将ら3人が、秋月の宿に隠してあったローバーミニに乗り込んで、萩を後にしたのは10時すぎだった。
秋月は妻の綾と共に見送りにでてきた。出発直前、秋月は将に手招きして、近くに呼び寄せると耳元で
「社会人になるまで避妊はしっかりしろ。間違っても聡を妊娠させたりするなよ。俺の大事な思い出のヒトなんだから。いいな」
と囁いて親指をたてた。
『そんなドジはふまねえよ』もしくは『いや、卒業まで許されてないから』と答えてもよかったが、将は何故か素直にうなづいてしまった。
「また聡と一緒に来いよ」
と秋月は笑顔で将の肩を叩いた。
そして綾と二人で、ミニが見えなくなるまで手を振っていた。
萩の地を聡と二人で再び踏む未来は、当然のように来ると将は思っていた。このときは……。
萩から山口インターまでは1時間程度、一般道だがスムーズだった。
山口インターからは中国自動車道に乗る。11時すぎだった。中国地方の内陸部を通るこの高速はカーブが多いものの車の流れは順調だった。
しかし関西圏に入って、三田を過ぎてから急に車が増えた。途中、サービスエリアで昼を食べたというのもあり、時計はここで16時になるところだった。
吹田JCTあたりで、お決まりのひどい渋滞に巻き込まれた。本来は1時間で通り抜ける距離に2時間以上かかってやっと関西を抜ける。
愛知県の豊田インターでいったん降り、明日から仕事始めだという大悟を送っていき、再び高速に戻る。夜9時30分になっていた。
その先は夜が遅くなったこともあり、渋滞は解消されつつあったが、結局東京に着いて井口を送り届け終わってみると1時近かった。
将は、もう寝てるかな、と思いつつ、車の中から聡に電話をかけてみる。
コールが5回鳴って、聡が出た。
「アキラ?ごめん、寝てた?」
「……ううん」
かすれた声が携帯から聞こえる。否定はしたが寝ていたのだろうと検討をつける。
「今から、行ったら迷惑だよね?」
「ううん……迷惑、なんかじゃない、よ……」
なんだか様子が変だ。眠いんだろうか。それとも酔ってる?
「明日、学校なんだろ、やめとこうか」
気を遣った将だが、実は自分も運転で疲れていた。聡の顔は見たいが、お互い無理をすることもない、と思ったのだが
「……来て。将」
と聡ははっきりと言って電話を切ってしまった。
将は、釈然としないまま、車を聡の家へ走らせた。コインパーキングに車を止めて、コーポの階段をかけ登る。
足音に将を聞き分けたのか、聡のドアの前に将がたどりついたとたん、チャイムも鳴らしていないのにドアが静かに開いた。
スウェット姿の聡が廊下の暗い蛍光灯に細く照らされた。
今朝別れたばかりなのに、ずいぶん顔をみなかったような懐かしさで、将は聡の顔を見つめた。
しかし、聡は、うつむいて、どことなく沈んだ感じだった。
手を伸ばして抱きしめようとした将は、その頬に異変を見つける。左の頬が赤く腫れている。
「アキラ……どうした、そのほっぺた」
将は玄関に一歩踏み込んで部屋に入ると、聡に問いただす。聡は震え出した。
「……将。あたし……」
聡は目をあげた。その目はみるみるうるんで、将のほうを見据えたときは大粒の涙が頬を転がり落ちた。
……もう限界だった。将の顔をみたとたんに、堰を切ったように凍った感情が溶けて激しく流れ出す。
「博史にやられたのか、そうだな」
再び目を伏せる聡をみてそれは図星だと将は確信した。
「ひどいことをしやがる」
将は聡の体を抱き寄せた。しっかりと抱きしめたその体は、まだこきざみに震えている。
「もう大丈夫だから」
将の腕の中で震える聡は、とても小さく見えた。
――守ってやりたい。どんなことをしても。
将の中に、純粋な思いが湧き出してくる。それは清らかな泉のように将の心を浸していく。
冬の夜の静寂に、二人は抱き合ったまま、しばし玄関で佇んでいた。
