第294話 無理難題(1)

土曜日は、雨が降った。

将は午前中からミニに乗って、高級住宅街にある自宅に向かった。

父の在宅確認のために入れた電話には、義母の純代が出た。

「将、元気なの」

純代の声が、温かく聞こえるのは、やはり巌の葬儀での一件のせいなのだろうか。

そんな風にたやすく義母を許しそうになる自分が将には少し面映い。

だから、意識して固い声を出す。

「ハイ。……今日、オヤジ家にいますか」

「ええ。いるわ。先週まで地方選の応援があったけど、終わったから今日は1日ゆっくりするそうよ」

官房長官でしかも長身・イケメン政治家として人気のある康三は、選挙の応援に狩り出されることも少なくない。

それは当然、来年の総裁選に向けて、自分に投票してくれる議員を一人でも増やすための工作でもある。

……父はやはり総理を狙っているのか、と将は腹の底が少し不安で重くなるのを感じた。

それは今から切り出さねばならないことに関連している。

「……そうですか。今から話があると伝えてもらえますか」

「将、うちに帰って来るの?孝太が喜ぶわ。そうだわ、みんなでお食事にでも行きましょうか」

無理に明るい声を出そうとする純代に将は

「お気遣い無用です」

と冷淡に答えて、短い謝辞を述べると電話を切った。

 
 

「お兄ちゃん!」

開いた玄関から、飛び出すようにして孝太が飛びついてきた。

「孝太、元気にしてるか?」

いつも同じ質問だと思って将は自分に少し苦笑した。

こうやって、この玄関に足を踏み入れて、孝太が駆け寄ってきたのはどれくらいぶりだろうか。

ひょっとして1年以上経っているだろうか。

将は少し背が伸びた孝太の頭を撫でながら少し考えた……そうだ。聡が自分のクラスの担任だと知って。

それで制服を取りに帰ってきて以来なのだ。

つまり理由はともあれ今日と同じく、聡のためにわざわざここを訪れたことに、将はあらためて覚悟を飲み込む。

「将、入って。お茶にしましょう。それとももう、お昼にしたほうがいいかしら」

純代が将をリビングに招き入れる。

「お昼ねえ、お母さんが栗ご飯をつくってくれたんだよ。僕も栗の皮むくの手伝ったの」

孝太が笑顔で将の手を引っ張る。

純代の実家である岸田家の選挙区の支援者から毎年、立派な栗が送られてくる。

それをつかった栗ご飯は、子供の頃の将の大好物だった。もちろん、今も好きだが。

将は孝太の手を出来るだけ優しくほどくと、純代をまっすぐに見据えた。

「あの……。オヤジに話があるんですけど」

「お食事しながらじゃダメなの?」

将は黙って頷いた。

「わかりました。お父さんは書斎にいらっしゃるから……。お茶を持っていくわね」

純代は素直に引き下がると、内部電話で康三に将の到着を伝えた。

 

