歴史をやっていた将は、顔をあげた。
カーテンの隙間から白い明かりがもれている。
遮光カーテンを開ける。窓の前に立つ、朝の光を浴びて濡れたように光る庭木が大晦日の朝を告げていた。
今朝はついに徹夜をしてしまったらしい。充実感に将は伸びをした。
25日からずっと仮眠しか取っていない将だ。
眠さと疲れは限界のはずだが、まだ力がみなぎっているようだ。
それも、そのはず。
大晦日の今日は、マンションのほうで、聡と二人で『合宿』することになっているのだ。
それを将が提案したとき聡は
『大丈夫なの?』
と案の定心配した。
膨らみ始めたお腹のせいで、実家の萩にも帰れず、たった一人で正月を迎える聡。
将はそんな彼女が不憫で……それを思いついたのだ。
正月は家族と迎えるもの。だから、将来家族になる将と聡が一緒にすごすのは当然だ、と将は考えた。
ちなみに元旦の初詣企画も、二人きりでの初詣が叶わないから、クラスメートを巻き込んでみんなで、という形にしたのだ。
聡と結婚し、二人の子供が生まれる年の始まりだ。
将は、聡のためなら、聡を幸せにするなら、どんなことでもやろうと決意を新たにしていたのだ。
『親には予備校のカウントダウン講義ってウソいうし。あるんよ、本当にそういうの』
そういって将は電話口で笑ってみる。
なんでも予備校では、大晦日から元旦にかけてオールナイトで講義をして、受験生の士気を高めようというイベントがあるらしい。
予備校の講師も大変ね、という聡の同情は同業者としての感想らしい。
『俺は、アキラと二人でカウントダウン講義』
甘えた口調になる将に、聡は
『でも、将。記者とかに見張られているんじゃないの?もうすぐドラマ始まるんでしょ』
なおも慎重だ。
『うん。だから』
将は、”二人きりのカウントダウン講義”の会場として前に将が住んでいたマンションを提案した。
『もう3ヶ月もあっちのマンションには帰ってないから、絶対ノーチェックのはず。俺自身は誰かにおっかけられてるはずだから、アキラ、先に入って鍵かけといて。帰りも俺が先に出てアキラが後に出れば絶対にバレない。……だから、ね?いいじゃん?』
時間差攻撃を訴えて甘える将に、聡はやっと折れてくれた。
午後3時すぎ。将は出掛けるべく着替えて部屋を出た。
「じゃ、行ってくるから。帰りは明日の夕方だから」
お手伝いさんと一緒に台所にいる純代に声をかける。どうやらおせち料理づくりも大詰めを迎えているらしい。
巌がいたころは、一族は皆、大磯に集合していたが、まだ喪中にあたる今年は慎ましく各家庭で、ということらしい。
それでも本家にあたるここに来客が多いことはわかっている。
だからおせち料理も、大量に、かつバラエティ豊かに用意しなくてはならない。
お手伝いさん一人と、親戚の若いお嫁さんの援軍がありながらなお、純代は忙しそうだった。
ちなみに『カウントダウン講習』のことは前もって言ってある。
「あ、将。待って」
呼び止められて将はギクッとする。
「何?」
無視すれば逆に怪しまれる……と将は嫌々ながら立ち止まる。
割烹着姿の純代は、いそいそと3段重ねの重箱に風呂敷をかけ、それを持ってきた。
「これを持っていきなさい」
「えー?」
予備校の講習に弁当なんか、と将がさらなるウソを口にする前に
「全部、無農薬野菜だから。お肉は米沢牛、お魚も天然ものよ」
純代は唇に少しだけいたずらっぽい微笑を浮かべた。
「聡さんには、うちの味だからって伝えて。……それと、タクシーを使いなさいな」
将はぽかんと口をあけたまま、風呂敷包みを受け取った。
「お父さんには内緒だから」と純代は最後に付け加えると、にっこりと微笑んだ。
