第360話 卒業(2)

卒業式は概ね、つつがなく終了した。

卒業証書の入った筒を持った卒業生も、また送り出す側の在校生も、お互いに名残惜しいのか、なかなか帰ろうとはしない。

天気がいいのもあり、皆学校や門をバックに写真を撮りあったり、寄せ書きを書きあったり、果ては抱き合って泣いたり。

春霞に若干その青を薄めながらも、空はそんな彼らに温かな陽射しを降り注いでいる。

涙で崩れた化粧を直し、遅れて表に出た聡は、その視界に無意識に将を探す。

テレビカメラのおかげで将は簡単に見つかった。

どうやらレポーターから繰り出されるインタビューに笑顔で答えているらしい。

仲のいい井口やカイト、ユータなどもテレビカメラに向かってアピールしまくっている。

前期試験の前は悪かった顔色が、今日はすっかり治って輝くようだ。

ドラマの撮影のために、最低限の睡眠を確保しているからだろうか。

毎日交わすメールによれば、前期がだめだったときのために、後期の勉強は続けているらしいけれど。

よく見ると、将のブレザーのボタンというボタンは、袖口まで全部なくなってしまっている。

どうやら後輩に全部とられてしまったらしい。

 
 

いつもは厳しい顔つきの屈強教師たちも、今日は相好を崩して、生徒たちに囲まれ、写真をとられている。

もっとも、ここ1年の間に、彼らが竹刀を持つことはかなり減ってきた。

学校全体で、生徒たちの将来や夢をバックアップし、それに即したことを学習させる方向になった結果……生徒たちは自主的にどんどんよくなっていったのだ。

この春からは、聡に代わって、女性の教師が何人か入るとも聞いた。

皆、社会人経験者ばかり、生徒たちに具体的な未来像を教えてあげることができる能力を持った人ばかりだという。

「アキラ先生のおかげですよ」

ふいに多美先生が後ろから話し掛けてきた。

「ウチの学校は……力と金で生徒を抑えるだけでした」

力は屈強教師と竹刀。金はポイント制によるキャッシュバックのことだろう。

「いってみれば野獣を社会に野放しにしないよう……一定時間、檻に入れておくようなつもりで、教育にあたっていました。……ですが」

多美先生は遠い目で……それでも、皺に縁取られた柔らかい瞳で、生徒たちと教師たちを眺めながら続けた。

「アキラ先生が、『学校のあとに待っている社会』、というのを教えてくれたおかげで……生徒たちも我々もずいぶん変わりました」

「そんな」

聡は恐縮した。聡はただ……必死だっただけだ。

赴任してきた当時に、将や兵藤から投げられた「勉強って何のためにするのか」という疑問。

それに答えるべく、思えば無茶なこともやったと思う。

「ありがとう。アキラ先生。そしてご苦労様。……幸せになってください」

多美先生は右手を差し出して、微笑んだ。

聡は胸がいっぱいになって、差し出された手を握り返す。

「あー、アキラ先生!」

女子生徒がめざとく聡を見つけて走り寄ってくる。

聡はあっという間に女子生徒に囲まれてしまった。

「センセぇ、センセぇ……、うちらのこと絶対忘れないでね」

「丈夫な赤ちゃん産んで」

チャミやカリナ、そして由紀子たちのひたむきな目を見ているうちに、聡はまた胸がいっぱいになってきてしまった。

……さっき、卒業式の最中も、感極まった聡は、思わず涙をこぼしてしまったのだが。

 
 

