第194話 拒絶

――ピンポーン

チャイムの音が意味をなさないほどの直後に将は合鍵を使って部屋に入ってきた。

ベッドにもぐりこんでいた聡は、浅い眠りからとうに目覚めていたが、重い心にひきずられるように、

そのまま布団の中で丸まっていた。

雨の音はいつのまにか布団の中まで届かなくなっていた。

「アキラ!お待たせ!」

呼びかけられて聡は横たわったまま、のろのろと将のほうを振り返った。

「しょう……」

「行こうぜ。ホラ起きて」

将は聡の手を取って無理やり体を起こした。

体を起こした聡だが、顔は将のほうを見ることなく、そのまま下を向いてしまった。

「アキラ?」

聡は俯いてだまっている。

将は、遠慮なくベッド脇に腰掛けると、聡の肩に手をかけてその顔をのぞきこんだ。

まっ白な顔色の中で、黒目がちの瞳がいっそう目立つ。

それは、一瞬将の目のあたりまでもちあがったものの、またすぐに墜落してしまった。

「アキラ……大悟はもう大丈夫だってさ。だから、行こう?」

「将……」

将は、優しく聡をうながした。

だけど、聡の視線は墜落したまま、動かない。長い睫だけがときどきしばたくのが見えるだけだ。

「将……ごめん。あたし、今日、行けない」

「え」

という形の口から将は息を吸い込む。それは鼻から同じ勢いで出て行った。聡の肩から手が離れる。

――やっぱり。

将はさほどショックを受けなかった。こんなことだろうというのは少し予想していたから。

『行けない』と言ってしまった聡の視線はようやく、将の顔まで浮上した。

その顔に、あきらかな落胆が見えて、聡は言い訳をする。

ショックは薄かったが、やはり将の顔には正直に落胆が現れてしまったのだ。

「具合が……悪くなっちゃったの。本当にごめん」

たしかに、体はこれ以上ないほどだるかった。

「ぜんぜん出られない?」

将は咎めるような口調ではなかった。あくまでも優しい。

のぞきこむように、見つめ返されて、聡の視線は再び墜落してしまった。

「今日さ……。俺を可愛がってくれたひーじーさんが大磯に住んでるんだけど。アキラをつれて来いって言われてて……。米沢牛がいっぱいあるんだって」

将はゆっくりと聡に語りかける。

「俺も……、アキラをひーじーさんにぜひ会わせたいんだ。ホテルはいいから、一緒に来てくれないかな」

ひーじーさん、曽祖父。……将の家だったらたぶん、大臣経験者だろう。

家の……言って見れば長老に自分を会わせたいという将の気持ちは、とても嬉しいけれど、今のこんな状態では会うことはできない。

「……ゴメン。無理」

「アキラ……」

将は、うつむく聡を見つめた。

やはり、大悟に何かされたのか。それとも傷つくことでも言われたのだろうか。

しかし、それを口にすることは憚られた。聡は電話で、何もない、と言い切っていたのだ。

疑問を繰り返すことは、聡と大悟の両方を疑うことになる。

将は、聡の表情に何か鍵がないか、覗き込みながら確かめる。

「……どうしても、だめ?」

聡はうつむいたまま、うなづいた。

「ごめん。将……悪いけど、今日はダメ」

「そうか……」

聡の表情からは何も読み取れなかった。

だけど、何かを隠している、と将は直感した。でも……問い詰めても絶対に言わないに違いない。

将は聡の肩にふたたび手を添えると、そのまま聡の体を元通りに横たえた。

そして布団を掛けなおす。

「俺……、今日付き添っていようか?」

将は縋るように聡を見つめた。

聡は将の寂しい瞳の色を見つめた。そのいとおしさは変わらないのに。

だけど、非情にも、首を横に振ってしまう自分に、より胸が苦しくなる。

「ううん……。おじいさま、たぶん将を待ってるわ。お肉もたぶん、将のためにわざわざ用意したんだと思う」

「アキラ……」

「私は寝てれば大丈夫だから……。悪いけど一人で行って」

将の誕生日を祝うはずなのに、どうしてこんなひどいことを言っているんだろう。

聡は自分の心がつかめなくて軽い吐き気さえこみあげてくる。

それを押さえるように寝返りを打って、視界から将を追い出した。

「アキラ……」

背を向けた聡に、将ははっきりと『拒絶』を感じた。

「アキラ……。俺、なんにもしてないよな」

将は立ち上がると、横たわる聡に確かめるべく問い掛けた。

拒絶されるようなことをした覚えは……どんなに考えても思いつかない。

「俺、アキラを傷つけること何もしてないよな。してたら……謝る」

「将は……なんにもしてないよ。あたしが……勝手なだけ」

背を向けたままの聡から、くぐもった声が聞こえた。

そのまま、沈黙が壁のように将を遮った。

冷蔵庫が、かすかに不快なモーター音をたてている。

将はそれに抗うように思い切っていう。

「アキラ……。俺さ。高校にいる間はプラトニックがいい、ってアキラが言うなら、それでもかまわないよ」

将の口調はあくまでも穏やかだった。

「……できないからって、俺の気持ちは変わらないから……。そんな軽い気持ちじゃないから」

10代のまだ青さが残る口調で、一生懸命に伝えようとする。その真摯さは聡にも伝わった。

「前にも言ったと思うけど……アキラは俺の運命のひとだから」

その声に思わず、横たわったままの聡の目から涙がこぼれる。

何かを感じる前に……反射のような涙。左目の涙は右目に入り、そのまま目じりを伝って、枕に落ちていった。

しかし、それは顔の半分を覆った布団で将からは見えなかった。

本当は、聡がどうしてこんな風になったのか、なんとか知りたい。

それに、いつになく顔色の悪い聡が本当に心配だった。

だけど。聡の言うとおり、ヒージーは将のために肉を用意したのだろう。

誕生日の前後の土日にはいつも、ヒージーは将の好物を用意して、強引に呼びつけるのが毎年の習いだったから。

「アキラ……。じゃあ俺、行くから」

将が行く気配を聡の背中は察知していた。

「あとで、電話するから」

「うん」

聡はあいかわらず体を動かさないで小さく返事だけをした。

空気がうごくのがわかる。

呼び止めたい。だけど……。聡の体はびくとも動かない。

ドアが静かにあいて、そして閉まる……そして、外から鍵をかける音を聡はなすすべもなく聞いていた。

将が完全に行ってしまって、ようやく聡は体を起こした。

「将……」

涙をぬぐう。

こんな風に泣くぐらいなら、どうして将にもっと優しくしなかったのか。と自分を責める。

――あんなに楽しみにしていたのに……。

将の嬉しげな様子が聡の脳裏に蘇る。

将が……もちろん聡も楽しみにしていたイベントを聡は自ら壊してしまったのだ。

楽しみにしていたイベントをすっぽかされたのに、将は優しかった。

それを思い出して、聡の目にさらに新しい涙が大量に湧き出てくる。

それを拭うためにティッシュを取ろうとして、聡の視界に小さな紙袋が目に入った。

将にプレゼントとして渡そうとした万年筆が入った紙袋だ。

18歳のプレゼントも渡させなかった……聡は床に座り込んだ。