

どうやって、毛利に気取られずに聡の家に行くかを。

おそらく……聡が東京にいるとなれば、毛利本人ではないにしても、誰かが常に見張っているに違いない。

といっても通りから一本入った静かなあたりにある聡のコーポを常に見張るのは難しい。

不審者扱いされて通報される恐れがあるからだ。警察の巡回も多い。

以上のことから、おそらく見張るとしたら将のほうである、と将は結論を出した。

大悟は今朝も朝早くから仕事に出たらしい。

早朝に物音と瑞樹との話し声がしていたのを将はうとうとと聞いた。

今は……部屋中がしんとしている。瑞樹もどこかにでかけたらしい。

将は寝返りを打った。この部屋で、聡と抱き合って眠った夜を思い出す。

将は、あのときと違って柔らかな聡の素肌を脳裏に再現することもできるのだ。

それを思い出した将は狂おしいほどの思慕が体中を駆け巡るのを感じた。

 
 

昼頃、将は雨を押して出かけた。タクシーでだが、当然つけられていると考えている。

それぐらいのことは毛利にはなんでもないことだろう。

若者が集まる街で井口と待ち合わせをしている。

そうやって油断させておいて、夕方か夜、聡を訪ねるつもりだった。

雨で、かつ半ギプスになったとはいえ不自由な足を引きずってでも、聡に逢うためだったらいくらでも策を講じる。変装したっていいぐらいに考えていた。

将は挑戦的な気分で、待ち合わせの最寄り駅でタクシーを降りた。

まだ、井口との待ち合わせには早かったらしい。

将は、駅の中にあるカフェに入って暇をつぶすことにした。

腹も減っている。サンドイッチを食べ終わると、聡に遅くなりそうだ、とメールを打つ。

と、窓の外に無意識に惹かれた。

チューリップの花束を持った、やや背の高い女が、茶色のセミロングをなびかせて通り過ぎるところだった。

ほっそりとした長い手足に似合わず、前をあけたコートとマフラーの下で張り出した豊かな胸が歩く振動で震えている。

地味な色の服なのに、女らしく優しげなオーラに包まれているようだった。

――聡に似てる。もろタイプだ。

と焦点をあわせる。……それは聡本人だった。

「アキラっ」

将は、反射的に立ち上がった。ガラスの向こうの聡は、こっちに気付かないらしい。

聡はちょうど改札から降りてきたらしく、駅の出口に向かって歩いている。

――そういえば、今日、知人の見舞いに行くって言ってたな。

将はびっくりさせてやろうと、ステッキを付きながら後を追った。

なんだったら、このままデートしてもいい。

聡は、追いかけている将にあいかわらず気付かない。

屋根が終わって外に出るところで、いったん空を見上げると傘を差そうとした。

アキラ、と呼びかけようとして将は息を飲んだ。

傘を差そうとした聡に、一人の男が走ってきて傘を差しかけたのだ。

博史だった。

そのまま、博史が差した傘に、聡を入れると小走りに歩道を渡り、車へ走っていく。

博史は助手席のドアを開けて濡れないように傘を差しながら、聡を車の中に乗せると、自分も傘を持って車の後ろをまわって運転席に座った。

そしてまもなく車は走り去った。

将は呆然としてそれを見ていた。

 
 

「ひどい天気だね」

博史はワイパーが忙しく動くフロントガラスを見ながら、聡に話し掛けた。

「そうね……」

薬が効いて聡の頭痛はようやく止んでいた。だけどダルさはあいかわらずだ。

今までと変わらない博史の雰囲気に、聡は、別れをまだ伝えてなかったかのような錯覚に陥る。

「その後、お母様はどうなの?」

「検査の結果、再検査になってね。結果待ちで少なくとも来週までは病院だよ」

「そう……」

聡は雨粒が貼り付いた窓の外に目をやった。

今度はこっちの罪悪感が胸にこみあげてくる。

重い鉛のようなものを必死で胃が逆流させようとしているかのような息苦しさ。

そして吐き気。聡は思わず、この苦しみの期限を計ってしまう。

……博史は、冷却期間を置きたいといった。それはいつまでなのだろう。

つまり聡はいつまで、博史の母親・薫の前で婚約者の演技をする必要があるのだろうか。

博史は、いつか薫に、聡との別れを説明してくれるのだろうか。

それとも薫が……亡くなるまで演技を続けるのだろうか。

亡くなる、死ぬ。

聡はそんなことを思った自分にぞくっとした。

同時に自分の身勝手さにますます吐き気がするようだった。

「顔色が悪い」

博史は前方から目を離さずに言った。

「そうなの? 検査……心配ね」

こちらを見透かされたような気がして、聡は心配そうな声を出すことに、そしてそれがわざとらしくならないように努めた。

「聡が、だよ」

博史は、こっちを一瞬向いて微笑んだ。勘違いだったことを指摘された聡は下をむくと、

「天気のせいよ」

と呟く。まさか二日酔いだとはいえない。

車は病院の地下の駐車場に入っていった。

 
 

「聡さん、待ってたのよ! まあ、きれいなチューリップ」

ベッドの上から薫は、元気な声を出した。上半身を起こしている。だがその顔色はそれほどよい、とはいえない。

「博史に聞いてびっくりしたわ。山梨に転勤ですって?」

薫はベッドの上で、その細い目を見開くようにして聡を見た。

「え、ええ」

「女性一人で心細いでしょう」

薫はベッドの脇の椅子を勧めながら、たたみかけるように話し掛けてくる。

聡は、根掘り葉掘り訊いてくる薫の質問に、

でも空気はいいですよ、とか、

雪はあまり降らないみたいです、とか、

月曜から用務員のご夫婦が来るんで安心です、

などそれぞれに丁寧に答えるしかない。

……だけど、息苦しい。

博史はといえば、立ったままにこにこと聡と母の薫を見守っている。

聡は、演技を続けるしかない。それは、失敗を許されないドラマなのだ。

「あの、チューリップ、いけてきましょうか」

聡はこの場を一瞬でも退場したくて、親切心を装う。

しかし、薫は、

「ううん、聡さんとお話がしたいわ」

と離してくれない。

博史が

「花瓶に差すだけだったら俺がやっとくよ」

と花瓶と花束を持って立ち上がった。その博史に薫は

「ついでにちょっと聡さんと秘密の話があるから席をはずしてちょうだい」

と意味ありげに言った。その顔は、温かい笑顔だ。

聡は笑顔を保ちながらもなんだか胸騒ぎがして、薫の顔を盗み見た。

「何?おふくろ。何の話?」

博史も笑顔のまま、いぶかる。

「ふふ。ナイショ。いいことよ……。ね、聡さん」

薫は楽しげに、いたずらっぽい顔で聡のほうを向いた。

わけがわからない聡はあいまいに笑顔を作り続けるしかなかった。