第193話 禍々しい形見(3)

電話から聡の声が聞こえなくなると、部屋は再び湿った雨音に包まれる。

将は、ソファーにごろりと寝転んで暗い天井を仰いだ。

昨日のワークアウトの残滓か、体がだるい。わずかだが体を動かす度に筋肉痛もある。

大悟を探す、と聡に返事はしたものの……電話もつながらない状況だ。

小山にいる瑞樹の祖母から大悟に連絡があったというが、それだけでは本当に小山にいるのかどうかもわからない。

よしんば、小山にいたとしても、将には瑞樹の祖母の家がどこだかもわからない。調べようもない。瑞樹の自宅に聞けばわかるのかもしれないが、そもそも自宅の番号を知らない。

瑞樹自身が家に帰りたくないといっていたせいなのか、将はそれを知らなかったのだ……。

それに小山は新幹線が止まるような駅だ。駅をずっと見張るというのも無理があるだろう。

それに、だいたいこんな雨だ。人を探すのには不向きだろう。

将は、すぐに出かけない言い訳をしながら再び、ため息をつく。思考を聡の方に向けてみる。

――今日もダメなのかな。

電話の聡の声を思い出せば、早くもそんな諦めが浮かんでくる。

将の予定では、今ごろ、聡を迎えに行って、どこかでランチでも食べて、ホテルを目指している頃だ。

今まで何度も、聡を抱くチャンスがあったのに、そのたびに邪魔が入ってまっとうできなかった。

今回もそうなのだろうか。

将は頭を抱えて、横向きになり、窓を見る。

考えてみれば、聡は、卒業するまで『男と女』にならないほうがいい、といつも言っていた。

それを……せっかく18歳になったのだから、と将がなかば強引にお願いした部分もある。

それでも、今回は聡も楽しみにしているようだったから、今度こそ、と将は期待したのだが、ひょっとしたら大悟の件でお流れなんだろうか……。

将は、もう一度天井を見上げる。そこに聡の姿を投影する。

将はそれを一瞬うらめしく眺めようとして、それでも狂おしいほどに逢いたい自分に気付く。

本当は聡を抱きたい。だけど抱けなくても逢いたい。

もしダメなら、それでもいい。

そんなことで、自分の聡への思いは変わらない。

どんなにじらされても、待たされても……。

将はそれほどに聡が必要な自分を再確認した。

出かけてみるか、とのろのろ起き上がる。

しかし、雷はおさまったものの、あいかわらず雨は続いているようだ。

将は地図を持ってきて開いた。

「ゲー、大磯より遠いじゃん……」

将のマンションからだと、小山はヒージーのいる大磯より少し遠いようだった。

いるかいないか不確実なのに、そんなところまで行きたくない。

と、将は、大磯と比べついでに、ヒージーこと曽祖父の巌を思い出した。

大悟の保護者を……ヒージーになんとかしてもらえないだろうか。

ヒージー本人は100歳だから無理だとしても、大臣まで務めた人物だ。

誰か紹介してもらえるに違いない。

保護者が見つかって、ちゃんとお金を受け取れるようになれば、少しは大悟も気が晴れるのではないだろうか。

将はさっそくヒージーに電話をかけた。

電話口に出たヒージーは、しわがれた大声で

「将か!ちょうどよかった。今から来い!」

と用件も聞かずに怒鳴るように言った。

補聴器を付けているのに、長年のならわしなのか、電話口の声が異常に大きい。

「え、どうしたの」

とまどった将に、ヒージーは

「肉じゃ」

と嬉しそうに笑った。

「米沢牛のとてもいいところをたくさんいただいてな。ちょうどよかった。今日は学校は休みじゃろう。今からすぐ来い。夕食はしゃぶしゃぶと網焼きじゃ」

「いや、俺それどころじゃ」

「とにかく来い!」

日頃穏やかなヒージーだが、年をとったせいか、言い出したら聞かない頑固なときがある。

まさに今のヒージーはそうなっているようだ。

「いや、ヒージー、今日俺、彼女とデートなんだよ」

「あきらさんか。じゃあ、連れてこい。肉はたくさんあるぞ」

100歳の年寄りにしては記憶力がいいな、と一瞬感心した将だが

「そうじゃなくて……頼み事があって電話したんだけど」

と話を戻す。だが

「頼みごとだと?そんなものは、こっちで聞く。とにかく来い!わかったな」

と、一方的に電話は切れた。

将は携帯を握ったままボーゼンとしてしまった。

「連れて来いといわれても……」

聡は、さっきの話のようすだと、大悟のことをひどく心配しているようだ。

大悟のことをほったらかして、聡をホテル……ましてや大磯には誘えない。

将は三たびのため息をつくと、ダメもとで大悟に電話をかけてみる。やはり通じない。

時計を見る。まだ1時すぎだ。

そこで、昼食を食べていない将はひどい空腹に気付く。

一息入れてから、考えよう。

雨で外に出るのも面倒な将は、キッチンをあさり、カップ麺を何とか探し出した。

まだどうにでも出来る。

お湯をわかしながら将は考えた。

なんだったら夕食を大磯で食べて、そのあとホテルに入ってもいい。

極上肉のしゃぶしゃぶと網焼きの、こってりとした脂の甘味を舌の上に想像する。

目の前のカップ麺とのコントラストで、それは光り輝くような夢の味に思えた。

それは逆にいいアイデアなのかもしれない。

大好きなヒージーに聡を紹介する。

それは自分の愛の磐石さと将来への決意を聡に伝えることになるだろう。

――うん。そうしよう。大悟とは何とか連絡を付けて。

ようやく電気を付けたリビングで、カップ麺をすすりながら、その時点で、将は今日という日の幸せをまだ信じていた……。

 
 

