病院の中は、ひんやりしていて、灼けるようなアスファルトの上を歩いてきた将はほっとした。
昨日行った学校の近くの病院と違って、高額な入院費が必要な、名士御用達のこの病院はとても静かである。
だが、共通しているのは消毒液がまじっているような、苦い空気だ。
汗がひくにつれて将は息苦しくなってくるのを感じた。
ロビーの水槽に高価なランチュウと丹頂がふわふわと漂っていた。
カルキを無理やり薬で中和した水道水の中の金魚も同じような息苦しさなのかもしれない、と将は思った。
「し……将!」
病室におずおずと顔を出した将の形相にさすがの巌も驚いたようだ。
可動式ベッドに寄りかかったまま、皺に埋もれた目を見開くようにした。
将に背を向けるように座っていた妾のあゆみさんも濃いアイラインにふちどられた目を真ん丸く見開いた。
しかし次の瞬間、巌は発作のように怪鳥の叫びのような声をたてた。
「ヒーッヒッヒッ……」
なんだか、苦しげにさえ聞こえる声に将のほうも目を見開く。
「巌さんたら……」
あゆみさんが、そんな巌に、目を細める。
そして将に向かって口角をあげたので、ようやく巌は笑っているのだとわかった。
「男前だ!将」
ヒッヒッヒ、ふぉっふぉっふぉとしばらく笑い続けた巌は、途中で本当に苦しくなったらしい。胸を押さえた。
「ヒージー!」
将は思わずベッドに駆け寄る。あゆみさんも椅子を立ち上がる。
「たいしたことは……ない。おかしくて……酸欠になるかと、思ったぞ」
巌は苦しげに微笑を見せた。
「今日、呼んだのはな。他でもない……」
巌は3時のおやつに、崩したプリンをあゆみにスプーンで口元に運んでもらいながら言った。
プリンは、将が見舞いに持っていったものである。
巌が妻を失って以来の妾であるあゆみは、ただ囲われるのをよしとせず、巌に買ってもらった銀座の店を切り盛りしている。
店を繁盛させたお金で、深夜営業のビストロを始め、それもなかなかの評判だ。
あまり美人ではないが、頭のよさが強い視線に、人のよさが柔和な頬のラインに現れている。
「もうすぐ、病院長の巡回があるでのう。わしを、大磯に戻すよう、一緒に頼んでほしいんだ」
巌は、皺の襞の中の瞳を将をまっすぐに向けていた。
「どうして俺に……」
将は、無理だ、と思いつつ、それを巌が望むのは当然だ、とも思う。
巌は、あの大磯の邸宅をことのほか愛しているのだ。
『わしはここで死ぬ。わしの死に場所はここじゃ』という言葉も何度となく聞いている。
その言葉を思い出した将は……どきりとする。
死ぬ。ヒージーが死んでしまう……。
もしかして巌は死期を悟って、そんなことを言っているのではないか。
「何度も頼んだんじゃ。すりつぶせば普通食も食べられるでのう。だが……あいつめ、ご家族に相談する、というばかりじゃ」
病院長のことを、あいつめ、といって巌は皺だらけの顔をしかめた。
「康三も純代さんもいい顔をせんのじゃ……。バカめが。それで、うちの跡取のお前にな」
「でも、ヒージー。体は……まだ」
将は寝たきり、という言葉を飲み込んだ。
「同じ寝たきりなら、こんな空気の悪いところより、大磯のほうがいいだろう」
飲み込んだ言葉は、巌にはお見通しだったようだ。
「それに……大磯には……、お前に渡すものがある。大事な、大事なものじゃ」
巌は真剣な顔だった。言葉に力を込めすぎたのか、途中で苦しげに息をついた。
「あら、あたしにはくださらないの?」
あゆみは、巌の緊張をほぐすべく、おどけた。
「お前には、これ以上やらんっ。スッテンテンになっちまうわっ」
巌も心得たように、冗談で応じた。
マンションと店を買い与えてこそいるが、あゆみは巌がこちらに来て以来、店は若いものにまかせて献身的に巌の看病をしている。
自分が付き添えないときは、店の女の子の中でも優しくて賢い娘に自分でギャラを払って巌の世話をお願いしているほどだ。
「あら、残念。身ぐるみ剥いで差し上げようと思ってましたのに」
ほほほ、とあゆみはカールした髪を揺らせて笑った。そんなふうに笑うと、さすがに艶っぽい。
もうすぐ60歳になるはずなのに、10は若く見える。
あとで聞いた話だが、将の父の康三は、彼女にいくばくかのお金で礼をしようとしたというが、彼女は
「お世話になったのはわたくしのほうですから」とそれを固辞したという。
「とにかく……大磯に帰りたい。お前ならわかるはずだ」
「ヒージー……」
「一緒に頼んでくれ。な」
そうこうしている間に、病院長が主治医を連れてやってきた。
病院長は将の姿を見ると
「これはこれは……いつもテレビで拝見していますよ」
と声をかけた。名士録に載る様な人物にふさわしい穏やかなバリトンの声だ。
将は頭をさげた。
病院長は、将の顔の傷のことは何も触れずに、巌の方に向き直った。