「みな子……、みな子。ときどきは東京に遊びに来てよね」

仲がよかったすみれが、泣きながら寄りかかってくる。

みな子は、関西でそこそこ有名な大学のひとつに合格していた。

東京を離れて、大阪に住むことは、みな子の中で動かせない未来となって横たわっている。

うん、うん、とすみれに頷きながらも……みな子は、涙をこぼすことはなかった。

少し離れたところでは、聡を囲んで、クラスの女子が泣いていた。

気がついてみれば、女子で泣いていないのは、みな子ぐらいなものだった。

すみれの向こうの視界に、生徒たちに囲まれて自らも涙をこぼす聡を意識しながら、みな子はぼんやりと思い出していた。

あのバレンタイン前の金曜日の夜。みな子は、父母から隠れるように、ベッドにもぐりこんで泣き明かしたのだ。

一番悲しい涙は、あの日……将と訣別した日に……流し尽くしてしまったのだ。

悲しみのあとには、ただただ乾いた虚しさだけが残ったはずなのに。

みな子はこんなときでも……知らず、将の姿を追ってしまう。

 
 

やっとレポーターから解放された将は、聡の姿を探した。

幅の広い瑠璃色のリボンをつけた聡を見つけた将は、女生徒に囲まれてまた泣いているらしい聡に思わず口元をゆるめる。

さっき。卒業式のさなか。

マスコミを意識しているせいか、いつもより長い式辞を述べる校長に、生徒たちは早くも退屈してもじもじし始めていた。

その中に混じった将は……ときおり、目の端で聡の姿を追っていた。

妊娠8ヶ月のお腹をうまく瑠璃色の袴で覆い、同色のリボンを髪に飾った聡は、将から見ても可愛らしかった。

しかし体育館の端、教師たちの列に座っている聡は、生徒を送り出す担任教師としての態度にふさわしく凛として背筋を伸ばしていた。

この式が終われば。

卒業証書をもらえば。

二人は先生と生徒の呪縛から解き放たれる。

――長かった。

退屈な式辞をやりすごす将は、聡と自分の……学校での日々を思い返してみる。

どの思い出も、まるで昨日のように鮮やかなまま、取り出すことが出来る。

思い出に浸る将は、この先も……二人の思い出は積み重なっていくものと固く信じている。

 
 

