第280話 夏の終り(5)

「もしかして、道に迷ってる?」

ついに聡が遠慮がちに声を出した。

「うーん。そうかも」

答える将の声も、明るい調子ながらも、少し弱弱しい。

どんどん暗くなってくる視界とは裏腹に、あいかわらず賑やかなBGMだけが車内に響いている。

将が行きたがっていた千里浜なぎさドライブウェイを走ったあと、帰りがてら五箇山の合掌集落を見て、帰路についた二人である。

合掌集落をあとにしたのが5時前だが、途中、

「こっちのほうが近そうじゃん?来た道を戻るんじゃなくて違う道を行ってみようよ」

と将はナビで案内されている方ではない県道に進んだ。

それでも、そこまではいちおうナビの地図に表示されている道だったのだが、その道が土砂崩れのため通行止めになっていた。

『迂回路』と表示されている道に進んでみたのだが、これがまるっきりの林道、しかもナビに表示されない道だった。

その道のどこかで分岐を間違えてしまったらしい。

今、将と聡を乗せたミニは、すれ違うのもやっとという、両側を森と熊笹に囲まれた細くくねる道をあてどもなく走り続けている。

もう6時をすぎているというのもあるが、千里浜を走っていた頃までの晴天が嘘のように掻き曇った空は、墨色に濁って真っ暗だ。

グレー一色のあたりは、車内からはかろうじて物の形が判別できる程度になってしまっている……それもどんどん沈み込んでいく。

「戻った方がいいんじゃない?さっきから家も全然ないし……携帯も圏外だし」

心配する聡に

「うん。でもUターンも厳しいよ。この道幅じゃ」

と将は両手でハンドルを操りながら答える。

思わず黙り込む聡に、

「……だあいじょうぶだって!」

と将は明るい声を出して聡を振り返った。

その将の顔も、すでに前方を照らすライトの反射でようやく見えるほどの暗さだ。

「大丈夫。なんとかなるって。狭い日本だし。

……アキラ知ってる?日本って国土の面積の3%が道路なんだってさ。だったら、そのうちどこかに出るに決まってるじゃん」

聡は、ふうん、と答えながら、さっきからの将の明るさを考えている。

千里浜でも将は、いつになく明るくふるまっていた。

『ヒャッホウ!』

と叫びながら、わざと波に近いところにミニを走らせる。

タイヤは日本海の波を踏んで、後ろに派手にしぶきをあげた。

千里浜なぎさドライブウェイは、日本で唯一、砂浜を車で運転できる海岸である。

九十九里浜を思わせる長い砂浜をバスや車、バイクがじかに走行し、道路標識まで立てられているのに聡はびっくりした。

砂の粒子が他の海岸に比べて細かいために、タイヤが埋まらないほど砂浜がよく締まっているという。

テンションが高い将は、波が引いたところを狙うようにハンドルを切り、また寄せてくるのを見計らって逃げるようにこれまた反対側にハンドルを切る。

蛇行するミニの車中で、二人の体は大きく揺れて、将はそのたびに笑った。

『ちょっと、海に近寄りすぎじゃない?』

思わず聡は、悲鳴のような声をあげる。

『いいじゃん。すっげえ楽しいよ、おっと』

また波を踏んでしまった感触。派手にしぶきを跳ね飛ばす音がする。

『もう……車が錆びてもしらないわよ』

といいながらも、聡は車よりも、むしろそんな将が少し心配だった。

明るすぎる。……というより無理して明るくふるまっている。聡にはそれがわかった。

やっぱり、巌の死は将にとってかなりショックだったのだろうか……。

『アキラー、こっちこいよー!』

ミニを停めるなり、海へと走っていった将は、すでに膝下を金色の波の下に埋めながら手を振っていた。

聡の足元には将のサンダルが乱暴に脱ぎ捨ててある。

聡は、首を横に振りながら、金色一色になった午後の日本海を眺めた。

車に乗っていたときは気付かなかったが、波はかなり高いらしい。

白い泡立ったような波頭が砂浜に打ちつけ、砂浜を一瞬鏡のように変える。

その金色が砂浜にしみこんでいくように消えたとき、再び波が砂浜を金色にコーティングする。

その繰り返しに見とれながら、聡は眩しさに手をかざす。

『さっきの続き、しよーぜー』

将はまだ叫んでいる。

こうしてシルエットになると、将の手足の長さが際立つ。

金色の波涛をバックに立つ将は、何かの神話に出てくる美少年さながらだ。

聡はミニの後ろに寄りかかると、さっき買った冷たいカフェオレを口にした。

