第203話 アドリブ(1)

8時きっかりに武藤からのモーニングコールが鳴った。

いつもなら起きている時間なのに、昨日の疲れ……こと精神的疲労が大きい……からかぐっすり寝込んでいた将は、

「ハイ……今起きました」

と返事をして電話を切ると、また倒れこんだ。

それを見越してか、20分後にもう一度鳴った。

「将!二度寝したでしょう!」

電話の向こうで武藤が怒鳴る。

「ほぇ……おきてましたよぉ。おきましたってばー」

見透かされた将は、携帯を握り締めたまま、欠伸をすると、そのまま大きく伸びをした。

頭が半分眠っているせいか幸い、巌の全身麻痺のことなどは思い出さずに済んでいる将だが、なんとなく気乗りがしない。

学校だったら、何があっても頑張って毎朝起きるのだが……。聡がいるから。

ボリボリと腹をかきながら、大悟の部屋をのぞいた。

昨日、結局、将が起きている時間に大悟は帰ってこなかったのだ。

「いねえじゃん……なんだよ」

大悟は今朝はどっかに泊まってきたようだ。それとも夜勤か?

瑞樹がまだいたころ、時給がいいからと、大悟はよく夜勤に行っていた。

立ち直って夜勤に行ったのならそれはそれでいい。

あまり時間のない将は、深く考えないようにして、シャワーを浴びて支度をした。

9時に下に降りると、すでに武藤が車で迎えに来ていた。

「おはよう。朝ごはん食べてないでしょ。食べなさい」

と紙袋を後部座席の将に投げるように渡して、運転に戻る。

ラップに包まれたサンドイッチが入っていた。

「武藤さんの手作り?」

「そうよ。嫌だったら食べなくていいわよ。かわりにコンビニに寄るから」

「食べます、食べます。超うまそー」

それはトーストしたパンに焼いたベーコン、レタス、キュウリ、卵などが入っている具沢山で、まだ作りたてらしく、いかにも旨そうだった。

「調子いいわね。もう」

といいながらもバックミラーに映るクールな顔はちょっと嬉しそうだった。

「今日は、10時30分に局入り。わかってると思うけど、局で会う人には、皆愛想よくね。

まあ、アナタは初対面の人には礼儀が正しいみたいだからそこは心配してないけど……。そして台本(ほん)読み、それと衣装あわせ」

武藤は行き先から顔をそらさずに今日の予定を暗誦する。

「ホント、これ旨いよ。わぁ♪バナナサンドもある♪」

「ちょっと、聞いてるー?」

「わかってるって。ところでさ、なんで10時半局入りなのに、こんなに早く出かけてんの?まだ1時間あるじゃん」

将は、デザート代わりにバナナサンドをぱくつきながら訊いた。

はちみつとチョコレートスプレッドの甘さが朝にはいい。コーヒーもポットに淹れてある気の利きようだ。

「もちろん、昨日のおさらいを事務所でしていくに決まってるでしょ」

「ゲロゲロ」

将はバナナサンドを取り落としそうになった。

「ベテラン俳優さんと顔をあわせるんだから当然でしょ。今日は主演の奄美ユリも来るんだからしっかりしないとね」

「まじ!奄美ユリ!『魔女の教室』の!」

『ばくせん』同様、高視聴率を叩き出した人気ドラマである。

「そうよ。だから昨日みたいに笑い出したりしないようにね!」

「わー、緊張してきた。どうしようオレ」

といいつつ、リラックスしている将を、武藤はわかっていた。

武藤が用意したサンドイッチを全部平らげたところからもそれは明快だ。

「ところで将」

武藤は信号待ちを選んで意味深に振り返った。

「オフレコだけど、奄美さん、ロックシンガーの彼ともめてるらしいわ。すっごく機嫌が悪いかもしれない。多少イジられるかもしれないけど、我慢するのよ」

「えー、何だよ、イジられるって」

シートに寄りかかっていた将は、思わず身を起こした。

「大丈夫よ。あなただったら、たぶん。あ、このことは誰にも話しちゃだめよ。話したら出所はアナタだって丸わかりだからね」

それだけ言うと、武藤は車を発進させた。

 
 

