第248話 台風接近の夜(2)

 
「将、ごめんよ、ごめんよ~……」

将に腕を引っ張られながら大悟はしきりに謝った。

クラブの暗い階段をあがって、昼間のように明るい通りに出た。そのとたん雨がびたびたと頬に張り付く。

「ヒィッ……!ごめんなさい~、しょう~」

大悟はおびえたように、体をかがめた。

将はそんな大悟にも雨にもかまわず、大悟をひきずるように大股で通りを駐車場へと向かった。

傘を差したギャルたちが

「SHOじゃん、やっぱりSHOだよ」

と指差しているのがわかったが、それにもかまわない。

井口は大悟の腕を引っ張って、わき目もふらず歩く将の横に追いついて

「大悟、どしたの?」

と訊いた。もはや、大悟は誰の目から見ても変だった。

「シャブ?」

と訊く井口を無視して、将は立体駐車場にやってきた。

しきりにおびえて、謝り続ける大悟を後部座席に押し込み、将は運転席に座った。

井口も無言で、助手席に乗り込む。

「ごめんよ、将~。俺、どうしても我慢できなかったんだー……」

後部座席で大悟は頭を抱えて言い訳をする。

将は無言のまま、アクセルを踏んだ。駐車場を出るなり、大粒の雨がボタボタとフロントガラスに落ちてきた。さっきよりワイパーを激しく稼動しないと追いつかない。

「井口……。ダウナー持ってる?」

しばらく無言で車を走らせた後、将は前を向いたまま助手席の井口に訊いた。

『ダウナー』とは睡眠薬のことである。

「持ってねえよ、そんなもん。なんだ、やっぱり大悟、シャブ中なの?」

将はそれには答えず、

「悪いけどさ、誰か、ダウナーもってそうなやつに連絡取ってくれない? 金は言い値で払うから」

「えーっ」

井口は顔をしかめた。

「頼む」

将は一瞬井口のほうを振り返った。その瞳があまりにも真剣だったので、井口は嫌々ながら電話を取り出した。

「シャブ中毒に、ダウナー使っても意味ねえんじゃねえの……」

とブツブツいいながらも心当たりに電話をしてくれた。

「大悟、酒飲んだ?」

信号待ちで、将は大悟を振り返った。

大悟は、漠然とした意識を死んだ魚のような目にあらわにして、ただぼーっとしていた。

「……飲んだ」

「どれくらい?」

「将。ごめん……」

質問に答えられない大悟は、ただ謝るだけだ。将は仕方なく訊く。

「薬を最後に打ったのはいつ?」

「……」

大悟は沈黙している。視線ははるか中空に浮かんだままだ。薬による恍惚感が消えてきているのだろうか。

この痩せ方だ。すでに、かなりの頻度でやってるのかもしれない。

そして、さっき大悟が一緒にいた奴らは、たぶん、『筋モノ』だろう……。

「あったよ。カイトのダチが弱いけど持ってるって」

電話を切った井口が、将を振り返った。

「よし。行こう」

将は、マンションに帰る前に、睡眠薬を受け取ることにした。

 
 

 
睡眠薬を手に入れて、将はやっとマンションに帰ってきた。

残念ながら、入手した睡眠薬は入眠薬でごく弱いものだった。持っていたカイトの友達だという青白い青年は

「100錠飲んでも死なないらしいよ。これで自殺はできないよ」

と淡々と言った。

だが、覚醒剤と併用することなど、噂でしか聞いたことのない将は、使い方がわからなかったので、それぐらいでかえってよかった。

明日天気次第でオーディションがある、という井口には帰ってもらった。

おそらく……これから修羅場になるであろうことが将にはわかっていたのだ。

風雨はますますひどくなり、笛の不協和音のような風の音が不気味に聞こえる。

大悟は、黙り込んでいた。もうさっきのように、ふにゃふにゃした口調で謝ったりもしない。

「大丈夫か」

将は自力で車から降りた大悟に声をかけた。大悟は無言で頷いた。多少グラリと体が揺れたのは、酒のせいだろう。

 
 

