第255話 最後の夏空(1)

翌日もよく晴れた。朝から青空は輝き、入道雲はむくむくと膨れ上がった。

将は、ソファでそのまま眠ってしまったようだ。

カーテンも閉めずにほったらかした部屋は、日中の明るさにその惨状を顕わにしていた。

エアコンだけが……外の夏空から遮断されたこの部屋に、冷え冷えとした空気をこんこんと送り出している。

将はソファの上から、体をおこすことなく、部屋をみまわした。

眠ったおかげで……将を襲った罪悪感は、記憶と共に整理されたかのようでもある。

罪悪感が心に突き刺さる痛みは、昨日よりはるかに小さい。

だがその痛みは、切り傷の鋭い痛みからしつこい疼痛に姿を変えて、将を苦しめているのには変わりはない。

体のほうの痛みは、適切に手当てをされたせいか、半分ほどになっているが、心のほうの痛みはそうはいかないらしい。

爽快さを主張しながら飛び込んでくる眩しい夏空の照り返し。

ここ10階の部屋にも否応無しに飛び込んでくるそれが、今の将には心底うざったかった。

ゆえにしばらくソファから動かなかった。

サイレントマナーにした携帯がピカピカと着信を告げているのもどうでもいい。

仕方なく動いたのは、昼前に家政婦がやってきたからである。

家政婦は、以前将が荒れていた頃からここに通っていたので、部屋の惨状を目にしたときの反応も小さかった。

……前に、プチ家出している連中が雨宿りに来ていた頃は、毎日のようにすべての部屋が汚れていた。

それをこの家政婦は毎日掃除していたのだ。

単に、ここのところラクだった掃除が、今日はひさしぶりに大変になるぞという、かすかな面倒くささと、仕事を前にした小さな意気込みが彼女の後姿には見えた。

将はソファに寝そべったまま

「すいません。手間かけて」

と形式上謝ってみる。すると家政婦は、そんな将のセリフに少し驚いたようだった。

しかしすぐに驚いた表情を引っ込めると、作り笑顔で

「いいんですよ。仕事ですから」

と答えた。そして掃除機を使い出した。

一般的な感想だろうが……将は掃除機の音が大嫌いだった。

だが、オーク材のフローリングの上に散らばった、生米のようなクッションの中身が面白いように吸い込まれていくのに一瞬見とれた。

だが、それらがすべてなくなると、こんどは激しい轟音に自分まで吸い込まれてしまうような気がして、将はあわててバスルームに逃げ込んだ。

考えてみたら夏なのに、もう2晩もシャワーを浴びていない。

体のあちこちがどことなくベトつくようだ。

裸になり、右足首の包帯を解いた将は、右足全体が紫色に膨れ上がっているのに少したじろいだ。

ドアにはさんだのは踝なのに、なぜか、つま先のほうが腫れ上がっている。

そこに痛みはないが、不気味だった。

濡れないように右腕の傷をよけて湯を浴びる。

裸になって剥き出しになる、一連の自分の自己防衛本能に、ふいに軽い吐き気のような嫌悪がこみあげてくる……。

バスローブを羽織ってそのまま寝室に篭ろうとした将だが、家政婦が珍しく引きとめた。

今までは将がどうしようと頓着しなかった家政婦だ。

「坊ちゃん、巌様からお電話がありましたよ」

「ヒージーが?」

入院している曽祖父の巌である。携帯を無視し続けているのに業を煮やして固定電話のほうに電話をかけたらしい。

「すぐに掛けなおせとおっしゃっていました」

自分で電話ができるほど回復したのだろうか。

将はすぐに、家政婦がメモした番号に掛けなおした。

090から始まる番号は携帯のようだが、巌は携帯は持っていないはずだ……。

しかし、掛けるなりすぐに艶やかな女の声で

「将さん。おひさしぶりです……すぐに巌さんに変わりますわね」

と聞こえたので将は、ああ、と納得した。

ヒージーの30年来の付き合いの妾に、巌は携帯電話をかけてもらったのだろう。

電話の向こうから、巌の少ししゃがれた声が聞こえた。

「将。いいいい、今、な、何をしている。し……仕事か」

電話はこういうときに不便だと思う。

目の前にいたら、俯くなり、そっぽを向いたりする姿でだいたい察してもらえる。

仕方ないので

