羽田空港についた聡は、ごく自然に博史の車に乗せられ、夕食に連れて行かれた。
明日からまたしばらく中東での日々が続く博史は、麻布の和食店を予約していた。
カウンターと小さなテーブルがいくつかだけ、という店は落ち着いていて感じが良かったが、そのこぢんまりさと、一品ずつ出てくる料理ゆえに、別れを切り出すムードとは遠くかけ離れていた。
そのまま、博史に送られて部屋に帰ってきた聡は、博史を玄関で追い返すこともできず、部屋にあげることになった。
「……コーヒー淹れるね」
聡は、部屋に入るとエアコンのスイッチを入れただけで、コートも脱がずキッチンに立った。
お湯をわかそうと、ケトルに水をいれる聡の後ろに、すかさず博史が立ったかと思うと、いきなり後ろから抱きしめた。
「聡……」
耳元で囁きながら、博史は身を固くする聡の顎を手にすると、自分の顔の方を向かせ、その唇を吸った。
聡は思わず目を固くつぶった。嫌悪感がこみ上げてくる。聡の手は無意識に博史の体を引き離すべく押し戻していた。
……と、ふいに博史の唇が離れた。
「……なんだ、その顔は……」
博史は、低い声でとうとう不信を声に出した。
聡はその不機嫌な声にハッとする。しかし博史の顔を正視することができず下を向いた。
「俺とキスするのが嫌なのか」
聡は黙っているしかない。
「聡!」
博史は声を荒げた。聡はその声に身をびくっと震わせる。こんな博史の声を聞くのは初めてだ。
身を震わせた聡に、自分のほうが驚いたのか、博史は、
「俺たち、婚約者じゃないか」
と手のひらを返したように優しい声に変えながら、聡の視線の方向に自分の体をもってくる。
「……3年も前から、結婚を約束してたじゃないか」
博史は聡の両肩を掴んだ。優しいを通り越して、懇願するような声音になっている。
聡は博史の顔を見た。声の通り、懇願するかのような顔だ。
聡は肩を掴む博史の手をゆっくりとふりほどくと、博史の目を見てゆっくりと口にした。
「ごめんなさい。……私、あなたとは結婚できない」
博史は呆然と目を見開いている。だから聡はもう一度繰り返す。
「ごめんなさい。結婚は……なかったことにし」「何いってるんだ!」
言い終わる前に、博史は聡の肩を強く掴んでゆすった。肩の骨に指が食い込み、痛い。
「いまさらそれはないだろう!」
聡の体全体がガクガクと揺さぶられる。
こんなに激しく動揺する博史を見るのは、3年もつきあっているのに初めてだった。
揺さぶられながら、聡はただ『ごめんなさい』を繰り返すしかない。
「勝手すぎるよ!」
博史は、一声叫ぶと聡の肩を突き放した。髪を振り乱した聡は無言で立ち尽くした。
実際、勝手すぎる自分だから。罵倒に耐えるしかない。
「……理由は何なんだ」
博史は、今度は静かに問いただす。しかし、その語尾は震えていた。
聡は答えられない。取り乱した博史に『他の男が好きになった』などとは恐ろしくて答えられない。
「……何なんだ、え?」
こちらを向いた博史の目が光っている。
いつのまにか、それは聡を抱く前の、男性の、目になっていた。
しかし、いつもの優しいそれではない。獲物を目の前にした獣のような鋭い視線。
聡はあとじさった。
「言えないのか!」
そういうと同時に、博史は聡に飛びかかるように抱きついてきた。
抵抗する聡の唇を無理やり奪いながら、力づくでベッドに押し倒す。
「博史さん、やめて!」
唇が離れて、こんどは聡が懇願する。
しかし博史の懇願に聡が応えなかったように、聡の懇願にも博史は応えない。
博史は抵抗する聡の腰をやすやすと持ち上げると、力任せにジーンズを足から引き抜き、下半身を守る小さな下着も剥ぎ取った。
「嫌ッ……!」
裸になった下半身の間に自らの体を割り込ませて、抵抗を続ける2つの腕を片手で頭の上で押さえつけながら、上半身のニットを胸の上までまくりあげ、素肌を露出させた。
「やめて――」
目を閉じる聡に博史の手が止まったのがわかった。
恐る恐る目をあけると、博史の視線がある1ヶ所に集中していた。
まだ下着ははずされていない。視線は、その胸の谷間の横にくっきりとつけられたキスマークに注がれていた。
聡の脳裏にあのときの将が蘇る。将。聡の体は将のもの、という証。
「……あいつか」
博史の鋭い視線は聡の顔に移された。
それをビリビリと頬に受け止めながら、聡は博史の顔を恐る恐る見つめ返した。
細い目、というのは憎しみが宿ると、むしろ残忍な顔になる、というのを聡は初めて知った。
「あの、……鷹枝とかいうガキと寝たのか」
本当は寝ていない。だけど、それは立場上我慢しているだけで、もし何も障壁がなければとっくに寝ている。
それは事実上『寝た』と同意ではないだろうか……。
聡は、意を決して、横たわったまま、深くうなづいた。
とたん、聡の頬に激しい衝撃が走った。
聡は、博史に頬を思い切り打たれたのだ。
こんな風に他人からぶたれたことがない聡にとって、今までの人生で一番激しい衝撃だった。
打たれた頬が熱と痛みを帯びていくのと入れ替わりに、はずみで脳に詰まっていた思考と感情がすべて飛んでいったように、聡は無になってしまった。
博史は、それきり無抵抗になった聡の体を奪った。
行為をひととおり終えた博史は、裸の上半身を起こした。
聡の髪に手をやりながら呟くように、ようやく謝る。
「叩いたりして、ごめん……」
聡は無言で、博史に背を向けて横たわっていた。
少し前。
抱けば、もとどおりになってくれるかもしれない、と一縷の望みを託して、また叩いたことへの罪滅ぼしのように、博史は、丹念に聡に愛撫をほどこした。
が、どんなに博史が努力しても、聡は冷たくこごったままだった。
まぶたを固く閉じて、されるがままになっていた。
「聡……」
背を向けた聡の額の髪を耳にかけるように繰り返し優しく撫でる。
「聡、聞いてくれ……」
聡は体をピクリとも動かさない。布団すらもかけずに、死体のように微動だにせず、その白い体を横たえている。
レイプ同然の博史の仕打ちに、抗議するかのように……。
「アイツと、今は、うまくいってるかもしれないが」
博史は、背を向けた聡のなめらかな肩の線を撫でながら、穏やかにゆっくりと語りかけた。
「聡、お前は、若い頃を懐かしんでるだけじゃないのか……。高校生との恋愛ごっこで」
諭すように、さらに続ける。聡はあいかわらず動かない。
「そして、アイツにとっては……、聡、お前は通過地点でしかない。アイツはまだ、若いんだ……」
光を失ったような聡の瞳が、それを聞いて動いた。虚空にただよっていた視線が戻る。
『通過地点』という言葉が心に突き刺さったのだ。だけど、体は動かさない。
「だから、聡、よく考えなおしてくれ」
博史は横たわったままの聡の裸の背中に語りかけると、立ち上がった。衣服を身につけると
「またメールする」と
静かに玄関から外に出た。廊下を暗く照らす蛍光灯に、吐く息が白くけぶる。
それを避けるようにうつむいて博史は、聡の部屋を後にした。