重厚な木のドアは、ノックすると心地よい反響音と緊張感を将に返した。

「入りなさい」

寛いだ康三の声がした。重めのドアを開けると、モーツァルトが掛かっていた。

こんな風な雨の日に、父はよくクラシックを掛ける。

『雨だと、音が柔らかく響くんだ』

そんなことを聞いたのは、もう10年も前かもしれない。

康三はデスクの前の椅子に掛けて、リラックスした様子で、資料をたぐっていたようである。

将を見ると、顔をあげて笑顔をつくった。

「なんだ、今日は。そこに座りなさい」

康三の書斎は、両側の壁がすべて書棚になっている。真ん中には、秘書などと打ち合わせができるように、皮のソファがしつらえてある。

忙しいときはここで仮眠を取ることもあるスペースを康三は将に勧めた。

「元倉亮のドラマはどうだ。うまくやってるのか」

将はいったん無言で頷いたあと、付け足しのように

「……うん」

と呟いた。

無言で頷くのはもうクセになってしまっていたのだが、今から自分の人生で最も重大なことを願い、いや、宣言しなくてはならない。

そんな将には、声を出さない返事は無責任に思えたので、急遽責任感から声を付け足したのだ。

「今度はいつ北海道に行くのか」

「10月……」

「元倉亮といえば、お父さんのお兄さんの同級生だって知ってたか?」

「いえ……」

将は首を振りながら、純代の茶が遅い、とそわそわした。

重大な話を切り出している間に、あの女が来るのは、あまりに間が悪すぎるからだ。

「そうか。今度会うチャンスがあったら鷹枝周一を知ってるかと聞いてみなさい」

そのとき、ようやく純代のノックがあり、部屋に紅茶が運ばれてきた。

オールド・ノリタケの器に入った紅い茶は、香りからダージリンだとわかった。

薄くスライスしたオレンジと温めたミルクが添えてある。

どちらでも好きなほうを使えということだが、どうやら正午近い今のタイミングに、どんな紅茶を出すのか考えあぐねてのことらしかった。

デスクの前からソファに場所を移した康三は、温めたミルクを自分のカップに垂らして

「お前は使わないのか」

と訊いた。

将は、紅茶どころではなく……純代が出て行ったとたん、いつ話を切り出すかと身構えていた。

「大事な話があるんだけど」

「ああ。お母さんから聞いた。なんの話だ」

康三はミルクと砂糖を入れた紅茶の柔和な香りに顔をなごませながら、カップごしの目でこちらに向き直った。

「結婚……したいんだ」

そのとき、ミルクティは康三の舌にまろやかな軌跡を残しながら喉へ滑り込もうというところだったが、

それを聞いた康三は咽ないために、それをごくっと飲み下さなくてはならなかった。

「誰と」

それでも冷静さを保って、康三はカップをいったんソーサーに置いた。

「古城聡さん……と」

将は聡の名前に先生を付けるかどうか迷った。だが、結婚は一人の女性の問題だから……と付けなかった。

康三は少し考えて、それが将の担任の聡のことだとわかった。

特徴のある聡の苗字、そして将を曲がりなりにも学校に登校するようにしむけた功績を持つ担任教師として、聡の名前は康三の記憶の中にインプットされていた。

康三は「先生か」と呟くとフンと笑った。

「お前が大学を出て社会人になったら、先生でも、誰とでも好きな相手と結婚すればいい」

「それじゃ遅すぎるんだ。今すぐ結婚したいんだ。……だから保護者の許可がいるんだ」

畳み掛けるような将の言葉は、最後のほうは少し弱弱しくなった。

康三はその弱弱しくなったところにつけこむように

「どうしてだ」

と目で将を圧倒した。

将は思わず視線を、手をつけないで透き通ったままの自分の紅茶に落とすと、躊躇する自分を叱咤しながら言葉を絞り出した。

「子供が……出来たんだ」

言ってしまって再び目をあげた将は、康三の顔がひきつるのを見た。

それを見た将は何故か、勇気を得た気がした。というよりふっきれたのかもしれない。

『だから、早く結婚したいんだ』と言おうとした将より一足早く、康三の声が先に出た。

「先生に……か?」

将は再び背筋が凍るように硬直するのを感じた。

明らかに咎める口調……将はもとより、聡のふしだらへの咎を暗示している……に将は必死で反論する。