将は諦めたのか、ちょうど走ってきた小さな犬にちょっかいを出し始めた。

濡れる覚悟がないのか、犬を連れてきたらしいカップルは、将がびしょ濡れになるのもかまわずに犬と遊ぶのを見て、笑いながら寄り添っている。

犬が将にじゃれついているのか、将が犬にじゃれついているのかわからないほど将は積極的に遊んでいた。

犬のキャン、キャンという鳴き声に、将の『う~、ワンワン』という声が混じる。

そんな風にはしゃぐ将も、聡にとって初めて見るものだった。

しばらくして、こっちへ戻ってきた将は、去年二人で波打ち際で遊んだときほどではないが、

ジーンズの半分が濡れ、Tシャツはしぶきの水玉模様が盛大についていた。

『またバレたの?』

カップルに乞われたのか握手をして、犬を抱いて携帯で写真を撮られるのが見えた聡は将に訊いた。

『うん、ドラマ見てたって言われたから。……あー面白かったぁ。アキラも来ればよかったのに』

将は白い歯を剥き出しにして笑った。

 
 

そのとき将には、あたたかな金色の午後の光が降り注いでいたのに……今、二人が乗るミニの上は、厚い雲が覆っている。

「やっぱり山に来ると天気が悪いね」

あまり不安に思ってないのか、将はあくまでも軽い口調で声にした。

「予報はどうだった?」

「わかんない。金沢の天気は晴れのち曇りだったけど」

しかし、頭上の雲は、今にも降り出しそうに見えた。日が暮れたせいでそうみえるだけだ、と聡は信じたい。

「大丈夫、ガソリンはまだいっぱいあるから」

この状況になってから何度目だろうか、将は『大丈夫』を繰り返した。

たしかにガソリンは千里浜のあと、高速に乗る前に入れたから、まだ当分持つ。

だけど、道はもうすれ違えないほどの幅になり、おまけにライトに照らされた路面には真ん中に朽ちた枯葉が積もっているほどになってしまった。

ひび割れたアスファルトの端にはどうやらコケすら生えているらしい。

対向車も一度も来ない。この狭さだから来てもらっても困るが、あまりにも来ないのは不安を煽る。

おまけに上り坂の傾斜とカーブはどんどんひどくなる一方だ。

車内に流れているCDはもう3回も同じ物が流れているが、不安な二人はそれに気付いていない。

「やった!峠だ……」

ミニはくねるカーブの上り坂を脱出して、切通しの峠に出た。

あいかわらず道幅は狭いが、これからは下り坂だ。

「これ下ったらきっと大きい道に出るよ」

将の希望的観測があたったのか、すれ違えない幅だった道は、

あいかわらず原生林に囲まれつつも普通車同士だったらすれ違える程度になり、カーブも緩くなった。

「お、直線」

ひさびさに見通しのいい直線に出て、一刻も早く太い道に出たい将は待ちかねたようにアクセルを踏んだ。

と、そのとき。

何か、緑色に光るものが道路わきの熊笹の茂みから跳ね出てきた。

「うわっ!」

「きゃ!」

将は急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。

バンパーに何か重いものがボン、とあたって跳ね飛ばした感触ののち、つんのめるようにミニは止まった。

止まった拍子にエンジンも停止してしまったらしい。

しばらく車内を静けさが支配した。

将は、静かな車内で聡を振り返った。ちょうど聡もこっちを振り返ったらしい。

二人は暗い車内でしばし沈黙したまま見つめあった。

暗がりは、聡の紅い唇も栗色の髪もすべて暗めのモノクロに変えてしまっている。

「……なんか、動物、轢いたかな」

聡は呟くと、窓を開けて振り返るように暗い道路に目をこらした。

何か小さなものが横たわっているのが黒っぽく見える。

聡は、ドアをあけて外へ出た。将も躊躇しながらも聡を追うように続いた。

真っ暗に見えた外だが、外灯や懐中電灯なしでも、なんとか物の形は判別できる程度の明るさを保っていた。

「……ウサギだ」

聡は呟いてウサギのそばにしゃがんだ。

野うさぎらしき茶色い小動物は道路に横たわったまま、ぴくりとも動かない。

暗さに慣れてきた目は、ウサギの口からどす黒い血が流れているのをとらえた。

といってもほんのわずか、たいした量ではない。

だが毛は生きている動物にありえないほど乱れていて、もはや死んでいるのは明白だった。

せめて目を閉じていてくれたのが幸いだった。

「どうしようか」

聡は突っ立っている将を見上げた。

……暗がりのなかで将はこきざみに震えはじめたように見えた。