「いや。休み」

と短く答える。

「休みか。や……休みなら、顔を出せ。た……頼みがある」

巌の病室を訪れるのは悪くない。

だが……腫れ上がり傷だらけの将の顔を見せるのは、心臓を痛めて入院している巌の病状によくないのではないだろうか。

「ヒージー。俺さ。ちょっといろいろあってサ」

「い……いろいろとは何じゃ。休みなんだろうが」

巌は不機嫌そうな声を出す。面白いことに怒りゆえの言葉は比較的流暢に出るらしい。

「いや……。ちょっと顔が。男の勲章みたいな」

将は遠まわしに、顔が傷だらけであることを告白してみる。

「何を?……ははーん。お前、年甲斐もなく、取っ組み合いをしたのか」

「ま、そんなとこ」

巌は愉快そうに電話の向こうで笑い声をたてた。

笑い声は元気そうに見えた。前に病室に行ったときより、言葉ともども、かなり回復しているらしかった。

その声に将も癒される。

「よいわ、よいわ。お前の勲章を、とくと見てやるから、来い。い……いいな」

いつものことだが、巌には逆らえない。

電話を切った将はため息をついたが、決して嫌な気分ではない。

 
 

車に乗りたいが、右足がこんな状態での運転は無理なので、家政婦が買ってきてくれたつっかけを包帯で倍にも膨れた右足に履いて、電車を利用することにする。

松葉杖をついていた頃に比べれば、別に歩行に不自由はない。

それよりも、閉口したのは人目だ。

昨日より若干腫れが引いた顔は、SHOに戻りつつある。

さっき洗面所で鏡をチェックした将は、左瞼の腫れと色鮮やかな痣はあいかわらずながら、頬の腫れがかなり引いているのを確認した。

まるで、怪談のお岩さんのような左瞼は、あまりに不気味なので、商店街で眼帯を買って身につけている。

しかし、そのおかげでよけいにSHOらしく戻ってしまったらしい。

電車の中で、携帯をチェックしながら、将は

「ちょっと、あれSHOじゃん」

「違うよ、傷だらけじゃん。だいたい電車に乗るはずないじゃん」

「でもそっくりだよ」

というギャルのささやきを無視するのに骨を折った。

――僕は単なるそっくりさんです。

と自分に言い聞かせるようにして、居直る。

タクシーを利用してもよかったが、芸能活動のおかげで、思うような株取引がやれてない今、お金はできるだけ大事に使おうと思っているのだ。

携帯のメールには、心配する聡のほかに、武藤からの連絡が入っていた。

それによると、『ばくせん2』の収録は将の部分だけ1週間休みにしてもらったことが書かれていた。

そのせいで、脚本も書き直してもらったという。

収録中の6話の残りは自然な形で将が出てこないようにしてもらい、将がメインになる7話は、四之宮がメインになる8話と急遽差し替えになったらしい。

脚本家に払う修正料については事務所持ちになったとも書かれていた。

CMについては、代役をたてようと代理店は提案をしたらしいが、ありがたいことに、ぜひ将で撮りたいというクライアントの熱意があり、これは1週間程度なら延期してもらえるということだった。

結果的に1週間休みになってしまったが、1週間でできるだけ顔のケガを直すよう努力をしろ。

皆に迷惑をかけているということを忘れるな。

それでも干されないということに感謝の気持ちを忘れるな。

復帰したら、共演みんなにお詫び行脚だから覚悟しろ。

と武藤は結んでいた。

明日まで調整で忙しいが、あさって頃から、たびたび顔をチェックしにくる、とPSに書かれていた。

共演で仲良くなった大野からもメールが入っていた。

そこには、あくまでも噂だという前ふりで、7話と8話の差し替えは、四之宮が自分から言い出したらしいことが大野本人の驚きと共に書かれていた。

どうやら、たまたまその週にあったオフを潰していい、とマネージャーに持ち掛けたらしい。

過密スケジュールの四之宮にとってどんなにオフが待ち遠しいか、将程度の忙しさでもすでにわかる。

それを将のために潰してくれたのだ……。

将は、携帯を閉じると、目を閉じて電車の規則的な揺れに身を任せた。

武藤や共演者へのすまない気持ちが素直にわきあがってきた。