「はい、紅茶。はちみつ入れといた。それと保冷材」
ベッドに腰掛けた聡に、将がペアのマグカップのかたわれを渡す。
「ありがとう」
鼻の下を柔らかくくすぐる熱い湯気に、戻ってきた安らぎを感じた。
マグカップのもう1つは隣に座る将の手にある。本来の持ち主に戻ったマグカップ。そのことにも聡は安堵を覚えて、やっと
「将……あたしね」
と落ち着いた声を出すことができた。
「……博史さんにね、とうとう、言ったんだ……結婚できないって」
「それで、殴られたんだ」
本当は違う。『将と寝たこと』を肯定して殴られたのだが、聡は
「うん……。そんなとこ」
と答えて、はちみつで甘くした紅茶を口にする。舌に優しい甘い味は、将といるこの時間の象徴のようだ。
いつのまにか将は、ときめきだけでなく、安らぎも連れてくるようになっていた。
「許せないな。こんど会ったら、俺がぶん殴ってやる。……それで別れられたの?」
将が聡の顔をのぞきこんだ。聡は将の瞳を一瞬見つめて、さらに視線を下に落とした。忌まわしい時間を思い出す。
博史にからだを奪われている間、聡は泣かなかった。というより泣けなかった。
頬を打たれたことで感情がどこかでまひしてしまったように、ただ呆然としていた。
クリスマスのときのように馴れた快楽も、もはや何もなかった。その間中、聡は目を閉じて我慢していた。
ただ、ただ苦痛な時間だった……。
その感覚が蘇った聡は、カップをローテーブルに置くと、両腕を胸の前で固く組んだ。
「アキラ……?」
異変に気付いた将は、自分もカップをテーブルに置くと、迷わず聡の肩を抱き寄せた。
そんな聡を見て、将はだいたいの事情を察した。
「アキラ、もう大丈夫だから。……ね」
将はもう一度聡を抱きしめた。
聡も将に腕をまわして体重を預ける。
熱い将の体温と干草のような将の匂いに包まれて、聡はまた少しずつ安堵を取り戻しつつあった。
そんな聡の脳裏に
『通過地点』
という言葉が稲妻のようにひらめいた。
『聡、お前は通過地点でしかない』
頭蓋骨中に響くように蘇った博史の声。おびえた聡は、将にからめた腕に力をこめてしがみつく。
それに気付いた将は聡の頤を上に傾けると、そっと唇を重ねた。
ほんの少しだけ、博史の声のリフレインは弱まったが、消えない。
聡は将と唇を交わしながら、思い出している。
自分が17歳の時を。
秋月は、東は。17歳のときの恋は確かに『通過地点』だった。
『終着点』の恋、なんてものがあるのかどうか、なんて26歳の聡にもわからない。だけど、自分はともかく、17歳の将にとっては、聡が『通過地点』にならない確率のほうこそ奇跡的だろう。
聡はこの恋の、真っ暗な未来を見た気がしておびえる。
しかし、もうこの思いは止められない。
だけど、いつか確実に。若い将は、自分から離れてしまうだろう。
自分にもそうだったように、ある日突然、誰かに心を奪われるのだろうか。
その日を想像した聡はぎゅっと目を閉じて、無我夢中で目の前にいる現実の将を確かめる。
気がつくと、聡は唇を離して、将の瞳を見つめていた。
聡の心のうちの不安も知らず、見つめ返す将の瞳は優しい。17歳の若さならではの純粋な、透き通るような視線。
「……将。ずっとそばにいて……」
脳を通さずに、目に涙が満ちるように、唇から言葉がこぼれる。
将は聡を透明な視線で見つめたまま、静かにうなづくと聡を抱いたまま、そっと身を横たえた。
「アキラ。ずっといるよ。だから安心して」
将の声音は、永遠を誓うかのような、磐石な愛情に満ちているようだった。『通過地点』なんて言葉は、今の将からは想像もできない。
将は、そんな聡の背中を、肩を、ずっと優しくなぜていた。
聡が安心するまで、そして眠りに落ちるまで……。
将は、生まれて初めて、はやく大人になりたい、と強く切に願った。
それは、聡を守りたい、という思いと同義だった。