式は進み、いよいよ卒業証書の授与となった。

壇上で校長から直接授与されるのは各クラス代表1名のみであるが、おのおの担任教師に氏名を呼ばれ起立し、代表の授与を見守る。

まずは1組。そして聡のクラスである2組の番がやってきた。

聡はマイクの前に立つと壇上の校長と、生徒ら保護者らに一礼をした。

礼をするたびに、藤色の着物の袂と瑠璃色のリボンが揺れる……将は、息をするのも忘れて可憐な聡の姿を見入った。

他の教師らは、聡が名簿を手にしていないことに気付いて、少し顔を見合わせた。

しかし聡は、まっすぐに生徒らのほうを向くと、心持息を吸い込み、

「阿部豊くん」

と出席番号1番から名前を呼び始めた。

「ハイ!」

緊張した面持ちで立ち上がる阿部豊を、聡は優しいまなざしで見つめる。

「井口春樹くん」

「ハイ」

将は前のほうで立ち上がる井口の後姿に目をあげる。

井口は、中学の卒業式を欠席している。

そんな井口が、こうやって素直に名前を呼ばれて立ち上がるのは……将にとっても意外だった。

3年の間に、金髪だった髪は黒くなり、顔面中にあったピアスは、今は耳に残すのみとなっている。

そんな井口を、聡も温かい微笑みで見守る。井口は照れて少し下を向いたらしい。

聡は名簿もなしに、生徒一人一人のフルネームを……読むのではなく、呼びかけた。

そしてそのつど、一人一人の瞳に微笑みかけるようにして見つめた。

きっと、教え子の顔をこうやって記憶しているのだ。

やがて、生徒の名前を……一人一人に呼びかけるうちに、だんだん瞬きの回数が増えていくようだった。

おそらく涙をこらえているのだろう。将にはわかった。

最初で最後になる教え子たちの名前を呼びながら、聡はこみあげてくる万感の思いを堪えているのだ。

将は思わず、拳を握り締めた。

許されるのなら、傍で支えたい。

――がんばれ。がんばれ、アキラ。

そんな風に聡を見守っているのは、将だけではなかった。

聡の凛とした声が、こらえる涙でゆがみつつあるのを、生徒たちはみんなわかっていた。

それでも聡は涙を落とすまいと我慢しながら、生徒たちの名前を一人一人呼ぶ。

いよいよ将の番が来る。

「……鷹枝 将くん」

「はい」

将は立ち上がった。

聡と目が合った将は、とうとう聡の目から、耐えられずに涙がこぼれるのを見てしまった。

「がんばれ」

駆け寄ることができない分、将は声に出さないで唇でつぶやいた。

スワトウのハンカチで涙をぬぐいながら、聡がうなづいた気がした。

 
 

生徒たちは皆、めいめいに聡とのツーショット写真を撮影し、別れを惜しんでいた。

高性能のカメラを持ち込んだ松岡が、カメラマンを買って出ている。

「先生、このあと、ダンナさんについて外国に行っちゃうんですよね」

ツーショットを撮影した後、兵藤が名残惜しそうに口にする。

丸刈りから角刈りになった兵藤も……であった頃より少しがっしりして、大人の職人になりつつあることがわかる。

聡はといえば、声を出さずにただ頷くしかない。

「いつまで、とかわからないですよね」

生徒達を騙している心の痛みが、ズキリと来るが……頷くしかない。

真実を知ったら、この子達はどう思うのだろう。

聡は自分を取り巻く教え子達の顔を見回した。

ひょっとしたらこの子達のかけがえのない時間を、思い出を、汚してしまうのかもしれない……。

教え子との愛に密かに酔い、子供まで作ってしまった罪の重さに聡はおののく。

そんな聡の内心を知る由もなく、兵藤はひたむきな眼と共に続けた。

「僕、いつか店を出したら、先生を招待していいですか」

いつのまにか近くにいた井口がヒューッと口笛を鳴らす。

「……もちろん、飛行機のチケットも同封します。あ、もちろんダンナさんの分も」

「それ、すっげー出費くない?」

茶々を入れる井口に「キャッシュバックを使うよ」と兵藤は返す。

無遅刻無欠席、赤点もない兵藤は、月末に満額のキャッシュバックが振り込まれることが決まっているのだ。

「兵藤くん……」

聡が新たな涙を流しそうになったとき。

「俺もー!」

と兵藤の肩を抱くようにして割って入ったのは将だった。

「俺も、俺もケンちゃんのスシ食いたい。招待してよ」

将は兵藤に抱きつくようにしてふざけた。

兵藤はそれをかわすと、わざとらしくむっとした顔をつくる。

「鷹枝くんは、売れっ子俳優なんだから、自腹で来てよ」

「チェー」と一瞬ふくれっつらになった将は、すぐに兵藤と顔を見合わせて笑った。

「修行、がんばれよ」

「鷹枝くんこそ。ガッツリ有名人になって、うちの広告塔になってよ」

そこへ

「鷹枝くん、先生とのツーショット、撮影してあげるよ」

松岡がカメラをかざした。

思わず、将と聡は目をあわせる。

二人のことは、もちろんみんな知らないはずだ。正確に言えば、2年のとき以来、別れたと思っているはずだ。

単に、先生とその教え子の記念写真として言われているにすぎない。

そうわかっているのに、聡の、まだ乾ききれていない濡れた睫は、おびえたように少し震えた。

将は目で『大丈夫』と聡に語りかけながら

「じゃ、アキラセンセ……」

ぎこちなく誘う。

そしてもう一度聡の袴姿を、下から上まで眺めて……眩しげに目を細めた。

「いいですかあ……。はい、1たす1はぁ?」

何も知らない松岡がおどけて音頭を取る。

カシャッ。

デジカメ内臓の、つくりもののシャッター音が、青い空に響いた。

やや緊張した面持ちの笑顔でおさまった二人の写真。

ボタンが全部とれたブレザー姿の将と、袴姿にややうるんだ瞳の聡。

……これが、二人で撮影した生涯最後の写真になるとは……まだ将も聡も知らない。