「アキラは悪くない!俺がいけないんだ」

いけないという言葉を口走った後で、将は一瞬後悔する。聡のお腹の子供がまるで罪のようではないか。

「いや……、俺はアキラが大事なんだ。アキラより大事な人なんて今後絶対に出ない。ヒージーだって認めてた。だから頼む」

将はこうべを垂れた。

康三は自分に頭をさげる将をしばらく見つめていた。

聡に惹かれている将のことは、知っている。

将が月に一度しかいかなかった学校に毎日登校するようになったのも、模擬テストで中ぐらいの成績をとるようになったのも、すべて聡のためなのだ。

去年、なじみのレストランで将と一緒にいた、すらりとしながら柔らかい印象の女性を思い出す。

そういえば、彼女は将のマンションにも来ていたことがあった。

思えば担任教師にしては、将に近すぎた。

将の一途なアタックを受けて情にほだされたのだろうか……。

康三は、やがて静かに口を開いた。

「お前の気持ちはわかった。だが、子供や結婚は早すぎる。今回は諦めなさい」

将は顔をあげた。諦めるというのは、堕ろすということ。すなわち子供を殺すということだ。

「オヤジ!」

将は叫ぶと、ソファから降りた。

柔らかい毛足の絨毯の上に、跪くと這いつくばった。

「頼む。アキラと今すぐ結婚させてくれ。このとおりだ」

せっかく授かった二人の子供を、殺すことはできない。

「俺、アキラを一生守りたいんだ。大学を出て結婚していいなら、今したって同じだろ」

康三は土下座をした将をソファの上から見下ろしていたが、静かに立ち上がると将の横をすりぬけて窓辺に立った。

いつのまにかモーツァルトのCDが終わったらしい。

外の雨脚が強くなったのが、将にもかすかに感じ取れた。

康三は窓の外に顔を向けたまま、言った。

「……一生守りたいといったな。お前、今結婚したとして、彼女をどうやって養うんだ」

思いがけない質問に、将は膝をついたまま顔をあげた。

「それは……。芸能活動とか」

「お前はまだ10代で、アイドルに近い。結婚して子供が出来たなどと知ったら、ファンはすぐに離れるだろう」

将は、そんなことはない、ととっさに言い返そうとして詰まった。

将の中に残る冷静な部分が『それは当たっている』と引き止めたのだ。

「そうかもしれないけど……。じゃあ芸能活動じゃなくてもいい。とにかく何をやってでも聡と子供を守りたいんだ」

将はふたたび、頭を垂れる。

「アキラの体を傷つけたくないんだ。何でもするから……頼む。結婚を許可してくれ」

康三は、ふいに止めていた煙草を吸いたくなった。

将の実母である環がガンであるとわかってから、康三は煙草を吸わなくなった。

政治家の家に生まれた康三は……三男ではあるものの、それなりの令嬢をもらって閨閥を作ることを期待されていた。

だが。外交官の同僚である環に激しく恋をしてしまった。

表立った反対こそされなかったが、あまり歓迎されない結婚だったのはよくわかっていた。

その頃から長老だった巌が、一族に呼びかけて、ようやく形だけは祝福を受けた……その頃の、自分を思い出していた。

あの頃、祝福されない恋、だけどかけがえのない恋、というジレンマに悩んだ康三はよく煙草を吸ったものだ……。

 
 

「何でもする、と言ったな」

長い沈黙の後に、康三は低い声を出した。

その声に顔をあげた将は、康三が顔をこちらに向けていることに気付いた。

「何でもする、と確かに言ったな」

康三は繰り返した。

その低い声は……将が今まで聞いた父の声の中で、一番恐れるべきものだ、と将は本能で身構えた。

しかし、将は頷くだけしかできなかった。

「私の跡を継ぎなさい」

言葉ははっきりと聞こえたが、将には意味がよくわからなかった。

「私の跡を継いで、政治家になると約束しろ」

今度は意味はわかったものの……なんでそんなことを言い出すのか、意図がわからないで将は狼狽した。

だけど、とりあえず返事をしておかなくてはならない。

「なるよ。約束する」

「そして」

康三はさらに続けた。

「鷹枝家の長男は、巌じいさんから私の兄の周一まで、全員現役で東大に入っている。

だから……将、お前も鷹枝家を継ぐ長男なら、現役で東大に入れ。それが出来たら結婚を認めてやろう」