 
部屋に入った将は、大悟に先にバスルームを使わせた。

大悟は、無口だったが、意識は正気を保っているようだった。

その間に、将はもらった薬についてネットで調べた。確かに『弱い入眠作用』とある。

『多量に服用しても昏睡状態には陥ることはない』ともあった。

「将」

バスルームから出てきたらしい。

大悟の声が背後からした。

「出たか。……!」

将は思わず絶句した。

大悟は、観念したように、ショートパンツを穿いた脛を将に見せるようにむきだしにしていた。

その脛から踝にかけて……両足共に点々とどす黒い注射痕が残っていた。

「そんなところに……」

腕に注射痕が見つからなかったわけである。

「止めようとしたけれど、止められなかったんだ……俺は最低だ」

大悟は呟いた。

将は、グラスに入った水と、入眠薬を渡した。

「無理やりでも寝たほうがいい」

「いつも、使ってる」

大悟は、自室から錠剤を持ってきた。ただし、もう残り2回分だった。それは将でも名前を聞いたことがある、比較的強力な睡眠薬だった。

大悟は、その1回分を将の持ってきた水で飲むと、

「すまないな」

とため息をつくように目を伏せた。

「今日は、ここで一緒に寝ようぜ」

将は、なるべく明るくそういうと、布団を敷き始めた。

将は、自室のパソコンを使い終わると、大悟が先に寝ている、暗いリビングへやってきた。

遮光カーテンから漏れた光が天井に軌跡を描いている。

さっきから遠く雷が鳴り始めた。その鈍い音に、風がマンションに吹き付けるたびに、鈍い轟音となって混じった。

時間を追うにつれて、風も雨もますますひどくなってきた。

それなのに東京の夜は、完全に暗くなることはない。

将は、遮光カーテンの隙間から外をのぞいた。

外は嵐だった。

バルコニー越しに見える夜景は、横殴りの雨のせいで白っぽく煙っている。

遠くに見える高層ビルの赤いランプも、斜めに飛んでいく雨の向こうにぼんやりと浮かぶのみだ。

ときおり、将の目の前のガラスが風でドゥっと振動するのがわかる。

将は、遮光カーテンをきっちりと閉める前に、もう一度大悟の顔を見た。大悟は、薬のおかげなのか、なんとか眠れたらしい。

それに安心すると、将は携帯にイヤホンをさして、ニュースを見た。リビングのテレビをつけると明るくなりすぎるだろう、と気を遣ったのだ。

天気はすでに大荒れに見えたが、台風の位置的にはまだ暴風域に入ったかどうかというあたりだ。

オホーツク高気圧の勢力が強いため、台風の速度があがらず、ゆっくりとしているらしい。

『大雨、暴風、波浪……』赤い警報がずらりと並んでいる。

今日の昼頃、関東に上陸の恐れがあるというから、この分では仕事はキャンセルだろう。

携帯を消してしまうと、あたりは暗がりになった。暗がりに、不気味な不協和音を奏でる風のうなり声が強く弱く響く。

将はなかなか寝付けなかった。

いままで、この部屋で、こんな風に嵐をやりすごしたことは一度もない。

去年までは、台風がくると聞けば、知ってる奴から知らない奴らまで『仲間』が雨宿りに来ていた。

音楽をかけて、ゲームして、酒を飲んで。そんな風にいつもより賑やかに過ごしていたあの頃。

今、同じ部屋にいるのに、嘘のような静寂の中で、風の音におびえている。たった1年でこんなに変わった自分が不思議だった。

だけど、あいつらに来て欲しいわけでも、懐かしいわけでもない。

今、そばにいてほしいのは。

疲れた将を癒してほしいのは。

励ましてほしいのは……聡。

聡、ただ一人だ。

将は聡を思い浮かべた心のあたりにそっと手をあてた。

思い浮かべるなり、無性にあいたくなって将は携帯のデータフォルダをあけた。

そこには、少し前の聡がいた。それは寒い頃なのか髪を下ろしてマフラーをしていた。

それは聡と二人きりでやり過ごした冬の嵐……ニセコ山頂の吹雪を将に思い出させた。

寒くて凍えそうだったけれど、幸せだった。

しかし……去年の台風の頃には、将の心には『弁当屋のお姉さん』として聡が住んでいたはずだ。

雷の音が鈍く天をどよめかす。

将は、ふいにその音になま温かい人肌を思い出す。

去年の台風のとき、将は聡に惹かれる自分の心を無視して、瑞樹を抱いていた。

将は記憶と共に弾けたように鮮やかによみがえる罪悪感に、両手で頭を抱えた。

不気味な風の音は、そんな将の耳にまとわりついて離れなかった。