昼下がりの商店街は、食材の買出しをする人でそれなりに込み合っていた。
またその客を見込んで、店々は店先にワゴンを連ねて、乾物や野菜、しめ縄を積み上げている。
31日にしめ縄は遅いのでは、と地方出身の聡は思ったが、まだまだ飛ぶように売れていく。
ふだん、実家に帰る聡が初めて目にする東京の年の瀬だ。
買い物をする人々の群れの中を、聡は膨らみ始めたお腹をかばうようにしてすり抜けながら、目的のスーパーに向かう。
まだかばうほどではないけれど、動き始めた将の分身に、聡はいつもより行動が慎重になっていた。
今日の、二人の合宿の食事について、将は
「何もしないでいいよ。聡といられれば」
と言ったが、買い物をしなければ年越しそばもなければ、それに入れるネギもないありさまだ。
まだ食べきれずにいた、クリスマスにもらったハルさんの冬野菜は鍋にでも入れようと、もって来ていたが、それだけでは食べ盛りの将には足りないだろう。
だから聡は、いったん将の部屋に荷物を置くと、もう一度商店街に出てきたのだ。
鍋には唐揚げでも付けるか。
それとも、そばを具沢山にするか。
考えながら歩く聡は、ただでさえ例年より相当温かい小春日和にうっすらと汗をかいた。
着ているコートがうっとおしくて、スーパーにつくなり脱いでカートに入れて一息ついた聡は、みずみずしい果物に心を奪われる。
早くも並ぶイチゴのパックに思わず手を延ばす聡に、懐かしい声がかかった。
「アキラちゃん?アキラちゃんだよね」
聡は驚いてイチゴのパックを手にしたまま振り返った。
そこには、去年までアルバイトしていた弁当屋のおかみさんが立っていた。
「おかみさん……」
「やっぱりアキラちゃん……」
背の低いおかみさんは、アキラを少し見上げる格好になる。が、聡が恐れていたとおり、その視線は聡の顔とお腹を往復し始めた。
クリスマスイブに胎児が動いて以来、聡のお腹は一回り大きくなった。
マタニティではない服で着られるものはもはや少数になり……誰が見ても妊婦だということがわかる聡である。
「どうしたの。そのおなか」
聡は顔をこわばらせた。
「……おかみさん」
そのとき、後ろを勢いよく通り過ぎた主婦に押されて、聡は少しよろける。
おかみさんは転びそうになる聡を、あわてて支えると
「ちょっと。気をつけなさいよ!」
と押した主婦の後姿に向かって怒鳴りつけた。しかしその主婦は謝ることもなく人ごみに消えてしまった。
「……まったくもう。大丈夫?」
「はい……」
おかみさんは、何と声をかけたらいいのかわからないようで、二人の間にはスーパーの特売品を告げるアナウンスだけが通り過ぎていく。
妊娠してからというものの、お弁当屋には顔を出していない。
毎年恒例の黒豆も、今年は実家に帰らないから、と断ってしまっていた。
なぜなら……このお弁当屋の夫妻には『海外にいる婚約者の子供』という嘘が通じないことがわかっていたからだ。
「何を買うの?」
おかみさんは、これ以上聡のお腹には触れずに、いつもの調子で話し掛けてきた。
「あ……お肉とか。果物とか……、あ、おそばも」
「お肉だったら、表のお店のほうが安くていい肉だよ。果物は……みかんでよかったら、うちの里から送ってきたのが山ほどあるから分けてあげるよ。そばも手打ちのをあげるよ」
おかみさんは親しげに聡の手を引っ張ろうとした。
「そんな……いいです」
遠慮に隠していたバツの悪さが加わって、聡は目の前で手をぶんぶんと振った。
「いいって。遠慮しなさんな。あ、あんたの好きな黒豆もわけてあげるから、店においで」
おかみさんの力強い手に、聡がかなうはずがなかった。