「おはようございます」

――これが芸能界特有の『おはようございます』か。

と将は感心しながら、武藤のあとについて自らも「おはようございます」と頭を下げた。

それにしても……皆が、自分に注目している気がする。気のせいだろうか。

「おはよう!将くん!」

将をゴリ押ししたプロデューサーが、ひときわ大きな声をかけて、にこにこ歩いてきた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

武藤がぺこぺこと頭を下げる。

「いや、期待してますからね」

とPは将の肩をぽんと叩くと、台本よみの部屋に案内した。

窓のない部屋に細長い会議机が、口の字型にくっつけてあった。

まだ、誰も出演者は来ていないらしく、そこに座る者はいない。

「将くんは、ゲストだからここ。座ってていいよ」

とADに言われ、将はおずおずと席に座った。もっと端がいいのに、なぜか真ん中だった。

武藤とPはどこかに行ってしまい、将はやることもないので、台本を取り出して眺めていた。

そのとき、遠くの方から波が押し寄せてくるように『おはようございます』の声が次々に重なった。廊下のほうだった。

将は何事かと入り口を見た。

そこには、ちょうどジーンズ姿で眼鏡をかけた奄美ユリが入ってきたところだった。付き人を一人だけ従えている。

皆が、ぺこぺこと挨拶をする。将も思わず立ち上がった。

テレビで見るより、ユリがずっと小さいのに将は驚いた。

だけどほとんど無化粧、髪を1つにまとめているラフな姿なのに、後光が射すかのようなオーラが立ち込めている。

ユリは眼鏡の中から『あら』という顔で将を見た。

「こんにちは。このたびはお世話になります。将といいます」

将は、ユリに頭を下げた。

「あら……優ちゃんじゃないの?今日のゲスト」

ユリは、将の挨拶に返事もしないで、スタッフに訊いた。

スタッフは

「いや、それが……」

とユリに耳打ちした。

「ふーん。残念。あたし、優ちゃんを焼肉に連れてってあげる約束してたのになあ」

とユリは将にも聞こえるように言った。

どうやら、ユリは将の前に、この役をやることになっていた宮沢優と知り合いだったようだ。

「それに、ずいぶんおっきいコね。身長いくつ?」

とユリは横目で将を見上げた。

「185です」

将は、どういう顔をしていいのかわからなかったが、とりあえず、訊かれたことには素直に答えた。

「ヤダァ。優ちゃんより12センチも高いじゃなーい。やりにくぅい」

思わず将がムッとしそうになったそのとき、やっとPが飛んできた。

「ユリちゃーん、ごめんねー」

「ちょっと□□さん、聞いてなぁい」

一生懸命Pが奄美ユリの機嫌を取っているのを見て、将はあっけに取られた。

武藤が寄ってきて囁く。

「さっそくやられた?」

「ハァ」

「我慢するのよ」

武藤はファイト、と拳をつくって後ろに下がっていった。

「ハァ」

将はただ呆然としていた。奄美ユリといえば、視聴率女王といわれる人気女優である。

性格もさっぱりとして爽やかとされているが……今日、将がまのあたりにしている奄美ユリはまるでそんな世評とは別人のようだ。

「ねえ、将くん」

将は思わず椅子に座ったまま、のけぞりそうになった。

いつのまにか隣の席にユリが座っていたからだ。どうやら主役は将の隣のようだ。

さっきスタッフやPと話していたのより1オクターブも低い声、おまけにぶっきらぼうな話し方だ。

「あんた、いくつ?」

「18です」

「なーんだ、未成年かー。もっと年いってんのかと思った。……ハッキリいって老けてるね」

勝手なことをいいながら、ユリは、煙草を取り出すとカルチェのライターで火をつける。

――う。

禁煙している将は思わず、咳き込みそうになるのをこらえる。

――健康派というのもウソかぁ。

にしては。紫煙の奥の肌は、36歳にしてはツヤツヤで、聡とそれほど変わりがないように見えたほどだ。

「ユリちゃーん、禁煙だよう」

Pがまるで幼稚園児に語りかけるような声で注意する。

「待ち時間だけ。いいでしょ~。どーせ後ろに空気清浄機あるでしょ」

甘い声でねだられて、禁煙はうやむやになる。

「いままで、どんなドラマに出てるのー?」