彼が言葉を発する前に、巌は
「今日こそ、頼みますよ。ワシを大磯に帰してくださらんか」
先制攻撃をしかけた。
「無理ですよ……依然、いつ発作が起きるかわからない状況ですし。そうなったらお命が危険です」
主治医が横から答えた。
「命が危険なのは、ここでも同じだろうに」
巌はすかさず言った。可動式ベッドから身を乗り出そうとして、首だけが前に出ている。
息も少し荒くなっていて、あゆみが心配そうに肩に手をおく。
それに「いい」と小さく答えると、巌は
「もう100年も生きたんだ。心の臓もポンコツになってしかるべきじゃ……どんなに最新の科学でも……老いには勝てん」
とまず主治医に言う。黙り込む主治医が、巌の言葉が正しいことを示している。
巌の心臓は、発作の危険から逃れられるレベルまで治ることはないのだ……。
「ポンコツの心臓が止まるのを待つなら……待っている間は……好きなところで過ごしたいんじゃ」
病院長に向けられた言葉に、将は巌のほうを振り返る。
心臓が止まる=死。やはり巌は死を覚悟しているのだ……。
巌は可動式ベッドに頭まで寄り掛かると遠い眼をした。
その視線の先には、きっと大磯があるのだ、と将にはわかる。
「それに……。これに手渡さなくてはならないものが、大磯にはあるんだ」
巌は視線で将を病院長の前に連れ出すようにした。
「将、お前も頼め」
将は困惑した。巌にはいつまでも生きながらえてほしいからだ。
「巌さん。発作が起きても、ここにいれば、すぐに適切な手当てができるんです」
病院長は静かに巌を諭そうとした。
だが巌は
「こんなところで、無理やり永らえてもなんになろうや……。一度や二度は蘇っても、そのうち管まみれにされるのであろう」
鮮やかな大磯の夏を思い浮かべていた将に、いつかテレビで見た、意識もなくスパゲティのように管を取り付けられた患者の姿がよぎる。
大磯は……ここと違って、空気も甘かった。
香ばしいほどに香る青草に、はるかに望む太平洋の潮の香りが隠し香になっているのだろうか。
夏はことさら、むせるほどの酸素の濃さを感じた。
それをそのまま、色にしたような、早朝からつゆ草のような濃い青色の空の下で、
『今年も、うまいこと実ったわい』と
きゅうりを千切る、ランニング姿の巌。
粉をふいたようなきゅうりが旨いのだと得意げに見せてくれたあの姿はスパゲティの患者とどうしてもうまく重ならない。
巌にはいつまでも生きていてほしい。それは将の本心だ。
たとえ管まみれになろうとも。
そうやって息をつないでいれば、いつかは……医療が発達すれば心臓だって元通りに治る日がくるかもしれない……。
いったんそこまでたどりついた思考に将は、ふと違和感を覚える。
たしかに、医療は発達するかもしれない。
しかし、その日まで巌は、あの大磯の夏空の下に帰れないことになる。
それは、今年中とかそんなはずはなく。
そこまでに最低でも何十年かの歳月がかかることは、あたりまえだった。
それまでに間にあわなかったら。
何度目かの発作で巌は管まみれになり……愛する大磯の家とは逢えないまま逝くことになる。
老いと医療の発達の競争を……管まみれになってもいいから、と強いるのは……。
『生きていてほしい』というのは、エゴイズムなのかもしれない、と将はふと思った。
『人命は地球より重い』という大義名分があるから、それはエゴには見えない美しい願いに見えるけれど。
巌の命を尊重するがゆえに、彼が最も愛するものと引き裂いている状態は……巌を愛しているといえるだろうか。
「100年の締めくくりの場所ぐらい、自分で決めさせてくれ」
なおも、巌は訴え続ける。
「しかし……まだ、発作が」
病院長はにがりきっている。
「ヒージーを。なんとか大磯に帰せないでしょうか」
将は立ち上がった。
「将くん……」
「お願いします」
将は頭を下げた。そんな将をよく見ようと、巌は皺の襞を見開くようにした。その中の目にはすでに熱いものがこみあげている。
「君が、そういっても……。お父さんや、お母さんが……」
病院長は、将を子ども扱いして、却下しようとした。
「父と母は、僕が説得します。曽祖父本人の希望なんです。お願いします」
「将は……立派な鷹枝の跡取じゃ。子供扱い……しないでくれ」
巌は手を伸ばそうとした。あゆみがその手を取る。
「すり潰せば、普通の食事もできる。付き添いは……頼めばよい」
巌がそういうと
「大磯の病院から毎日、先生に巡回してもらいましょうよ」
あゆみは優しく巌にそう語りかけると、主治医を振り返った。
「必要なことは、何でも整えますから……曽祖父の願いを聞いてやってください」
将はもう一度、頭を深く下げた。
「ううむ……」
病院長は主治医と顔を見合わせた。