大晦日の今日は、昼までの営業だったという弁当屋のシャッターを背の高さまで中途半端にあげて、おかみさんは聡を中に招き入れた。
店の中は大掃除も早めに済ませたのか、こざっぱりとしている。
「はい、黒豆」
おかみさんは厨房に入ると、ステンレスの大型冷蔵庫の中から瓶を取り出してカウンターに置いた。
ガラス瓶の中で、黒い煮汁に沈んでいる大粒の黒豆の姿が透けて見えている。
「おかしいと思ったんだよね。アキラちゃんが実家に帰らないなんて」
おかみさんは、さらに弁当を入れる白いビニール袋の中にみかんを気前よく入れていく。
「それで、おなかの赤ちゃんは、あの……山田さん、じゃなくて官房長官のお坊ちゃんの子供なの?」
いきなり本題を切り出したおかみさんに、答えられない聡は下を向くしかない。
それでおかみさんは、聡のお腹の子供の……世間的に許されない父親が誰かわかってしまったらしい。
いっそう真剣な顔になる。
「そうなんだね。……それで、学校は続けてるんだね」
それだけはうなづくことができた。
「学校には、何ていってるの」
つまり、教え子の子供である事実をどう隠しているのかを、おかみさんは訊いているのだ。
「……前の婚約者の子供で……籍を入れたことにしてるんです」
聡は息もたえだえになりながら、なんとか答える。
「そう……」
おかみさんは深くため息をついた。
それだけで、ことのおおよそがわかったようだ。
「萩の親御さんにも内緒なの?……独りで産むの?」
責めることなく、おかみさんは聡を本気で心配しているらしい。
下をむいた聡の顔をのぞきこむようにかがむ。
……今の聡には、本当にわからないのだ。
将が東大に合格すれば、本当に結婚できるのか。合格しなかったらどうなるのか。
5月にこの子が生まれるとき、自分はどうなっているのか……まるでわからないのだ。
聡は右手を膨らんだお腹にあてて、立ち尽くしていた。
お腹の胎児だけが、また少し動く。
まるでそれが見えたようにおかみさんが口を開いた。
「……今、何ヶ月なの?」
「……6ヶ月に入ったところです。あの」
聡はおかみさんに向き直った。
「このことは、店長には言わないでください」
聡の必死の形相に、おかみさんは目を見開く。喉元を飲み込んだ息が通っていくのがはっきり見えた。
「お願いします」
聡は深く頭を下げた。
一呼吸置いたあと、聡はおかみさんに抱えられるようにして、下げた頭を起こされた。
「……誰にも言うもんかね」
優しい視線が聡に注がれている。
「あんたが困るなら、うちの人にも、誰にも言わないよ」
温かい瞳。少したるんだ二重瞼が……目を取り巻く小じわが……今までの苦労を刻んだその小じわが、温かさをひときわ信頼できるものにしていた。
「すいませんっ……」
聡は申し訳なくて、再び頭を下げた。熱い水分が逆流したように目の裏に集まってくるのがわかる。
「それより、アキラちゃん」
おかみさんは聡の背中を優しくぽんぽんと叩く。
「赤ちゃん生むのに、困ったときはいつでも呼びな。あたしがなんでも手伝ってあげるから。……大丈夫だって。いざとなったら子供なんて勝手に育つんだから……」
おかみさんは、聡が子供を独りで産む覚悟をしていると、勘違いしたらしい。
「おかみさん……」
だけど違うとも言い切れない聡は、もう耐えられなかった。
必死で耐えていた不安に優しさを注がれて……決壊を破ったように、瞳から涙がいっせいに溢れた。
そんな聡の肩を、おかみさんは背伸びをするようにして抱きしめた。
ところで、二人は気付いていなかったが、シャッターを背の高さだけに開けた弁当屋をのぞきこむ男がいた。
年の瀬の商店街には明らかに不似合いな、鋭い目付きは隠しようがなかった……。