聡が将のマンションに着いて1時間後に、将が現れた。
「アキラ!」
将は変装のニット帽を脱ぎながら駆け寄ってくると、キッチンにいた聡を抱きしめた。
久々の自分の部屋との再会だというのに、そんなことはまるで忘れて、将は酸欠になったように聡の髪の香りを嗅いだ。
「あ、また大きくなった?おなか」
こうやって向かい合って抱き合うと、膨らんだお腹が将を押し返すようだ。
「……わかる?動くようになってから一回り大きくなったみたい」
聡が言い終わる前に、待ちきれない将は聡の唇に自分のそれを押し当てていた。
短い冬の日が、レースのカーテンを早くもオレンジがかった色に染めている。
長い口づけのあと、聡はようやく将が持ってきた風呂敷包みに気付いた。
「これ何?」
「ああ。ハハオヤがアキラにって。無農薬野菜だからとか言ってた」
以前、将が純代を呼ぶときは吐き捨てるような『アイツ』という呼び方だった。
だが聡に注意されたのもあり、最近は『ハハオヤ』になっている。
口調から、ほんの少しだけ、純代に対して気を許しつつあるのがわかって、聡は微笑んだ。
風呂敷包みを開くと、三段重ねの重箱が姿を現した。
その艶から輪島塗のいいものであるのは聡にもわかる。中身はどうやらおせち料理らしい。
「すごい……。明日までこれで十分だね」
聡は三段の重箱をテーブルに展開しながら呟いた。
煮物に伊達巻、昆布締め、ごまめといった伝統的なものから、ローストビーフまである。
「えー。俺はアキラがつくった料理が食べたいよ」
そんなもの、という目付きでチラリと重箱の中身をみやった将は、カステラのような焼色の伊達巻が重箱の幅いっぱいに入っているのを見つけた。
そのふっくらとした黄色い切り口から、子供の頃大好きだった車えびのすり身と卵を使った上品な甘い味を思い出す。
エビは純代自ら擂り粉木を持って丁寧に擂ったものだ。
それを手伝うべく、すり鉢を押さえる子供の頃の将は、唾を飲み込みながら中身を覗き込んだものだ……。
重箱の一番下の段には、紅白の餅まで入っていた。これは、大磯から送ってきたものだろう。
大磯の巌の邸宅では近所の人を呼んで、毎年年末に餅つき大会をやっていた。
この餅つきの後、ほうぼうに飛びちった餅を拭き取るところから大掃除が始まるのが大磯の恒例だった。
さすがにもう杵は振り上げなかったが、おかしな音頭を取って皆を笑わせていたヒージーの声がふいに将の胸に蘇る。
「将、どうしたの」
聡の声でハッとする。
「あ、ボーっとしてた。昨日徹夜だから」
重箱から飛び出した幼い頃の思い出が、胸の中で痛いほどに膨らんでいた将は、とっさに誤魔化すしかない。
「コーヒー淹れるね」
聡はカウンターキッチンに入るとお湯を沸かした。妊婦らしくなったとはいえ、まだその動きは軽い。
「アキラは飲むなよ。アキラはハーブティか麦茶だからな」
将は照れ隠しに、お腹の子を気遣うべく注意を与える。カフェインを避けてのことだ。
「わかってる。将は一息入れて」
「うん」
将はダッフルを脱ぎながらソファに腰掛ける。
聡の顔を見て安心したのか、怒涛のように眠気が襲ってきて……あっという間に将はソファで意識を失っていた。
「将。コーヒー入ったよ」
聡が振り返ると、将はソファにひっくり返ってぐうぐう眠っていた。
どうやら昨日徹夜したというのは本当らしい。
少しだけ寝かせてやったほうがはかどるだろう。
聡はそう判断すると、残りの湯で自分の分のハーブティだけを淹れて、将のそばへと移動する。
将の頭の下にクッションを差し込んでやりながら寝顔を眺める。
連日の勉強で、さすがの10代でも少しやつれているのがわかる。
「将……ごめんね」
額に掛かっている将の髪をかきあげながら、聡は呟く。
自分のせいで無理をさせることになってしまったから……。お腹の胎児もそれに呼応してか、少し身体を揺らした。
将の顔を見ながらフローリングの床に腰を下ろそうとした聡は、手をついた床にわずかな違和感を感じて、床に目を落とした。それは傷だった。
目を低い位置に落として確認すると、それは何かを鋭い刃物を床に突き刺したような跡だった。
中にほこりなどが入り込まないようにワックスを塗りこんであったが、間違いない。
傷はリビングに何箇所かあった。いずれも、ものすごい力で突き刺さしたことが一目でわかる深さだった。
前に……聡を守ろうとして傷つきひどい風邪を引き込んだ将を看病した聡は、ここで仮眠を取ったのだが、そのときはこんな傷はなかったはずだ。