時計はもう15時に近くなっていた。だるい体を起こすと将はソファで伸びをした。

昨日よく眠れなかった将である。カップ麺を食べ終わって、どうやらここで少しうたた寝したらしい。

雨音は若干弱まったようだ。

将は、もう1回大悟に電話をかけた。今度はあっさりと繋がった。

本当は、大悟が列車を降りて、瑞樹の祖母・春江に連絡を入れた13時30分前……つまり、将がさっき連絡した直後には繋がるようになっていたのだのだが。

「……大悟?俺」

つながることを想定していなかったので、何て声をかけるべきかを何も考えていなかった将はつい

「昨日は……ごめん」

などと言ってしまった。

言ってしまったあとで何で自分が謝らないといけないんだ、と一瞬後悔した。

だが、やはり暴力をふるったのはいけなかった、とすぐに思い直して撤回はしなかった。

すると大悟のほうからも

「俺の方こそ……悪かった」

と返ってきた。

「大悟、今どこにいるんだ?」

「小山。だけど、もう帰るよ」

やはり大悟は小山にいた。聡が言っていたとおりだ。

「瑞樹のばあさんちか」

「ああ」

「……迎えに、行こうか?」

「いや、いい。寄るところもあるし」

「そうか……」

将はホッとした。迎えに行こうかと提案しつつ、もし頼むといわれたら困る将だった。

何せ、小山まで2時間ぐらいはかかる。往復すれば4時間。もし迎えにいけばヒージーの家にいけなくなってしまうからだ。

「それで大悟……、大丈夫か?」

そんな計算をした罪滅ぼしのように、将は親身な声を出す。

「うん」

短く返事をする大悟の心中など、将はわかるはずもない。

瑞樹の後を追うことを考えた大悟だが、瑞樹の形見を受け取ることでようやく踏みとどまっていた。

特に……残されたコインロッカーのキーに何か胸騒ぎがしていた。

それを確かめたい。絶望の中で、大悟に託された使命が、彼に死を忘れさせていた。

そこへ、ホームに電車が近づくというアナウンスが聞こえた。

将は思わずドキッとする。『あの』現場にいるのでは、と思って思わず携帯を握り締め

「今、駅か」

と問う。

「ああ」

大悟はあいかわらず短く答えた。続いて列車がホームに入ったらしい轟音が聞こえてきた。

大悟がいるのはどうやら在来線らしかった。

「じゃ、俺、電車に乗るから」

アナウンスをバックに大悟の声が聞こえた。

どうやら瑞樹の後を追うつもりで駅にいたのではないらしいのはそのしっかりとした口調からもわかった。

「大悟」

「将……。本当にごめんな」

大悟はそう言い残して、電話を切った。

何に対して大悟が謝ったのか、将はわかっていなかった。

それを知ったら、将は聡の元に行くのに、とてつもない勇気がいるところだった。

だけど……幸せなことに将は聡が、将の昔の罪を……そしてそれを大悟に着せて安穏としていたことを、すでに知っているなんて思いもよらなかった。

 
 

大悟は都内のS駅で快速列車を降りた。巨大なターミナル駅である。

大悟はポケットに手を突っ込んだまま、多くの人に紛れて足早にホームを降りる。

ポケットの中の手には、あのコインロッカーの鍵が握られている。

駅の係員を見つけた大悟は、コインロッカーの鍵を見せた。

この駅のであるというのはわかっているが、瑞樹が逝ってもう1ヶ月以上が経つ。

中身はとっくに出されて保管されているだろう、と大悟は思っていた。

だが、何人かの係員をたらいまわしにされた末に、

「ああ。これは長期契約分のコインロッカーですよ」

ということが判明した。

半年とか1年分の料金を払って、その間、コインロッカーを自分のトランクとして使えるシステムは、最近人気だという。

瑞樹はこのロッカーに半年分の利用料を支払っていて、ちょうど今月末が契約切れになるところだった。

大悟はこのロッカーの契約者がすでに故人で、中身を遺品として受け取りたい旨を伝えた。

こんなケースは初めてだったらしく、係員は他の係員と相談して、大悟に事務所から瑞樹の祖母の電話をかけさせると、念のために彼女に確認を取った。

「本来は、身内の方が取りにこないといけないんですけど……」

と係員は言ったが何せ、瑞樹の祖母・春江は小山在住である。

春江自身も電話口で大悟に譲りたいと希望したこともあって、FAXで印鑑付きの念書を取ったうえでようやく許可してくれた。

 
 

大悟は、教えられた場所にあるロッカーへ行った。

半年契約してまで、入れていた中身。

大悟は、ある予感がしていた。自宅はもちろん、将のマンションにも持って帰れないもの。

注射痕……そして、手首の擦れたような傷。

数々の生前の瑞樹が残した証拠の記憶が、歩く大悟にフラッシュバックする。

大悟は、ロッカーの前に立つと、唾を飲み込んだ。

人波が切れるのをわざわざ待って、大悟はキーを差し込んだ。

中には、大き目の手提げの紙袋が入っていた。

ブランド名が書かれた厚手の紙でできた紙袋なのに、ぷっくりと膨れて見えるほど中身が詰まっていた。

紙袋の口付近には、黒のTシャツが入っていた。

それを掻き分けて、大悟はさらに紙袋の深部をさぐる。

奥には派手な色の下着と一緒に手錠、首輪、縄、そしておぞましい道具類が入っていることが一瞬でわかり、大悟は顔をあげるとあたりを見回した。

誰もいない。

大悟はホッとして紙袋の口に元通りTシャツを被せた。

係員が立ち会わなくてよかった、と胸を撫で下ろした大悟は、その少し重い紙袋を持ち上げると、係員にロッカーの鍵を返すべく歩き出した。