紫煙を将の顔に吹きかけながらも、ユリはさっきとは打って変わって、低い声ながら親切そうに訊いて来た。

「初めてです」

「へえ!初めて。Dプロ期待の新人ってわけね、ヒュー」

と、一見褒め言葉をかけながら、茶化しているのは一目瞭然だ。

「色、土人みたく黒いね。表情出にくいんじゃないかなあ。あ、サーファーとか?」

「いえ」

「ふーん、そう。ま、なんにせよ、美白したほうがいいね。お肌はキレイだけど黒光りしてるんじゃない」

ユリは一人でふふふんと笑った。

「ハァ」

……と将は無難に相槌を打ったが、土人のように黒い、などと人から言われたのは初めてだ。

そりゃ、昨年は連日、海辺に夕陽を見に行っていたから、多少浅黒くはあるが、それも一冬越したせいで褪めている。

バカにされてるのか、親切なのかよくわからない。

しかし、将はそんな態度よりむしろ、煙草の煙のほうにうんざりしていた。

 
 

まもなく出演者が揃って台本(ほん)よみが始まった。

最初に、脚本の訂正事項が読み上げられる。

将の役名変更もそのときにみんなに宣言された。

「みなさーん。今回のゲストの役名が、尾崎優から尾崎将に変わりましたから、書き直してください」

ちなみに出演者が全員ここにいるわけでなく、スケジュールがあわない何人かは代役になっている。

その代役にはADや製作会社の人が座っている。ユリの恋人役も今日は代役だ。

それでも。台本よみが始まって将は驚いた。

動作は入らないものの、声だけですでにドラマさながらの演技なのである。

代役の人も、慣れているのか、役にはまりきっている。

将はだんだん動悸がしてきた。いよいよ将の番だ。

『あなたの弁護を担当する大岡政子です。よろしくね』

隣のユリもさっきの嫌味女からはまるで違う女に変貌していた。

声も、低いながらも、さっきのぶっきらぼうな調子とは全然違う。

知的で親身な女弁護士が隣に座っているようだった。

その雰囲気に引っ張られて、思わず将も

「弁護なんか、必要ないし」

ごく自然にセリフを口にすることができた。

だが、その後、ドラマの内容が内容だけに、ユリと将のシーンが多いのだが、

『私は、あなたが殺したとは思えないの。ねえ優くん』

『優くん、本当のことを言って』

とことごとく、将の名前のところを間違える。

「あちゃー、まーた間違えちゃった」

とユリはそのつど舌を出す。3回目に間違えたときは

「だって、急に変わったからぁ。……ねえ」

と流し目で将に同意を求めてきた。

――ねえ、と言われても。

将は「ハァ」と答えるしかない。

だけど、これもどこかで見た、年配のベテラン俳優が

「ユリちゃんにしては珍しいねえ」

と突っ込みを入れたので、ユリの顔から甘えた笑顔が消えた。そして小さく

「わざとやってるにきまってるじゃん」

と呟いた。それは隣にいる将だけに聞こえる大きさの声だった。

将は思わず目だけを動かしてユリの方を見た。

するとちょうどユリも将を横目でちらりと見たところで、二人の目があってしまった。

それで、将はわかった。

もともとこの役を演じる予定だった宮沢優は、ユリの単なる知り合いだけではなく、たぶん相当なお気に入りだったのだろう。

その役を将が横から奪い取ったことに、ユリは腹を立てて、嫌がらせにずっとセリフを間違え続けているのだ。

――そんなことをしても、どうしようもないのに。

将は、なんだか脱力しそうになった。

ユリはフンと勝ち誇ったように鼻で笑うと、さらにセリフを続けた。

『優くん、教えて。どうしてアリバイを証明しなかったの』

『将です、大岡さん。……そんなの俺の勝手だろ』

将が挿入したアドリブがあまりにもナチュラルだったので、すぐに気付いたのはペンでセリフを追っていた脚本家とP、ユリ本人、それと壁際で見学していた武藤だけだった。

ユリは驚いて、将の顔を振り返った。眼鏡越しの目が大きくカッと見開いて将を睨みつけた。

その剣幕に将は威圧されるような気がした。

鳥肌が立ちそうになるほど恐ろしかったが、将は勇気を出して、ユリをまっすぐに見返すと、口の端に笑顔をつくってみた。

すると……ユリは固く見開いていた目を、ふっと柔らかく細めた。

そして顎をクイとあげると艶然と微笑んだ。

続いて「やるじゃん」、と小さく囁くのが聞こえた。