あきらめきれなかったみな子は、あれからすぐに奨学金という考えに思い当たった。
ちなみに、友達のすみれの彼氏である先輩は奨学金を受けているという。
関西行きを打ち明けられた翌日、みな子は母親に
「奨学金、受けられないかな……」
と相談してみた。みな子の第一志望であるM大には奨学金制度がある。それを母親に説明した。
ネットからプリントアウトした資料も見せる。
そのM大は、将が志望している東大とは目と鼻の先だった。
「みな子、そんなにM大に行きたいの?」
みな子は深くうなづいた。
東京で女の子が一人暮らしなんて、と眉をひそめていた母親だったが、みな子の真摯さに、心を動かされたらしい。
母親は月曜日になるとすぐに、奨学金を受けられるかどうか電話をかけて訊いてくれた。
だが……奨学金をもらうには、みな子の家の年収では多すぎた。
月に十何万ものマンションのローンにひいひいあえぐように、慎ましく生活しているのに、奨学金をもらうには裕福すぎると言われたのだ。
みな子はそのとき、すみれの彼氏の先輩を思い浮かべた。
その先輩は特に貧乏ではなかった。
漫研に所属していたぐらいだから、いわゆる『オタク』趣味の気があった先輩だが、彼は欲しい同人誌などは躊躇せずまとめ買いする豪胆さがあった。
携帯もよく新しい機種に変えていて、どことなくお坊ちゃんの風情があった。
それもそのはず、彼の父親は小さな有限会社ながら社長だった。
それで奨学金とは、なぜ。
「うちより金持ちの……社長の息子でも奨学金もらってるよ」
みな子は母親に食い下がった。
「自分で会社をやってたりするうちは……経費で見た目の収入を減らせるから」
母親はため息をつきながら答えた。
自営業者は、例えば自宅のローンも、その一部を事務所として使っていると申請すれば、その分を経費として計上できる。
水道代も電気代も電話代もその何割かを経費に繰り入れることができる。
結果、手取り収入を少なく申告することができ……一般的なサラリーマンより豊かな暮らしをしているにも関わらず、申告上の年収は少ないということも十分ありえるというのだ。
夢の断念を余儀なくされたみな子は、それでも悪あがきのように計算をする。
――仕送りをいっそ家賃だけにしたらどうだろうか。
――いや、家賃も……誰かに家に居候させてもらったり、ルームメイトとシェアして折半できないだろうか。
みな子が今受けている、予備校の英語の講義代すら、もったいなかったとみな子は舌打ちを堪える。
面白可笑しく、かつわかりやすいということで定評がある講義だったが、人気講師なのでほかより少し割高だったのだ。
と、そのとき携帯がブー、ブーと震える音がして、みな子はハッとする。
幸いマイクを使った講義に比べればたいした音量でなく、まわりの受講生たちの非難の目もない。
それでもみな子は素早く電話を掴むとあける。メールらしい。
表示された『鷹枝将』の名前に、みな子は釘付けになる。
>予備校はどう?こっちは毎日図書館通い。
>元旦に、みんなで合格祈願の初詣に行く企画があるんだが来ない?
>先生の引率付きw
いつもは将からメールをもらうだけで夢見ごこちになるみな子である。
こんなふうな誘いなら有頂天になってもよかったが、みな子は別の意味で動悸を抑えられなかった。
それは、いいようのない恐怖に対峙したときに似ている、息も苦しくなるような激しい動悸だった。
肩を縮めたみな子は、クリスマス・イブに雪の中でまのあたりにした光景を思い出す。
マタニティで着膨れしたように見える聡、そして彼女を抱く将。
車のライトに照らされて、将の腕の動きははっきりと見えた。
それは至宝を受け止めるような、慎重で……かつこれ以上なく優しげな動きだった。
そんな風に抱かれたことがないみな子にもわかるほどに。
――先生のお腹の子は、鷹枝くんの子供だ……。
官房長官の息子。そして人気上昇中の俳優。そんな彼が担任を妊娠させたなどと公表されるはずがない。
ひとたび生まれた考えは、疑いという過程を通らずに、一気に確信となった。
関西行きのおかげで忘れていたそれを思い出したみな子の心臓は、今また、恐怖のあまり再び激しく暴れ始めた。
みな子は、落ち着くために、バッグからペットボトルを取り出すとお茶を一口飲んだ。
本来は講義中としてはマナー違反の行為にあたる。だが無意識にやってしまう。
心臓をなだめるべく流し込んだお茶の代わりに、ため息をついて……みな子はようやく少し落ち着くことができた。
――常識ある大人だったら、教え子との間に子供ができたら普通堕ろすはず。
それを敢えて、まわりにウソをついてまで産むのはなぜ……。
みな子は考えたがわからない。
いや、本当はわかっていたが、あえてその結論は見ないようにしていた。
ただ、はっきりとわかったのは。
聡が他の男の妻になったのではないなら……まして将の子供を生むのなら。
みな子に入る隙間は、おそらく未来永劫与えられない、ということだ。