「将、ごめんよ、ごめんよ~……」
将に腕を引っ張られながら大悟はしきりに謝った。
クラブの暗い階段をあがって、昼間のように明るい通りに出た。そのとたん雨がびたびたと頬に張り付く。
「ヒィッ……!ごめんなさい~、しょう~」
大悟はおびえたように、体をかがめた。
将はそんな大悟にも雨にもかまわず、大悟をひきずるように大股で通りを駐車場へと向かった。
傘を差したギャルたちが
「SHOじゃん、やっぱりSHOだよ」
と指差しているのがわかったが、それにもかまわない。
井口は大悟の腕を引っ張って、わき目もふらず歩く将の横に追いついて
「大悟、どしたの?」
と訊いた。もはや、大悟は誰の目から見ても変だった。
「シャブ?」
と訊く井口を無視して、将は立体駐車場にやってきた。
しきりにおびえて、謝り続ける大悟を後部座席に押し込み、将は運転席に座った。
井口も無言で、助手席に乗り込む。
「ごめんよ、将~。俺、どうしても我慢できなかったんだー……」
後部座席で大悟は頭を抱えて言い訳をする。
将は無言のまま、アクセルを踏んだ。駐車場を出るなり、大粒の雨がボタボタとフロントガラスに落ちてきた。さっきよりワイパーを激しく稼動しないと追いつかない。
「井口……。ダウナー持ってる?」
しばらく無言で車を走らせた後、将は前を向いたまま助手席の井口に訊いた。
『ダウナー』とは睡眠薬のことである。
「持ってねえよ、そんなもん。なんだ、やっぱり大悟、シャブ中なの?」
将はそれには答えず、
「悪いけどさ、誰か、ダウナーもってそうなやつに連絡取ってくれない? 金は言い値で払うから」
「えーっ」
井口は顔をしかめた。
「頼む」
将は一瞬井口のほうを振り返った。その瞳があまりにも真剣だったので、井口は嫌々ながら電話を取り出した。
「シャブ中毒に、ダウナー使っても意味ねえんじゃねえの……」
とブツブツいいながらも心当たりに電話をしてくれた。
「大悟、酒飲んだ?」
信号待ちで、将は大悟を振り返った。
大悟は、漠然とした意識を死んだ魚のような目にあらわにして、ただぼーっとしていた。
「……飲んだ」
「どれくらい?」
「将。ごめん……」
質問に答えられない大悟は、ただ謝るだけだ。将は仕方なく訊く。
「薬を最後に打ったのはいつ?」
「……」
大悟は沈黙している。視線ははるか中空に浮かんだままだ。薬による恍惚感が消えてきているのだろうか。
この痩せ方だ。すでに、かなりの頻度でやってるのかもしれない。
そして、さっき大悟が一緒にいた奴らは、たぶん、『筋モノ』だろう……。
「あったよ。カイトのダチが弱いけど持ってるって」
電話を切った井口が、将を振り返った。
「よし。行こう」
将は、マンションに帰る前に、睡眠薬を受け取ることにした。
睡眠薬を手に入れて、将はやっとマンションに帰ってきた。
残念ながら、入手した睡眠薬は入眠薬でごく弱いものだった。持っていたカイトの友達だという青白い青年は
「100錠飲んでも死なないらしいよ。これで自殺はできないよ」
と淡々と言った。
だが、覚醒剤と併用することなど、噂でしか聞いたことのない将は、使い方がわからなかったので、それぐらいでかえってよかった。
明日天気次第でオーディションがある、という井口には帰ってもらった。
おそらく……これから修羅場になるであろうことが将にはわかっていたのだ。
風雨はますますひどくなり、笛の不協和音のような風の音が不気味に聞こえる。
大悟は、黙り込んでいた。もうさっきのように、ふにゃふにゃした口調で謝ったりもしない。
「大丈夫か」
将は自力で車から降りた大悟に声をかけた。大悟は無言で頷いた。多少グラリと体が揺れたのは、酒のせいだろう。
部屋に入った将は、大悟に先にバスルームを使わせた。
大悟は、無口だったが、意識は正気を保っているようだった。
その間に、将はもらった薬についてネットで調べた。確かに『弱い入眠作用』とある。
『多量に服用しても昏睡状態には陥ることはない』ともあった。
「将」
