体がだるい。どうやら本格的に風邪をひいてしまったらしい……。
激しい悪寒と頭痛に襲われた大悟は、ハケンを予定時間より1時間早くあげてもらい、帰途についていた。
この分だと、予約を入れていた夜のハケンも無理だろう。
最近、ようやく手に入れた携帯で、派遣会社に病欠の連絡をする。
日頃真面目な大悟なので、派遣会社も大悟の体調を心底気遣ってくれているようだった。
「本当に、すいません……」
大悟は電話を切る前にもう一度謝った。
明日は幸い、仕事をいれていなかった。
瑞樹と二人でどこかに遊びにいければ、と思っていたが、体を休めるより他ないだろう。
ふらふらになりながら、大悟はやっとマンションに戻ってきた。
将も瑞樹もいないらしいので鍵を開けて入る。
さっきハケン先で薬を飲んだせいなのか、喉がひどく渇く……水を求めて大悟はキッチンへよろよろと進む。
コップに注いだ水を一気に飲んだ大悟はキッチンのカウンターに目がとまった。
メモと一緒にピンク色のリボンがかけられた包みが乗っている。
隠す様子もなく、それは置いてあった。
>>>
将へ
いつも、ありがとう。
これは感謝の気持ちです。
ミズキ
>>>
おそらく、チョコレートらしきその包みは、市販品でなく、自分で包んだらしい。
ということは中身も、手作りか。
激しい頭痛を抱えた大悟は、それ以上考えることもできず、ソファにごろりと倒れるように寝転んだ。
その10分後、将が帰宅した。
「ただいまー。……あれ、大悟どうしたの?」
ステッキをついた将は、ソファに寝転ぶ大悟を見つけて近寄った。
「……ああ。ちょっと風邪ひいたみたいでサ。……おまえ、ずいぶんもらったんだな」
大悟は将が持っているチョコが入った紙袋に目をとめた。
チョコのうち1つが入っていた小さな手提げの紙袋に、他のを無理やり突っ込んだので、それは無様に膨れていた。
「いくつもらったんだ」
「7つ、いや8つかな。どうせ遊びだろ」
と将は白い歯を出して笑った。その顔は、大悟から見ても、つくづくいい男だった。
「大悟、ちゃんと薬飲んだのか?」
「ハケン先でもらった……。そこにも1つあるぞ」
「え?」
大悟が指差した先には、例の瑞樹からのチョコがあった。
「お前、どうせ明日はいないと思って、今日置いといたんだろ」
大悟が平然としているので、将は安心して、
「サンキュ。瑞樹にそういっといて」
といいながら、瑞樹のチョコをいちおう寝室へ持っていくと、かわりに着替えを持ってバスルームに入る。
「出かけんのか?」
「ああ。今日、アキラが帰ってくるんでお出迎え。たぶん泊まるから」
「そうか……」
複雑な表情で自分を見ている大悟に、聡のことで頭がいっぱいの将はまるで気付かなかった。
駅に差し掛かったみな子の額に、ビルの隙間からオレンジの光が一筋差した。
もう放課後も遅い。
すみれに付き合ったみな子はすっかり下校が遅くなってしまった。
もう、こんなふうに夕陽が差すなんて。1ヶ月前は暗かった時間だ。
まだ風は冷たいけど、確実に季節は春に向かっていることをみな子は感じていた。
だけど……心は寒い。
その原因は、カバンの中にまだ入っている。……結局、渡しそびれたチョコレート。
ちなみに、授業のほうは、結局今日の6時間目までボイコット状態が続き、ずっと視聴覚室での自習が続いた。
将は、休憩時間や昼休みに、たびたび呼び出され、チョコレートを渡されていた。
中には、わざわざ将にチョコを渡すために登校した上級生もいたようだ。
みな子が数えていたところによると、たぶん7個はもらったはずだ。
他の女生徒の積極さに、すっかり出鼻をくじかれた格好のみな子である。
すみれのほうは、放課後待ち伏せて、なんとか先輩にチョコを渡すことができた。
しかも、渡しただけでなく、先輩にそのままデートに誘われた。
感激のあまり涙をこぼしそうになったすみれは本当に幸福そうだった。
みな子は先輩と二人で夕陽の中に遠ざかるすみれを寂しく見送って今、駅へとやってきたのだ。
将と初めて出逢った時を思わせるような夕陽の色に、みな子は、チョコレートが入ったカバンをそっと抱きかかえた。
ため息をついて改札に差し掛かったときだ。
ステッキをついた背の高い男がみな子の前方を通り過ぎた。
みな子は息が止まりそうになった。——それは、まさに将だった。
ただでさえ長身なうえに、カラージーンズに、皮のジャケット、ニット帽に薄いサングラスまでも身につけた将は、制服を着ているときと別人の、まるっきり大人だった。
クラスの誰が見てもわからないに違いない。
みな子だから……将を好きなみな子だからわかったのだ。
みな子は、将の姿を目で追う。
高校生に見えない将は、みな子にまるで気付かないまま、改札を通った。
チョコレートを渡すチャンス到来……のはずなのに。声をかけるべきなのに、みな子は何故か、将のあとをこっそりと追っていた。
将は、山の手線に乗り換えた。
乗り換えながら、右手で携帯を取り出して、メールを操作しているようだ。いまのところ、後をつけているみな子にはまるで気付かないようだ。
みな子は、直感で『女に逢うんだ。しかも本命の』と確信していた。
将の本命の恋人を見て、どうするのだ、とも思う。しかし、好奇心なのか、怖いもの見たさなのか、どうしてもみな子はそれを見てみたいと思う。
将が愛するのは……どんな女なんだろう。
高校生離れした、大人っぽい将は、やはり大人の女と付き合っているのだろうか。
山の手線からは、家々の中に今夕陽が沈むところが見えている。夕陽は、通勤帰りの人もそろそろ混じりだした車内をピンク色に照らし出した。
新宿駅で将は降りた。ここで乗降する客は多い。
みな子は、行き交う人波に将を見失わないように、あわてた。
しかし、ステッキをついているうえに、将が人より頭1つ分背が高いことが幸いして、みな子はなんとか将を見失わずに済んだ。
広い改札のうちの1つの前で将は止まる。柱に寄りかかるようにして誰かを待っているようだった。
いつのまにかサングラスをはずしている。
波のように人が襲来するたびに、改札を注意深く見渡しているようだ。
みな子は、将から少し離れた別の柱から将のようすを見守った。
また、列車が着いたようで、人が一斉に改札になだれこんでくる。
と、みな子がいる近くの改札を、見たことのある女が通った。
――古城先生?
2週間前まで担任だった、聡だ。
早いうちから放課後の補習にも参加していたみな子は聡を見間違うはずがない。
大好きな、英語担当の元担任に、みな子は足を踏みだして声をかけようとした。
「センセ……」
次の瞬間、みな子は凍った。
聡は、小走りに将のほうへ駆け寄っていったのだ。
将のほうも、ステッキをつくのももどかしく、聡のほうへ早足で近寄ると、手を伸ばして聡を抱きしめる。
傍目には、『ハグ』のように見えた……しかし、みな子には見えていた。
聡を抱き寄せる寸前の将が浮かべた、せつない表情が。
みな子は、柱の陰で思わず、かばんを落とした。