バスルームから出てきたらしい。
大悟の声が背後からした。
「出たか。……!」
将は思わず絶句した。
大悟は、観念したように、ショートパンツを穿いた脛を将に見せるようにむきだしにしていた。
その脛から踝にかけて……両足共に点々とどす黒い注射痕が残っていた。
「そんなところに……」
腕に注射痕が見つからなかったわけである。
「止めようとしたけれど、止められなかったんだ……俺は最低だ」
大悟は呟いた。
将は、グラスに入った水と、入眠薬を渡した。
「無理やりでも寝たほうがいい」
「いつも、使ってる」
大悟は、自室から錠剤を持ってきた。ただし、もう残り2回分だった。それは将でも名前を聞いたことがある、比較的強力な睡眠薬だった。
大悟は、その1回分を将の持ってきた水で飲むと、
「すまないな」
とため息をつくように目を伏せた。
「今日は、ここで一緒に寝ようぜ」
将は、なるべく明るくそういうと、布団を敷き始めた。
将は、自室のパソコンを使い終わると、大悟が先に寝ている、暗いリビングへやってきた。
遮光カーテンから漏れた光が天井に軌跡を描いている。
さっきから遠く雷が鳴り始めた。その鈍い音に、風がマンションに吹き付けるたびに、鈍い轟音となって混じった。
時間を追うにつれて、風も雨もますますひどくなってきた。
それなのに東京の夜は、完全に暗くなることはない。
将は、遮光カーテンの隙間から外をのぞいた。
外は嵐だった。
バルコニー越しに見える夜景は、横殴りの雨のせいで白っぽく煙っている。
遠くに見える高層ビルの赤いランプも、斜めに飛んでいく雨の向こうにぼんやりと浮かぶのみだ。
ときおり、将の目の前のガラスが風でドゥっと振動するのがわかる。
将は、遮光カーテンをきっちりと閉める前に、もう一度大悟の顔を見た。大悟は、薬のおかげなのか、なんとか眠れたらしい。
それに安心すると、将は携帯にイヤホンをさして、ニュースを見た。リビングのテレビをつけると明るくなりすぎるだろう、と気を遣ったのだ。
天気はすでに大荒れに見えたが、台風の位置的にはまだ暴風域に入ったかどうかというあたりだ。
オホーツク高気圧の勢力が強いため、台風の速度があがらず、ゆっくりとしているらしい。
『大雨、暴風、波浪……』赤い警報がずらりと並んでいる。
今日の昼頃、関東に上陸の恐れがあるというから、この分では仕事はキャンセルだろう。
携帯を消してしまうと、あたりは暗がりになった。暗がりに、不気味な不協和音を奏でる風のうなり声が強く弱く響く。
将はなかなか寝付けなかった。
いままで、この部屋で、こんな風に嵐をやりすごしたことは一度もない。
去年までは、台風がくると聞けば、知ってる奴から知らない奴らまで『仲間』が雨宿りに来ていた。
音楽をかけて、ゲームして、酒を飲んで。そんな風にいつもより賑やかに過ごしていたあの頃。
今、同じ部屋にいるのに、嘘のような静寂の中で、風の音におびえている。たった1年でこんなに変わった自分が不思議だった。
だけど、あいつらに来て欲しいわけでも、懐かしいわけでもない。
今、そばにいてほしいのは。
疲れた将を癒してほしいのは。
励ましてほしいのは……聡。
聡、ただ一人だ。
将は聡を思い浮かべた心のあたりにそっと手をあてた。
思い浮かべるなり、無性にあいたくなって将は携帯のデータフォルダをあけた。
そこには、少し前の聡がいた。それは寒い頃なのか髪を下ろしてマフラーをしていた。
それは聡と二人きりでやり過ごした冬の嵐……ニセコ山頂の吹雪を将に思い出させた。
寒くて凍えそうだったけれど、幸せだった。
しかし……去年の台風の頃には、将の心には『弁当屋のお姉さん』として聡が住んでいたはずだ。
雷の音が鈍く天をどよめかす。
将は、ふいにその音になま温かい人肌を思い出す。
去年の台風のとき、将は聡に惹かれる自分の心を無視して、瑞樹を抱いていた。
将は記憶と共に弾けたように鮮やかによみがえる罪悪感に、両手で頭を抱えた。
不気味な風の音は、そんな将の耳にまとわりついて離れなかった。